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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【弐章】名を妖狐と申す
29/158

<十>日輪の社(肆)


 相変わらず、向こうに見える参道は賑わっているようだ。

 妖らの井戸端会議(いどばたかいぎ)の声や、出店を開く妖らの威勢の良い掛け声が途切れもなく聞こえてくる。


(この賑やかな雰囲気、俺は嫌いじゃないな)


 翔はふわふわとする足取りに力を込め、本殿を目指した。

 話の途中で抜け出してしまったが、聡い比良利のことだ。翔がうそをついていることはとっくに見抜いていることだろう。

 それでも気づかぬ振りをして行かせてくれた比良利に感謝した。


(ここにいたらいいんだけど)


 本殿に到着する。

 貫禄ある漆塗りの柱を横切り、捻られた太い注連縄(しめなわ)の下を歩いていた翔は、裏手に回って事細かに景色に目を配った。


 そこには生い茂った草の塊やヒガンバナが息づいているばかり。にょきにょきと伸びている名も知らない木の幹を叩き、周囲を歩き回っていると、ぴたりと足が止まる。


 数十メートル先、本殿の縁の下に上半身を突っ込んでいる獣がいた。ギンコだ。

 銀狐の後を追ったツネキの姿は見えない。ギンコ一匹だけのようだ。


 ギンコは前足で器用に何かを掻いている。

 ころんと狐の股を潜り、後ろへ転がったのは色あせた桜柄の手まり。刺繍模様が見事だ。振り返って鼻先でそっと押すギンコの様子に、翔は目を細めてしまった。

 あれはもしや、ギンコが隠したという……。


(ギンコ。自分のいる月輪の社じゃ見つかると思って、日輪の社本殿に隠したのか)


 月輪の社の隅々を探しても手まりがないと先代が知れば、優しい姿に戻ると信じたに違いない。

 優しさを欲し、愛情を欲し、先代のぬくもりを欲した狐の心の傷は計り知れない。


 嗚呼、けれど、けれども。


 複雑なことに、銀狐はきっと先代を憎みきれていないのだろう。

 捨てることもできただろうに、ああやって手まりを縁の下に隠したままということは、つまりそういうことだ――自分はギンコを勘違いしていた。忘れていた。ギンコはただの狐ではない。感情のある妖狐だという事実を。


 愛嬌ある狐は、いつも自分に甘え、懐いてくれた。


 だから失念していたのだ。

 あの狐も翔と同じように感情があり、ヒトと同じように悲しんだり、憎んだり、誰かの愛情を欲したりする生き物だということを。


 翔を庇ってくれた銀狐は、常に自責をしていたに違いない。

 翔がどんなに気にしていないと言っても、片隅で翔を化け物の道に追いやってしまった現実に責任を感じていたのだ。


 それに、どうして早く気づいてやれなかったのだろうか。


 スンと鼻を鳴らし、ギンコが手まりを勢いよく転がす。

 勢い余って翔の方へと転がり、それはつま先に当たった。

 そっと拾うと手まりを追おうとしていた狐と視線が合う。ギンコは飛び上がるように驚き、身を震わせて翔を凝視してきた。


「そんなに驚くことないじゃんか」


 頬を緩め、何をしているのだと言葉を掛ける。

 決まり悪く鳴く狐は、いつものように尾っぽを振ってくれない。


「お前が、急に飛び出すから心配していたんだ」


 その場にしゃがむ。

 微笑んでも、獣は体ごと横を向くばかり。一切、翔と目を合わさそうとしない。


「ギンコ」


 自分のつけた名を口にしても反応は薄かった。

 少しでも近寄れば、一目散に逃げられそうなので翔から歩むことは難しい。

 手の中にある、手まりに視線を落とす。近くで見れば見るほど、色あせた手まりであった。先代が死んで九十九年、既に百年は経っている代物だろう。

 角度を変えてそれを見つめていた翔だが、ようやくギンコに向ける言葉を見つけ、そっと口を開く。


「ごめんな、お前を怪我させて」


 痛い思いをさせてしまった一件について、真摯に詫びる。

 ギンコの微動だにしない。謝罪を受け取ってはくれないようだ。


 それは怒っているのではなく、明らかに負い目からだろう。

 心中察していた翔は間を置き、幼馴染に狙われた現状について、つらかったことを吐露する。半妖になったばかりに、調伏(ちょうぶく)の対象になるなんて夢にも思わなかった。


