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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【弐章】名を妖狐と申す
28/158

<九>日輪の社(参)



  ◆◆◆



(もう泣けねえってくらい泣いたな)


 はてさて。

 どれほどの時間が経ったのか、翔は未だ比良利と部屋に留まっていた。

 すっかり腫れてしまった顔をそのままに、ぼんやりと畳を見つめる。赤子のように泣きじゃくってしまった。

 おかげで心が空っぽに近い。今は何も考えたくない。


「気落ちした後にやることは一つじゃのう」


 向かい側に座る比良利が右へ左へと忙しなく動いている。

 何やら準備をしているらしい。


「それは?」


 比良利は陶器の徳利(とっくり)を木の器に傾けていた。

 並々と液体を注ぎながら、かの狐は返事をする。「酒じゃ」。

 泣き疲れたとはいえ、さすがに酒に対する理性は働く。翔は差し出された木の器に身を引いてしまった。


「おれ、未成年なんだけど」

「未成年とは何ぞ?」

「酒がまだ飲めない年齢って言えば、分かりやすいか?」

「なあに齢十七なら元服(げんぷく)は迎えておろう。問題ないわ」


 元服。

 歴史の教科書でしか聞いたことのない単語を言われても困る。


「まあ、わしから見たら人間なんぞ、死ぬまで若造じゃがな。とにもかくにも、まずは飲んでみい。これはわしのお気に入りの一品。ぼんの心を満たしてくれようぞ」


 中身はツツジの甘酒だと比良利。

 これまた聞いたこともない酒を差し出されてしまったが、拒むことも億劫になったので、翔は素直に木の器を受け取る。


 薄い桃色に濁った液体だった。

 一口飲んで、あとは口に合わなかったと適当に返事しよう。


 そのようなことを思っていたのだが一口飲み、翔はハッと木の器を見つめる。

 じんわりと甘味が口内に広がった。微かなアルコールの味も感じたが、それを上回る花の香りが翔の心を満たした。


 もうひと口飲む。

 嗄れた喉に優しい潤いとツツジの香りが広がった。


 自然と笑みがこぼれる。


「比良利さん、これすごくおいしい」


 素直な感想を述べると、比良利が得意げに肩を竦めた。


「北の神主のお気に入りは心も満たされるじゃろう」


 ツツジの甘酒は市井の妖にも愛されている酒で、祝い事はもちろん晩酌にも好まれるものだという。中には辛酒を好む者もいるが、比良利は甘い酒が好きなので、いつもこれを飲んで一息ついているそうだ。


「甘酒にも種類はあるが、わしはツツジの甘酒が一等心を満たされる。香りが良い」

「これは俺でも買えるの?」

「おや。ずいぶんと気に入っておるの」


「こんなうまい酒、初めて飲んだもんだから。おかわりしたくなって」


 比良利から大笑いされる。

 そんなに気に入ったのなら、あとで酒瓶をひとつ贈ってやろうと言ってくれたので、翔は大喜びで頷いた。持ち前の尾っぽを揺らして、もらったら大切に飲もうと舌なめずりをする。


 ぺろりと木の器に注がれた甘酒を飲み干したところで、「落ち着いて何よりじゃ」と、比良利が微笑んでくる。


 翔は気恥ずかしくなった。

 忘れかけていた羞恥心を噛み締めながら、自分の心と向き合う。

 こんなにも声を上げて泣いたのは、小学校以来のことだったのだ。いい歳をして泣きべそを掻くなんて思いもしなかった。


 それだけ、自分の中で妖になる現実に恐怖していたのだろう。

 腫れぼったい瞼を擦り、身を小さくしていると、なにも恥ずかしがることはない、と比良利は言葉を重ねる。


「己の心と向き合わずして、前進することなど誰ができようか。たとえ醜悪な感情だとしても、それは自身の心。まずは受け止め、認めることが大事であろう」


 やはり比良利が根掘り葉掘り身の上話を聞いたのは、翔自身のためだったのだ。


(妖になって、まだ三週間しか経っていない半妖の俺にも優しいんだな)


