<十一>人と妖は相容れず
◆◆◆
翌日の放課後。
重たい気持ちを抱えて一日を過ごした飛鳥は、幾度目の溜息をついた。
(落ち込むなぁ)
帰宅の支度をしながら昨晩の件を振り返る。
傷つけた妖狐らのことが脳裏にこびりついて離れない。
それに並行して、相棒であり片思い中の朔夜と微妙な空気が漂っている。これが飛鳥の心を重たくさせていた。
(やっぱり妖狐を捕縛しようとした時、勝手に呪符を解いたのはまずかったかな)
これが原因でギクシャクとした空気が双方に流れているのである。
しかしこの判断は決して悪いと思っていない。もしも捕縛していたら、突然現れた巨大な妖力を持つ六尾の妖狐に目を付けられていたに違いない。
(あの子たち。今ごろ、何しているのだろう? 怪我ひどくないといいけど)
妖祓でありながら、妖の身を案じるなどお笑い種だろう。
それでも飛鳥には気掛かりでならなかった。できることなら、もう一度、狐らに会いたいと思うほど。
「飛鳥、妖に肩入れするのは感心しないね」
教室を出るや否や、手厳しく諭してきたのは廊下で待っていた朔夜だった。
「その感情は単なる同情だよ」
彼は言う。庇い合う姿に情が移ってしまったのだと。
それでは妖祓としての責務を果たせない。
あくまで妖祓の仕事は、妖から人々を守ることにある。弱い心につけ込む、したたかな妖もいるのだ。そういう情は捨てた方がいい、と朔夜は助言する。
「まあ。そうだね」
飛鳥は表向き頷くものの、内心は釈然としない。
「朔夜くん。昨晩現れた妖狐たちは、いったい何者なんだろうね」
「それについては僕も疑問に思っていた。今度じいさまが家に来る。父よりも妖に詳しい祖父なら、何か分かるかもしれない」
「そう」
生返事をすると、朔夜が少々不安げに視線を投げてきた。
「飛鳥、お願いだから気を確かにね。気持ちは分からないでもない。だけど僕たちは妖祓なんだ。妖とは常に対立する関係なんだよ」
妖祓を憎む妖だって少なくない。
もっと気を張ってほしいと朔夜に頼まれた。
(朔夜くんらしくないな)
こんな風に彼から頼まれるのも珍しい。
「分かった。ちょっと時間が掛かるけど、ちゃんと自分の中で整理するから」
飛鳥はふたたび頷いた。今度は自分の気持ちに目を瞑って。
「優しいところは、飛鳥の長所だと思うよ」
ようやく朔夜の表情が和らいだところで、二人の脇をすり抜ける生徒がひとり。
幼馴染の南条翔だ。珍しいことに彼は飛鳥たちのことに気づいていない様子。持っているプリントをぼんやりと見つめ、廊下を歩いている。
「ショウくん」
声を掛けると、彼の足が止まり、ゆるりと振り返る。
驚くほど、力のない笑みを顔に貼り付けていた。心なしか、元気が無いように見える。
「飛鳥に朔夜。どうしたんだ? 俺、いまから職員室に行かないといけねーんだけど」
曰く、数学の再テストを提出しに職員室へ行くらしい。
「点数が悪かったの?」
聞けば、遅刻をして受けられなかったのだと翔は右手を振る。
「遅刻? ショウくんが?」
「なんだよ。変か?」
「だって珍しいから」
翔が遅刻なんて珍しい。朝には強い男なのに。
「ショウ。何か遭ったんじゃないか? 最近、体調不良が続いているしさ」
「今回は単なる寝坊。夜中までゲームをしていたせいで、明け方に寝落ちしたんだよ」
目を覚ましたら、一限目が始まる時刻だったのだと翔は口を曲げる。
どうやら親から起こしてもらえなかったようだ。
今年の四月から受験生になるというのに、いま欠課を増やしてどうするのだろうか。
(ゲームかぁ。私には面白さが分からないなぁ)
心中で呆れていると、鋭い眼光をした朔夜が翔をまじまじと観察する。
「その手首はどうしたんだい? ショウ」
朔夜が右手首を指さす。
「あ、え」
翔は急いで袖に手首を隠した。
飛鳥は見てしまう。彼の手首にはしっかりと包帯が巻かれていた。
「ちょっと捻ってさ」
うそだろう。
目を泳がせている翔はうそを苦手にしている。しかと表情に出ていた。
「左も捻ったのかい?」
目ざとい朔夜は左手首の包帯も見逃さなかったようだ。
「両手首を捻るって、どんな状態で捻ったんだい?」
よほどの体勢でないかぎり、両手首を捻るのは難しいのでは?