「俺は今でも、あいつらのことが大好きなのにな」


 耳が痛いだろうに、狐はジッとそれを聞いている素振りを見せた。

 責任を感じ、聞かなければならないと思ったのだろう。

 それを察していたからこそ、翔は胸の内を明かした。自分とギンコのために。


「俺さ、妖になることが怖い」


 できることならヒトでいたい。

 妖になることで、幼馴染との関係を崩すことが恐ろしい。


「そのことで、俺は無意識の内にギンコを責めていたかもしれないな」


 赤裸々に告げると、狐が一歩後退した。 

 好意を寄せてくれるギンコには辛辣な言葉だろう。分かっている、でももう少しだけ話を聞いてほしい。


「だけどさ。今回一番つらかったことは、大切にしている幼馴染を憎む未来があったかもしれないことなんだ」


 もしギンコを失ってしまっていたら、まぎれもなく翔は幼馴染を憎んでいた。


「ごめん。怪我させて本当にごめん」


 苦言を漏らす翔は、幼馴染の分まで謝ると頭を下げた。

 予想外だったのか、目を真ん丸にしてギンコがうんっと小さく首を傾げてくる。翔が謝罪する意味が分からないようだ。


 ならもっと噛み砕いて伝えたい――飾りっ気のない自分の気持ちを。 


「俺は半妖になったことを、無意識に責めていたかもしれない。落ち込む度に、ギンコに責任を感じさせていたかもしれない」


 だけど。


「俺はお前を嫌いになんてなれなかった。いっそ嫌いになって責めた方が楽だったかもしんねえ。でも無理だ。お前は俺を救ってくれた。それがなくても、ギンコと過ごした日々は俺にとって大切な宝物なんだ」


 だから、だからこそ幼馴染が犯した罪は自分の中で大きい。

 それだけギンコが大切で、可愛くて、大好きな存在なのだと泣き笑いをこぼした。

 酒が入っているなのせいか、それとも先ほど赤子のように泣いたせいか、ふたたび涙腺が緩んでしまう。


「お前と関わらない道なんて幾らでもあった」


 例えば、妖に追われていた狐を、見捨てることもできた。

 例えば、妖に狙われている狐を、気づかぬ振りをすることもできた。

 例えば、妖から奇襲を掛けられた際、狐を差し出し、自分だけ逃げることもできた。


 幾らでもギンコと関わらないようにする道はあったのだ。


 しかし翔はそれができず、ギンコとこうして向かい合っている。それはまぎれもなく翔自身が、ギンコと関わりたいと願い、選んだ道なのだ。


「お前を失うことが怖かった」


 手まりを握り締める。


「ギンコが神使だから関わろうと思ったわけじゃねえんだ。お前が俺に優しくしてくれたから、助けてくれたから、いつも傍にいてくれたから、俺はお前と一緒にいたいと思ったんだ」


 ゆるりとギンコと視線を合わせる。

 揺らぐ小さな瞳が、いまにも降りそうな曇天模様と同じ色をしていた。

 翔はスンと鼻を啜り、目尻を親指でこすって必死に唇を動かす。不器用な翔には気障な言い回しは思いつかない。

 それでも伝えたかった。


「俺は神使のオツネを失うことが怖かったんじゃない。可愛くて仕方ないギンコを失うことが怖かった。神使じゃなくたっていいよ。お前を俺は失いたくない。今も、これからも。お前はギンコだ。俺の可愛いギンコだ。大好きな妖狐だ」