 心から尊敬してしまう。

 女に対して、セクハラばかりする彼だが、やはり北の神主。妖に慕われているだけある。


「されど、これからじゃよ。ぼん」


 受け止めるだけでは駄目だ、と比良利が釘を刺してくる。

 受け止めて終わるのならば、そこでお仕舞い。

 なにもかも、そこで終わってしまう。


 己の心と向き合い、己を知り、己の道を探さなければならない。それが暗中模索だとしても。


 やんわりと諭してくる比良利は、「簡単なことじゃないがのう」と、親しみを込めて能天気に笑ってみせた。翔もつられて力なく笑ってしまう。


「しかしながら、お主もずいぶん過酷な運命に放り込まれたのう。竹馬の友が妖祓とは……先ほど会った妖祓が例の竹馬の友なのじゃな?」


 こくん。ひとつ頷いて見せる。


「左様か。それはつらい思いをしたのう」


 哀れみを向けてくる比良利の言葉に、身じろいでしまう。


「比良利さん。もう一度確認させてほしい」

「申してみよ」

「俺は、ヒトにはもう戻れないんだよな」

「残念じゃがな」


 予想通りの返事だった。

 期待はしていなかったため、落胆する気持ちは少ない。


「じゃあ一人前の妖になる期間は? 俺はいつ一人前の妖になるの?」


 遅かれ早かれ、覚悟は決めておかなければならないだろう。

 翔の問いに比良利は紫煙を吐き出し、軽く唸り声を上げる。


「個人差はあるが、早ければ年内」

「年内、か」

「遅ければ三百年ほどじゃろうか」

「……三百年?」


 個人差があるとは言っていたが、差があり過ぎである。

 素っ頓狂な声を漏らす翔に「予想が難しいのじゃ」と比良利は言った。


「妖の器。所謂、半妖となった者は妖になるため、等しく器となる体を万全にする準備を始める。その準備にどれほどの年月をかけるのかはその者次第。わしは狐から妖狐になった身じゃが、三年ほど要した」


「比良利さんは三年掛かったんだな」

「時期を早めることもできる」

「どうやって?」


「薬を用いる。お主の若さなら三日程度で完了するじゃろう……そう、身構えるでない。わしはたとえ話を出しているだけじゃ。無理に時期を早めるつもりはない。確かに南の神主は早く迎え入れたいところじゃが、それはそれじゃ」


 そうは言っても、先ほど南の神主がどうと言っていたではないか。翔は口を曲げる。

 あからさまな態度に比良利が笑声を上げた。


「ぼんは大層素直な性格じゃのう。隠し事が不得意と見た」


 くつくつと喉を鳴らすように笑いを噛み締め、赤狐は優しく言った。


「周りがどうこう言おうと、最後に決めるのはぼんじゃ。お主の好きにしたらいい」

「え」

「何を驚く。お主の道じゃろうて」


 それは、意外な言葉であった。

 てっきり宝珠の御魂に見定められたのだから、文句を言わず、南の神主の座に就け、と命じられるかと思っていたのだが。


「でも、俺の中には宝珠の御魂が宿っているよ」

「宝珠の御魂は時機を見計らって取り出せば良い。少なくとも、お主の生命力が回復するまでは、儘にするつもりじゃよ」

「比良利さんは良いの? 俺が神主にならないって言っても」


「良いわけなかろう。九十九年も待って、ようやく現れた候補じゃ。喉から手が出るほど、新たな対が欲しいわい」


 しかし。


「お主の意向を無視することもできぬ」


 あくまで比良利は、翔の気持ちを最優先すると答えた。


「いまのお主は宝珠の御魂を宿しているゆえ、双子の対として見ている節もある。許せ」


 胸の内も正直に教えてくれた。

 比良利としては、翔に神主になってほしいのだろう。それこそ相手が小僧だろうと。


「決めるのはぼんじゃが、さり気なく惑わすことは先に申しておこう。狐は諦めが悪くてのう」


 その時は覚悟してほしい。

 北の神主はいたずらげに笑い、脇息に頬杖をついた。

 翔は小さな希望を掴む。


(今までみんな宝珠の御魂のことばかりで、俺の好きにしろとは言ってくれなかった)


 だからこそ選択肢を得られた気がしたし、それが心の枷を軽くした。


(……でも俺の好きにって言われると困る)