朔夜は努めて優しく尋ねる。
しかし、それは詰問に近かった。
早々に言い逃れを塞がれた翔はあちらこちらに目を配らせると、捻った時の状況を説明しようと……いや話を作ろうとしていた。どう考えても言い逃れはできないと思うのだが、翔は両手首を捻って「こうかな」と再現して見せる。
「捻ったのに、よく動かせるね。痛くない?」
朔夜の優しい詰問は止まることを知らない。
再現して見せた翔に「それは痛くないの?」と言葉を重ねた。
見事に石化する翔は、しどろもどろに痛みを我慢しているのだと言い訳をした。下手な言い訳であった。
「本当はどうしたの?」
飛鳥が追撃すると、完全に黙りこくってしまった。
よほど触れられたくないのだろう。顔色悪く口を閉ざしている。ひと目で隠し事をしているのだと理解した。それだけ重い事情なのか、それとも。
「南条。お前、こんなところで何しているんだよ。岡村が首を長くして待ってるぜ?」
第三者の登場により話が切られてしまう。
翔の隣に立つのは米倉聖司、翔のクラスメイトであり、翔の悪友であった。
米倉もまた再テストを受けていたらしい。一足先に答案を提出した米倉は担任からの伝言を翔に告げた。
「やべ。岡村を待たせているみたいだ。そういうことだから」
助かった。
表情を明るくする翔はそそくさと逃げようとする。
そうは問屋が卸さない。朔夜は隠し事を貫こうとする翔の背中を一瞥すると、米倉に話題を振った。
「米倉、ショウの包帯のことを何か知ってるかい?」
「包帯? ああ、犬に噛まれたって奴か?」
「へえ。犬に? ショウ、犬に噛まれたんだ」
ぎくり。肩を震わせるうそつきを逃がすまいと後を追った朔夜が翔の手首を掴む。
朔夜と飛鳥には捻った。米倉には犬に噛まれたと説明している。これほどつじつまの合わない話はない。
飛鳥が見守る中、朔夜は追及する。
「本当はどうしたんだよ。これは一体なんの怪我なんだ」
朔夜がここまで執拗に聞くのは、ここ最近の翔の様子がおかしいからに尽きる。彼なりに心配しているのだ。それを知っているので、飛鳥は見守ることに徹底した。
「ショウっ!」
朔夜の語気が強くなると、負けず嫌いの翔も意地になり始めた。なんでもないの一点張りとなった。どこか、喧嘩腰となってきた。
「べつに、怪我くらいするだろ。なんでもねーから、早く行かせろって」
「だったらどうして、うそばっかり言うんだい。ショウらしくもない。遅刻の話もそうだ。本当に、ゲームをして寝坊していたのかい?」
「朔夜には関係ないだろう。俺が遅刻しようが、怪我しようが」
「はあ。うざいくらい落ち込んでいると思ったら、今度はそういう言い訳かい?」
「うぜーってなんだよ。うぜーって」
「本当のことじゃないか」
あ、まずい。
飛鳥は急いで二人の間に割って入った。
「朔夜くん、あんまり強く詰めないで。ショウくんの性格を知っているでしょ。ショウくんも、何をそんなに意地になっているの?」
「ショウ。お前はうそが下手なんだよ。うそをつきたいなら上手くつくんだね。鬱陶しい」
「鬱陶しいなら構うなって言ってるだろう。うぜえのはどっちだ」
「ああもう。朔夜くん。ショウくん」
「お、おい。お前ら。落ち着けって」
段々と熱の入ってきた言い合いに、米倉も間に割って止めに入る。
朔夜は翔の態度に腹を立てているが、翔の方は目に映るものすべてに苛立っているようだ。そんなにも怪我のことに触れてほしくないのか。朔夜を突っぱねるようなことばかり言っている。
(こんなに本気で言い合うなんて、中学ぶりかも)
高校に進学してからめっきり見なくなったと思っていたが、久しぶりに見たな、と飛鳥は思った。
激しくなっていく言い合いは廊下に響き渡る。
通りがかる生徒たちが足を止め始める中、とうとうこの言い合いに終止符が打たれた。
それは双方のうちどちらが折れたからではなく、立ち去ったわけでもなく、翔の体が崩れてしまったせいであった。
血の気が引くのを感じた。
「しょ、ショウくん!」