 先に動いたのは銀狐だった。

 後退していた後ろ足で土を蹴り上げ、小さな体躯を活かして妖狐の懐に飛び込む。

 翔はその狐を目いっぱい抱きしめ、胸部に顔をこすりつけてくるギンコに顔を寄せた。スンスンと鳴く狐の体をさする。


「ごめん、ごめん、怪我をさせてごめん。無意識に責めてごめん。お前のことはやっぱり嫌いになれない。大切な俺のギンコだよ」


 涙声で訴える。

 頬を伝う雫を舐め取り、慰めてくれる狐も泣いていた。

 涙は見えないが、きっとその心は泣いている。

 責任を感じ、常に良心の呵責に苛んでいた心がようやく解放されたのだ。ギンコは今、見えない涙をいっぱい流しているに違いない。


「ギンコ。くすぐってえよ」


 何度もわしゃわしゃと体を撫でて慰めを返してやる。狐がスンと鳴く度に相づちを打ち、大好きだと繰り返し、怪我させてしまった詫びと助けに来てくれた感謝を述べた。


「これからも俺の傍にいてくれよ。ギンコ」


 化け物になったことを嘆くばかりではなく、こうしてかけがえのない出逢いを得られたことに喜ぼう。

 ギンコと出逢えたことをなかったことにするなんて、翔にはできっこないのだから。




 賑わいを見せている本殿表に戻る。

 ギンコを抱いたまま参道の賑わいを眺めていた翔は、ふと片手におさめていた手まりに目を落とした。

 それをそっとギンコに差し出し、ゆるりと尋ねる。


「これは先代との思い出だろう?」


 驚く狐にごめんと詫びる。


「比良利さんから話を聞いたんだ。それこそ妖術のことや宝珠の御魂のことも」


 決まり悪そうに、クックッと鳴くギンコに目尻を下げた。


「お前の中にもう宝珠の御魂はない。時期に妖たちもそのことを知るさ」


 これにより、ギンコの重枷が一つ取れた。銀狐は自由に外へ出られるのだ。悪しき妖らから無闇に命を狙われることも、少なくなるだろう。

 もちろん人里は妖祓がはびこっているため、あちらこちらに出歩かれると困ってしまうが。

 今度は翔が妖たちに気づかれないよう、ギンコの意志を継ぎ、宝珠の御魂を守る番だ。


 ギンコがシュンとしてしまう。自分を責めているようだ。

 そんなギンコにひとつ笑い、狐の鼻先と自分の鼻先を軽く合わせる。


「大丈夫。俺が半妖であるかぎり、日常生活でばれないだろうさ。宝珠も正体も」


 けれども、翔は妖の世界に入ったばかり。知らないことが多い。

 時に失敗を犯すこともあるだろうし、傷つくこともあるだろうし、危機に陥ることもあるかもしれない。


「その時は、俺を助けてくれないか? ギンコ」


 見上げてくる狐に願い申し出る。


「お前は妖術が使えなくたって、俺を助けてくれる勇敢な狐だ。なんたってこの命は、お前に助けられたんだ。ギンコの強さは、誰よりも知っているよ」


 片目を瞑って、ギンコに頬ずりをすると、何度も顔を舐められた。

 約束すると言わんばかりに尾っぽを振ってくれたため、翔もギンコが危機に陥ったら、何度だって走ると約束した。あくまで神使のオツネではなく、銀狐のギンコのために。

 翔の好きなのはいつだって、ギンコ一択しかない。


「周りがなんと言おうと、お前は強くて立派な妖狐だ。自信を持てよ」


 有りの儘に気持ちを伝えて前方を指差した。

 指先の向こうを見つめるギンコに、境内の世界は狭いことを伝える。

 こんなところに九十九年も閉じ込められるなんて、正直気が狂いそうである。自由をこよなく愛するギンコなら、なおさらのこと。


 そこで翔は約束を結ぶ。


「いつか俺と外に遊びに行こう。色んな世界を見よう。俺がギンコを外に連れ出すから」


 生まれ育った町の、さらに向こうの町を目にするのもいい。

 名も知らぬ山を見るのもいいし、バスを乗り継いで海を見に行くのもいい。


「色んな物をたくさん見て聞いて知って、それからゆっくりと神使になればいいんじゃないか。ギンコの歩調でさ」


 どうせ神使から逃げられない運命ならば、人生楽しくありたいもの。

 翔はギンコに楽しさを教えたかった。


「今は先代のことを許せなくてもいい。でも、いつかお前はその狐を許せるときが来る。この手まりを見て、優しかった先代の思い出と向き合える日が来る。きっとギンコは許せるよ。本当は許したかったんだろう?」