 選択肢を与えられると、どういう道を選んで良いか分からないものだ。


「比良利さん」

「なんじゃ」

「俺はこれからどうすればいいのかな」


 つい、比良利にどうすれば良いのかと尋ねてしまう。

 彼は当然の如く、それは自分で決めることだと突き返してくる。道は他人から作ってもらうものではなく、自分で作るものだと言われ、翔は顔を顰めてしまった。

 これなら強制された方がまだマシかもしれない。


「こういう時にこそ、惑わすチャンスなんじゃないの?」


 うらめしい気持ちで睨むと、比良利はきょとんとした顔を作る。


「ちゃんす、とはなんぞや」


 妖は総じて片仮名が苦手なのやもしれない。

 少なくとも比良利は苦手だと見た。チャンスという言葉に尾っぽをくねらせている。


「えーっと、今しかないってかんじの意味なんだけど」

「なるほど、好機到来(こうきとうらい)と言いたいのじゃな。お主は所々で妙ちきりんな言葉を使うのう」


 だったら比良利は古風な口調だと返してやりたい。

 度々出てくる、聞き慣れない単語に戸惑ってしまう。


「前後の言葉から察するに、お主はわしに決めてもらいようじゃのう。では、潔く天命を受け入れるがよい」


「うっ」


 言葉を詰まらせると、「ほれ。みたことか」と、比良利。

 他人が決めてしまえば文句が出るのだから、決めるのならば自分で決めるべきだと、骨ばった人差し指を翔に向けてくる。


 翔が自分で決めてしまえば、言い訳も文句も出ないことだろう。反対に他人が決めれば、少しの苦労にも大きな不満を抱える。

 だから比良利はあくまで翔に道を決めさせるのだと述べた。


「俺、べつに文句なんて言ってないし」


 翔の子供じみた主張も、態度がそう言っている、赤狐は手を振った。

 若干呆れているようだ。


「どうやらぼんは己のことを決めきれない性格のようじゃな。何かあれば、すぐに他人を頼ろうとする。自分で考えようとせぬ」

「そ、そんなこと」

「ほほう。では、その馬鹿正直な態度はなんと言い訳する。我が双子の対よ」


「う、う、うるせえな。どうせ馬鹿だよ」

「青二才狐じゃのう。まさにぼんぼんじゃて」


 昔は自分も、そんな可愛らしい性格をしていたものだ。

 比良利はからかい半分に煙管の吸口を噛む。翔は返す言葉すら見つからず、悔しい思いを味わう羽目になった。

 なにもかもが図星である。


「そういえば、比良利さん。俺のことを双子って呼ぶのは、宝珠の御魂が宿っているからなんだよな?」


 苦し紛れに話題をかえると、「そのとおり」と彼はひとつ頷いた。


「歳が離れていても、俺たちは双子なの? 立場的に」


 常識的な双子といえば、瓜二つの兄弟を指すものであるため、双子と呼ばれることに違和感を抱く。


「左様。厳密に申せば、我らの体内にある宝珠の御魂が双子の関係。お主が持つ(はく)の宝珠と、わしの持つ(べに)の宝珠は、はるか昔ひとつの御魂であったと云われている」


 紅白の宝珠に兄も弟もない。

 ひとつであったものが、ふたつに分かれた存在であり、片割れであり、双方にとって半身に値するもの。

 それを身に宿し、依り代となった南北の神主が双子の対と呼び合うのは、ごく自然なことなのだ。それこそ翔と比良利に歳の開きがあったとしても、宝珠を身に宿すかぎりは双子の対なのである。