「ショウっ!」
「お、おい南条!」
怒鳴り声が悲鳴に代わる。
その場に倒れてしまった翔に声を掛けると、彼は肩で激しく息をしていた。今しがた言い合いをしていたとは思えない顔色をしており、こめかみには玉のような汗を流している。
どうにか自力で上体を起こしていたが、それ以上の力は出ないようだ。
胸を押さえながら「苦しい」と呟いた。意識は保っているようだが、立つことができないようだ。
「か、感情的になり過ぎてっ……制御がっ……臭い、音っ、まぶしい」
小さな呟きは聞き取ることが難しい。
「吐きそうっ」
その言葉は聞き取ることができた。
いち早く動いたのは朔夜であった。米倉に近くの教室からごみ箱を取ってきてほしいと頼んだ。男子トイレに運ぶより、この場で吐かせた方が良いと判断したのだろう。
近場の教室に飛び込む米倉を見やると、飛鳥は朔夜たちに翔を任せて職員室へ向かった。大人に助けを求めた。
そこからとんとん拍子で事が進む。
倒れた旨を聞きつけた担任がすっ飛んで来るや、翔が落ち着くまで傍についた。
保健室から養護教諭も赴き、生徒の容態を確認。翔に落ち着きが戻ると、保健室のベッドまで誘導していた。
ぐったりとベッドの上で寝込む翔の体温はどうやら高熱。
ただの風邪ならば良いが、親御さんに迎えに来てもらうのは良いだろう。病院で診断を受けた方が良い、と教師同士で話し合っていた。
「あ、包帯が解けかけている」
養護教諭が翔の右手首を確認する。
包帯の下を目にした途端、ずいぶんと険しい顔になっていたので、思わず飛鳥たちも盗み見た。皮膚が真っ赤に焼け爛れていた。どう見ても捻った傷ではない。犬に噛まれた傷でもない。
やっぱり翔はうそをついていた。
(ひどい……)
なんで翔がこのような怪我を。
「和泉。ちょっといいか」
「はい」
倒れた当時のことを聞きたいのか、担任が朔夜を保健室から連れ出した。
「楢崎さん。南条さんの荷物を持って来れるかしら」
飛鳥は養護教諭に頼みごとをされた。
本当は寝込んでいる翔の傍にいたい。
話せそうなら、傷のことについて聞きたい。
なによりそういうことは同じクラスの米倉に頼んでほしいのだが、彼は「南条の席は窓側だから」と言って飛鳥に荷物運びを押し付けた。
眉をつり上げる飛鳥に臆することもなく、米倉は意味深長に笑う。
「お前らにうそをついていた南条クンの気持ちを察してやれよ」
どうせ怪我のことを聞こうとしていたんだろう? やめとけやめとけ、今度は倒れるだけじゃ済まない。米倉はおどける。
「幼馴染病にかかっている南条が、お前らにうそついたなんて明日は大雨だな。それとも、南条クンの奴、お前らに愛想を尽かしたのかねえ。いつも約束をすっぽかされているって嘆いていたから」
「米倉くんには関係ないでしょ」
「あるね。俺はこいつの幼馴染病に付き合わされているんだから」
早く荷物を取りに行け。
しっしっと手を振る米倉に苦い顔を作るも、言い返す言葉が思い浮かばず、言うとおりにするしかなかった。
飛鳥にとって米倉は苦手であり、嫌いなタイプであった。
「さあて南条クン。吐き気と自己嫌悪は、そろそろ止まりそうか?」
はてさて。
飛鳥を遠ざけた米倉は、ベッドの上で狸寝入りする翔に声を掛ける。
いくぶん気分が良くなったのか翔は話す元気を取り戻していたが、か細い声で「もう無理」と弱音が返してきた。
「米倉。俺は貝になりてえよ」
「争いも喧嘩もない海に帰りたいってか?」
「味噌汁にでも入れて食ってくれ」
「海に帰れてねえし」
もう嫌だ。なんで意地を張ったんだ。
毛布をかぶる翔に米倉はため息をついた。
「あのなあ。落ち込むくらいなら、最初から喧嘩すんなよ。南条の幼馴染大好き病は重いんだぜ? 自覚あるだろうよ」
「……俺だってあいつらに怒りたい時もある」
「今回の八つ当たりに見えたけど? お前、包帯のことを聞かれて腹立ったんだろ? 大好きな幼馴染でさえ怪我のことは触れられたくねえのに。くそがよぉ! ……ってところか?」