 手まりを見てギンコは何を想い、どのような気持ちを寄せているのかは分からない。

 ただ先代の天城 惣七(あまぎ そうしち)が居なくなってしまったことに、なんらかの思いはあるはずだ。


 そういう表情をしている。


「俺も努力するよ。たくさん悩むこともあるだろうけど、ちゃんと前に進みたい。ゆっくりと妖の自分を受け入れていこうと思う。難しいと思うけどさ」


 戻れないのならば、前進するしかないのだ。

 前へ進むしか道はない。


 翔はギンコの体を天高く持ち上げ、獣に何処へ行ってみたいと問う。


「海でも山でも川でも、都会でもいいよ。いっしょに外を見て回ろう」


 どこにだって連れて行くつもりだ。

 そこで嬉しいことや楽しい気持ちを教えよう。

 だからどうかギンコも翔に、妖の素晴らしさを教えてほしい。


「お前と一緒なら、絶対に乗り越えられると思う。これからも、よろしくな」


 いつものように元気良く尾っぽを振ってくれるギンコに嬉しくなった。

 ふたたび腕の中にギンコを戻すと、鼻先を翔の唇に押し当ててくる。

 これには思わず苦笑い。許婚がいるだろうに。


「そうそう。お前を外に連れ出す約束は、誰にも言うなよ。俺が説教を食らっちまう」


 これは翔とギンコだけの秘密だ。

 そっと人差し指を立てる。

 フンフンと鼻を鳴らして胸部に頭をこすり付けてくる銀狐は、ただただ嬉しそうだ。その姿は微笑ましくなり、小さな頭を軽く撫でてやる。



 それから、どれほど本殿前で佇んでいただろう。

 飽きることなく参道の光景を眺めていると、憩殿の方角から比良利が歩いて来た。あまりにも翔の帰りが遅いため、わざわざ赴いてくれたのだろう。


「どこをうろついているのかと思ったら、ここにおったのか」


 呆れる比良利の姿を目にしたギンコが軽く唸る。

 彼と距離が詰まると、そっぽ向いてしまった。が、丸まっていた尾っぽが素っ気無く比良利に差し出される。

 目を丸くする比良利を余所に、翔は銀狐の心情を察して思わず噴出してしまった。


「きっと、助けてくれたお礼を言っているんだと思うよ。俺とギンコを助けに来てくれたのは比良利さんだからね」


 あさっての方向を向いたまま微動だにしない銀狐は否定する態度を取ろうとしない。肯定と受け取っていいようだ。


「オツネ……」


 ギンコの素っ気無いながらも感謝を表した態度に、比良利はそっと頬を崩す。


「わしはお主ほどのことはしておらぬよ、オツネ」


 けれども。


「お主の気持ちはまことに嬉しいもの。真摯に受け取っておくことにする」


 差し出された尾っぽを軽く握り、どういたしましてと返事した。

 これだけでも、彼らにとって意味のある大きな一歩ではないだろうか。ギンコ自身、比良利に直接的な恨みは抱いていない。仲が改善される日も近いだろう。


(恨んでばかりじゃダメだって、お前も分かっていたんだよな。ギンコ)