「しかし、齢十七の化け狐を双子の対と呼ぶ日が来るとは、ゆめゆめ想像もしておらんかったのう」

「比良利さんはいくつなんだ」

「わしか? 今年で二百と十になる。十と一、いや十と二だったかのう。細かいことは忘れてしまった」


 その若さで二百歳超えだなんて詐欺である。

 今から二百年前といえば日本は江戸時代真っ盛り。

 世界史でいえばフランス革命があった時代である。そんな時代を生き抜いているだなんて、妖狐は長生きする生き物なのだろうか。


「比良利さん。見た目に反して……おじいちゃん、なんだね」

「これ、人間の物差しで申すでない。二百など、妖狐の間では青二才扱いなのじゃぞ」


 自分なんて、まだまだ若造の類いだ。

 比良利は軽く煙管を回しながら説明する。


「妖狐は長寿と呼ばれる部族。たとえば妖狐の最高位、空狐に関しては三千年生きるとされる。それに比べたら、二百年など可愛いものじゃよ」


 もはや未知数である。

 中国は何千年の歴史だっただろうか。


「俺のそれくらい長生きするのかな」

「長寿の部族とはいえ、どこで転落するかは分からぬからのう。無論、妖狐の中には短命な者もおる。百年も満たず死ぬ者も当然おる」


 寿命なんて個々人によって違う。人生どこでどう転ぶかなんて、誰にも分からない。

 語り部に立つ狐は肩を竦め、どこか悲しそうに、さみしそうに言葉を重ねる。


「そうさな。南の神主はみな短命じゃ」


 比良利は物静かに告げた。


「短命?」


 語り部を見つめる。

 彼は空っぽになった翔の器を差し出すように告げる。

 言われた通り差し出すと、それに酒を注ぎ、己も酒を飲むために木の器を用意した。


「日月の神主は我らのことを指す。北に日輪を守護する神主、南に月輪を守護する神主、それぞれがその地の妖を纏める役目を担っている。それは分かるかのう?」

「うん」

「北の神主はわしを含めて四代。一方の南の神主は先代を含めて九代。次の神主が決まれば二桁となる」


「南の神主は次で十代目ってことだね」

「北と大違いじゃろ? 南が短命であることを物語っておる証拠じゃよ」


 抑揚のない声を出す比良利は、ツツジの甘酒を注ぎ、酒を飲み始める。


「その中でも最も短命であり、鬼才と称された神主がいた。それが先代の南の神主。名は天城 惣七(あまぎ そうしち)。ヒトと妖狐の間に生まれた子でわしとほぼ同期であり、わしと双子の対であった」


 語り部は小さな溜息をつく。


「あやつは紛れもない鬼才じゃった。わしの実力など到底及ばん。その力は誰もが認めるほどじゃったが難点もあった」

「難点?」

「双子であるにもかかわらず、北の神主と非常に仲が悪かった」

「へ?」


「つまるところ、わしと惣七は類を見ないほどの仲の悪さだったのじゃよ。思い出すだけで腹立たしい狐じゃった」


 比良利曰く、ちっとも気の合わない奴だったそうだ。

 基本的に比良利はおどけることが大好きな狐だそうだが、先代の南の神主は生真面目な狐だったそうな。あまりにも女に興味がないものだから、男色の気でもあるのではないかと揶揄したら本気で命を狙われたという。


 とにもかくにも腹立たしく短気な狐であった。

 その生真面目な性格ゆえ、比良利の言動に一々目くじらを立ててきたらしい。


「面白味もくそもない性格のくせに、一から十までわしに喧嘩を売ってくる。なんじゃい、わしの性格が羨ましいならば素直に言えばいいものを」


 語り部は不機嫌に鼻を鳴らす。

 本当に不仲だったのだろう。苛々が翔にまで伝わってくる。


「そ、そうは言っても比良利さんと双子の対だったんだよね?」


「この時ばかりは、天命を授けた神に恨みつらみを抱いたもの。なにゆえ、あの狐と双子にならねばならなかったのか」


 ツツジの甘酒を一気に飲み干す比良利は、「なにが天命じゃい」と愚痴をこぼした。

 先ほどまで翔に天命だのなんだの言っていたのは、どこのどの狐だったか……翔は苦笑いを浮かべた。


「これまた腹立つことに、惣七の功績は素晴らしいものでのう。これまでにないほど月輪の社を栄えさせた。常に弱き者を守り、強き者に道を与える狐じゃった。何度奴の前で挫折したことか」