おどけると長い唸り声が耳に飛び込んでくる。
翔なりに八つ当たりした自覚はあるらしい。
それこそ翔らしくない態度だが、おおよそ原因は幼馴染にあるのだろうと米倉は考えている。
「そんなに触れられたくなかったのか? その怪我」
「……米倉。俺、合コンに行きたいな」
「は?」
「今度いつするんだ?」
「はあ?」
突然の翔の申し出に、米倉は混乱してしまう。
だってあの幼馴染大好き野郎が、楢崎飛鳥のことが好きで好きで堪らないと態度で示していた野郎が合コンに行きたい、だと? 誘っても来なかったくせに! 明日は雨か雪か霰か。
「希望としては、おしゃべりが好きそうな子。背は小さめで」
こんな時に合コンに行きたいと言い出すなんて。
それは一途な気持ちを断ち切るという決意の表れなのか、それとも押しても駄目なら引いてみろという策なのか。
米倉には意図が読めなかった。
(どうしたんだよ南条)
米倉はいつも翔の恋心、そして幼馴染に対する心を弄っていた。
しかし、それは本気なものではない。翔が本気で嫌がる素振りを見せたら、すぐに場を弁えていたのだが……。
様子から察するに、翔の申し出は本気だった。投げやりではなさそうだ。
「南条の体調次第だな」
「今週末くらいには調子を取り戻しているといいな」
「カラオケでいいか?」
「ボーリングでもいいぜ」
「ゲーセンは?」
「大あり。合コンつまらなかったら、俺と抜けてゲーセン行こうぜ」
「おいおい。俺とデート希望か? 俺はお高いぜ」
米倉がへらへらと笑うと、翔もつられて笑った。
顔色はまだ悪いままだった。
「南条。大丈夫か」
担任が朔夜を率いて保健室に戻ってくる。
翔は青ざめた顔のまま、まったく大丈夫ではないと返した。
その一方で八つ当たりを反省したのだろう。言い合いをした朔夜に謝っていた。今日一日体調が悪くて苛立っていたこと、そのせいで八つ当たりしてしまった。ごめん、と。
荷物を持って戻って来た飛鳥にもしっかりと謝り、怪我については本当に何でもないことを話していた。
米倉は思わず口笛を吹きたくなった。
(ずりぃよな南条)
あんな謝り方をされたら、朔夜も飛鳥も詰めることができないだろう。
(今回はこりゃ南条の反則勝ちだな……それにしても)
米倉は思う。
翔は幼馴染らと距離を置きたいのではないか、と。
以前の翔であれば、合コンは当然のこと、怪我についてもうそ偽りなく話していたはずだ。
(それができないってことは)
きっと幼馴染らに後ろめたさがあるのだろう。距離を置きたいのだろう。何かしら思うことがあるのだろう。
(南条の希望も聞いたし、近々合コンを計画すっかな)
三人いつまでも仲良しこよしなど理想のまた理想だ。どこかで分かれ道に差しかかる。
(今までの南条はそれを怖がっていたみてぇだけど……現実を受け入れようと思ってるのかもな)
もしも翔が幼馴染の関係を卒業したいのであれば、少しは手助けしてやっても良いかもしれない。
正直、悪友を交えた合コンをやってみたい気持ちもある。
(南条が来たら楽しくなるだろうしな)
なんだかんだで、米倉と翔は気が合う。
いっしょにばか騒ぎができる上、まったく遠慮がいらないのだ。
気を遣わなくていい一方で、米倉のやりたいことを翔が汲んでくれる。逆も然り。
いっそ幼馴染のポジションを奪ってみるのも楽しいかもしれない。
(なーんてな。執着されるのはごめんだし、今のままが楽だから、このままでいいや)
米倉はベッドにいる翔に視線を戻した。
担任と話し終えた翔は窓辺に視線を留めていた。
そして射し込む夕陽に見惚れていた。それは、それは嬉しそうに暮れていく陽に見惚れていた。
(……南条?)
何故だろう。
その目が異様に怖く、恐ろしく、狂気が宿ったように見えてしまった。米倉は何度もかぶりを振って気のせいだと言い聞かせる。
「どうした米倉」
ふたたび翔に目を向けてみると、いつもの翔がそこにはいた。
狂気の宿った眼はどこにもなかった。