 と、ギンコが硬直した。


「どうしたギンコ?」


 石化してしまう銀狐に視線を送った後、何気なく比良利の方へ目をやる。

 うへへ、口元を緩めて尾の付け根を撫で回す、セクハラ狐がそこにはいた。


「は?」


 呆れて物も言えない翔に対し、ギンコは堪忍袋の尾が切れたらしい。

 翔の腕から飛び出すと後ろ両足で比良利の顔面を蹴り飛ばした。たいへん素晴らしい勢いであった。


 ふぎゃ。奇声を上げてその場に尻餅をつく比良利は、「しまった。つい手が!」と、十本の指を余すことなく動かして千行の汗を流していた。

 宙を返って着地したギンコは冷たい眼で比良利を見つめ、グルルッと低く唸る。


「悪気はなかったのじゃ。そなたの美しい尾っぽが、わしを(いざな)うもので、つい」


 なにが、つい、なのか。


「比良利さん。ギンコだって、女の子なんだぜ? 無暗に触られたら嫌に決まってるじゃんか」

「そう言って、己もどさくさに紛れて触っておろうに」

「人聞きが悪いんだけど! いや狐聞き? どっちでもいいや。俺、ギンコが嫌がるようなことはしねーよ!」


「尾っぽの魅惑に勝てぬオス狐などおらぬ、わしがそうじゃ!」


 断言されても困る。

 世の中のオス妖狐が、みな助兵衛と思わないでほしい。


「下心ありで、尻尾の付け根を触っているように見えたんだけど」


 白目を向けると、当たり前だと比良利は頷いた。


「尾っぽの付け根には、触り心地の良い尻もある。触らずしておのこと言えようか? いや言えまい」


 反語にされたところで、心に響かないのは、感性の問題だろうか。


「ギンコ。嫌なら嫌って言うんだぞ。ヒトの世界じゃ、セクハラは犯罪なんだからな」


 足元にいる銀狐の頭を撫でると、ギンコは嬉しそうに喉を鳴らした。


「ぼん、何を申すか。ここは妖の世界ゆえ、徒になる知識は通用せぬ。なにより、わしは神主。許されよう」


「宝珠の御魂は、選ぶ北の神主を間違えたんじゃねえのかな。比良利さん、一回刑に処された方がいいって」


「ええい、わしは神職のおなごにしか手を出しておらぬ。弁えておるわい!」


 比良利の右頬にギンコの尾が入ったのは直後のこと。

 ひとで例えると、張り手を食らわせた一面だろう。

 これはしばらく険悪な仲であり続けるだろう。少なくとも比良利のセクハラが改善されないかぎり。


「せっかくギンコが前を向いたのに」


 心底呆れていた翔だったが、これ以上空気を悪くしても仕方がない。

 話題を替えることにした。


「ギンコ。ツネキはどうしたんだ? あいつ、お前のことを心配して後を追って来ただろう?」


 翔の問いに歯を剥き出しにして怒っていたギンコが、こちらを振り返って弱々しく鳴く。

 獣の言葉が分からない翔に代わって、セクハラ魔のこと北の神主が代弁してくれた。頬が赤く腫れているが、触れていけないところだろう。


「ふむ。一人にしてくれたそうじゃ」


 落ち込みの度合いを察し、いまは一人にしてやるべきだろうと踏んだらしい。

 けれど、時間を置いて必ず戻ってくるとギンコに言ったそうな。

 なんだかんだで、ツネキは面倒見が良いらしい。許婚のことを真摯に心配していたことといい、翔に本気で憤ったことといい、ギンコを真っ直ぐ想っていることといい。彼は良きオス狐だ。


「ちゃんとお礼を言えよ。俺、あいつにどやされたんだからな」


 しゃがんでギンコと視線を合わせる。

 やや気恥ずかしそうに耳を垂らすギンコも、ツネキを心から嫌っているわけではないらしい。性格に難があるだけなのだ。いや、素直になれないのかもしれない。可愛い一面もあるものだ。


 クスッと笑声を漏らしていると、賑わう向こうの参道から鳴き声が聞こえた。

 噂をすればなんとやら。ツネキが参道を駆けていた。


 口には一本の枝。

 その先端には球体の飾りや花が付いている。出店で売られていた物を購入し、落ち込んでいるギンコに贈ろうと思っているのだろう。

 颯爽と参道を駆けている金狐を目にした翔はギンコに「羨ましいな」とからかう。


「ツネキ、ギンコのこと大好きなんだな」


 そわそわと落ち着きのない態度を見せるギンコの初々しさに笑みをこぼしていると、本殿に向かって直進していた金狐が足を止めた。


(あれ、どうしたんだ?)


 また、ギンコのために良い品でも見つけたのだろうか?