「比良利さんも妖たちにいっぱい慕われてたじゃんか。俺、さっきみんなに慕われていて、すごいなって思ったよ」


「ぼん」


「え、なに? 悪いことは何も言っていないと思うけど」

「ツツジの甘酒を一つくれてやると申したが、特別二つにしてやろう」


 少しだけ機嫌が直ったようで、比良利はツツジの甘酒を二つくれてやると言ってきた。

 もしや翔よりも子どもな狐なのやもしれない。この男。


「その鬼才って言われた惣七さんも短命だったの?」

「……ああ、そうじゃ」


 語り部はふたたび酒瓶を傾け、木の器にツツジの甘酒を注いでいく。


「お主はオツネと、ずいぶん親しいのう」


 突然、替えられた話題に驚きつつも、こくんと首を縦に振った。

 ギンコは翔にとって、目に入れても痛くない狐である。

 恋心を抱かれてしまったことについては、やや戸惑いを隠せないものの、あの狐は翔にとても懐いてくれている。


 周囲からは性悪と呼ばれている狐だが、翔には優しく健気な狐に見えて仕方ない。


「コタマから聞いておる。あのオツネが、ぼんに恋心を抱いていることを。惣七とは大違いじゃのう」


 苦々しく笑う彼に、何か遭ったのかと直球に聞く。

 まどろっこしい物の聞き方は好きではなかった。


「惣七と正反対の関係じゃと思ってのう。あやつの無念の一つがオツネであった」


 鬼才と呼ばれた神主は神使と険悪の仲だったと話す。


「比良利さんと先代みたいな関係だったってこと?」

「そうであれば笑い種であったが……文字通り、険悪な仲であった。神使が神主に心を閉ざし拒絶してしまっておったのじゃ」

「ギンコが先代を拒絶?」

「おかげでわしにまで皺寄せがきておる」


 いま大変な思いをしているのだと、比良利は悲しげに一笑した。


「すべては奴の焦りからじゃった」


 それは鬼才と呼ばれた天城惣七、生涯の後悔に繋がることだと比良利は語る。

 先程も話したとおり、惣七はかつてないほど月輪の社を栄えさせた狐であった。

 その背景には優秀な神使、ギンコの母キツキの存在があった。それはそれは優秀な神使で神主や巫女の支えとなり、時に彼らを正しい道に導く妖狐だった。


「ギンコのお母さんも神使だったんだな」

「うむ。聡明な神使であった」


 しかし。キツキは病を患った。惣七が神主に就任して十年後のことだった。


「手の施しようがなくてのう。まもなくキツキはこの世を去った」

「それは……仕方がないよ。病気だったんだし」

「じゃが、早期に病を発見できていれば救われて命であった。社が栄えたことで、キツキの病は手遅れとなった」


 月輪の社が栄えたことで、神職らは等しく激務をこなす日々を送ることになった。

 特に神使を担っていたキツキの負担は大きく、体を壊してしまった。なおもキツキは奉仕を行い、神使としての役目を貫こうとした。

 結果、キツキは病を患い、命を落としてしまった。


「惣七は嘆いた。なぜ気づいてやれなかったのかと」

「……それは」


「じゃが、嘆いてばかりもおられぬ。ここ妖の社の神職は『神主・巫女・神使』で成り立っておる。早急に新しい神使を見つけなければならなかった」


 三職の内、どれかが欠ければ月輪の社は衰退していく。

 妖の安らぐ場がなくなってしまう。

 危機感を抱いた惣七はキツキの娘である娘のギンコを神使に任命し、社を支えられる妖狐に育てようと決心した。幸い、ギンコには宝珠に見出されており、神使の素質は十分にあった。


「じゃが、あまりにもオツネは幼かった。まだ母のぬくもりが必要な時期にキツキを亡くし、悲しみに暮れていた」

「大切な母親を亡くした直後に神使になれって言われても、何も考えられないよな」

「また遊びたい年頃でもあったオツネは、惣七と遊びたくて堪らなかった。キツキが生きておった時代、惣七は毎日のようにオツネと遊んでやっておった」


 当時双方は仲が良かった、と比良利は語る。


「惣七は悩んだが、オツネの気持ちに応えることはせなんだ。オツネには立派な神使になってほしかったゆえ、遊びより学びを選び、それをオツネに強いた」

「……先代の気持ちは分からなくもないけど、神使を担うのはギンコだ。あいつの気持ちも酌んでやらねえと」


「神使が欠けたことに焦っておったのじゃろう。またオツネは妖術を使えぬ狐。どうにかして妖術を使えるようにしたかったのじゃろうて」


「ギンコ、妖術が使えないのか?」

「なんじゃお主、知らんか?」

「え。でも俺、ギンコから妖力を送ってもらったんだけど」


 だから命を救われたし、自在に妖力を引き出すことにも成功したと翔は告げる。


「確かにオツネは妖力を扱える」


 けれども、ギンコがそれを術として具体化することはできない。

 比良利は力なく肩を落とす。


(そういえば、青葉やツネキは狐火(きつねび)ってやつで火を出していたけど……ギンコが使ったところは見たことがなかったな)