 首を傾げていた翔だが、次の瞬間、絶句してしまう。

 事もあろうに、ツネキはおいでおいでと手招きしているメスの野狐(やこ)らに誘われ、ふらっとそちらへ足を向けたのである。

 そしてそのまま輪に入り、てれてれっと何やら会話している様子。

 さすがに買った品物はメス野狐に贈らないと思うが、あの締まりのない顔。満更でもない顔をしているという。


(うそだろお前……この空気で別の女のところに行っちまうか? 普通)


 ぎこちなくギンコに目を落とす。

 全身の毛を逆立てている銀狐の冷気に、ごくりと生唾を呑んでしまった。どこの世界も女が怒ると怖いものである。


 ぎぎぎ。翔はぎこちなく首を動かし、比良利に視線を送った。


「ツネキにどういう教育しているんだよ」

「う、うむ……誰に似たんじゃろうか」


 絶対に北の神主に似たのだ。そうに違いない。

 翔は冷や汗を掻く比良利に唸った後、ギンコを励ました。


「ぎ、ギンコ。あれはコミュニケーションだよ、コミュニケーション。ツネキにとって一番はお前に決まっているじゃないか! あ、コミュニケーションじゃ難しいよな。日本語でコミュニケーションってなんて言うんだろう」


 井戸端会議?

 話し合い?

 交流?


「えーっと……ギンコ、あれは交流会だよ。ツネキはみんなに挨拶しているだけだって」


 あれやこれやと言葉を投げるが、ギンコを取り巻く空気は一向に冷たいままである。

 メス野狐と楽しそうに会話しているツネキが、ふと本殿の方角を見てくる。きっとギンコの殺気を感じたのだろう。ぶわっと毛を逆立て、焦りの様子を見せていた。

 そんなギンコはというと、冷たく鼻を鳴らし、金狐に尾っぽを向けるや否や甘えたな声音を出して翔に擦り寄った。


「わたくしがお慕いしたいのは貴方様です……だそうじゃ。一応オツネとツネキには世継ぎを期待しておるのじゃが。はて、あやつの女癖の悪さには困ったものよ」


 他人事のように言っているが、あれはまぎれもなく、北の神主の影響を受けている。

 二足立ちして抱っこをねだるギンコの愛らしさに負け、ついつい甘やかしてしまうは深いため息をこぼした。


「こうして俺は今日も狐の恋愛に巻き込まれるのだった……ツネキ、お前のせいだからな!」


 翔の嘆きなんぞ耳にも入っていないギンコは、腕の中で嬉しそうに鳴き、ぬくもりに安堵して目を閉じてしまう。

 まだまだギンコの恋は冷めてはくれないだろう。

 仕方がなしに銀狐の体を撫でていると、隣に立った比良利が頭に手を置いた。


三尾(さんび)妖狐(ようこ)白狐(びゃっこ)南条翔(なんじょうかける)


 聞きなれない名前で呼ばれる。

 弾かれたように顔を上げると、北の神主が力なく頬を緩めた。


「お主の妖名(ようめい)じゃ。妖名とは己の正式名称。己がどのような妖か、どれほどの力を持つのか相手に身分を明かすための名。半妖となったお主の名前は、ただの南条翔ではない」


「三尾の、妖狐……白狐の南条翔。それが俺の名前? 妖の名前?」


 比良利が小さく頷く。

 名づけられた妖名に不安を抱くと、くしゃくしゃに頭を撫でられた。

 ぶるっとかぶりを振り、相手を見つめる。


「今はただの南条翔で良い。いずれ受け入れなければならぬ名だということだけ、頭に置いておけばそれで良い。不安があればいつでもわしのところへ参れ。わしは妖の頭領、民を守る者。統べる者。常に妖と共に在る者」


 慈悲溢れた笑みを恍惚に瞳におさめる。

 ぽんぽんと翔の頭を撫で、幼い子ども扱いをする比良利が去って行く。


 先に憩殿へ戻るようだ。


 翔は瞬きを繰り返すと、腕の中にいるギンコと視線を合わせた。

 うんっと首を傾げる銀狐に綻ぶと、急いで比良利の後を追った。


「待ってよ比良利さん。俺も戻る。もっと妖のことを教えてよ」


 まずは知ることから始めよう。

 そのために、頭領と呼ばれる狐にたくさん妖のことを聞かなければ。花香るツツジの甘酒をお供にして。

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