 いつか、ヒトに化ける変化の術を身につけて、翔と共に生きたいと主張していた銀狐だが、妖術らしい妖術はなに一つ目にしていない。

 それはギンコが妖術を使えないから、目にする機会が得られなかったのだろう。


「すべて惣七のせいなのじゃよ。あやつの過度な躾がそうしてしまった」


 比良利は悲しそうにひとつ鳴いた。


「妖術の使えぬ神使では話にならない。惣七は、オツネにそれを教えようと手まりを用いて修行させた。最初こそ、オツネはいつものように手まりで遊んでくれるものだとばかり思っていたのじゃが、あやつは手まりに術をかけさせ、火の出し方を教えようとした」


 それは厳しいものだった。

 ギンコが術を習得するため、惣七は常に怒声を張り、手厳しく指導をした。

 時に手をあげることもした。

 無論、ギンコは戸惑いで一杯となった。いつも遊んでくれる優しい惣七が一変して鬼のような性格になった。どうしてそうなったか分からず、首を捻るばかりだった。


「なおも、オツネは惣七を慕っていた。一生懸命応えようとした。じゃが、やろうと焦れば焦るほど、身が萎縮してのう。オツネはまったく術が出せなかった」


 ほどなくして妖狐になりたての巫女見習い、青葉が同じ修行を始めた。

 要領の良い彼女は一週間も経たずに術を出せる段階に進んだ。

 惣七は青葉を褒める一方で、懸命に教えても応えてくれないギンコに厳しく当たった。今まで自分が甘えさせていたツケが回ってきたのではないかと思い直し、ギンコに対する優しさを捨てた。

 早く独り立ちできるようにと、今まで共にしていた寝室の場所を移し、ギンコに本殿で寝るよう命じた。


 話を聞いた比良利は、さすがにやりすぎだと何度も止めに入ったのだが惣七は耳を傾けようとはしなかった。


 ついに堪え切れなくなった幼いギンコは、手まりが原因で惣七が鬼になっているのではないかと考え、それを隠すようになってしまう。

 手まりさえなくなってしまえば、また優しい惣七に戻ってくれるのではないかと思ったのだ。

 

 けれど、それを甘えと捉えた惣七は憤り、早く真っ当な神使になりたくないのかと罵り、手まりを出すまで食事は与えないと言い放った。


「そんなのあんまりじゃん」

「ああ、あんまりじゃった」


「ギンコは母親を亡くしたばっかりだったんだろう? なのに」

「天城惣七、最大の誤りよ。本人も生涯、猛省しておった」


 優しさも甘さも捨て、ただただ厳しさと怒声と罵声を浴びせた結果、ギンコは打ちひしがれた。

 何もかもが嫌になり、母のぬくもりが恋しくなり、ただただ優しい母の面影を求めるようになった。


「幼いオツネは思ったのじゃよ。どうせ自分に妖術は使いこなせない。ならば、自分の代わりを探せばいい。惣七は自分のことなど愛していない。自分などいなくても同じだと」


 逃避するように惣七の下を去り、ギンコは行方を眩ました。

 異変に気づき、惣七は慌てて銀狐を探しに出掛けた。比良利を巻き込んで探し回った。

 しかし、何処を探してもギンコは見つからなかった。


「それから十日を掛けて、我らはオツネを探した。あれほど大騒動になったことはなかったのう。朝な夕な、走り回ったものよ」


 そしてギンコは無事、ヒトの世界で見つかる。

 銀狐は母とよく遊んでいた河原の葦の中で、身を丸くするように眠っていたのだ。


 ああ、よかった。

 そう安堵する間もなく、ギンコは与えられる食事も水も拒み、日夜眠るだけの日々を送るようになる。そのような日々が続けば当然衰弱する。ギンコは危うく命を落とすところだった。 


「事の顛末を知り、惣七を厳しく咎めたのはコタマじゃった」


 おばばは彼に言ったそうだ。



【――ヒト寄りの血統を持つ、惣七に尋ねよう。お前さんは乳離れしたばかりの子どもに、刀を完璧に使いこなせと言えるかい? 言えないだろう。それと同じことをオツネに強いようとしたんだよ。まだまだ母親のぬくもりが必要な時に、お前さんは優しさという愛情を与えず、厳しさという愛情だけ与えた。いいや、それは愛情でも何でもない。自分の都合を押しつけた、ただの虐待さね】



 惣七の焦りが、ギンコを傷つけることになってしまった。

 彼は悔いた。とても悔いた。衰弱したギンコを寝ずに看病しながら、これまでの行いを猛省し、自分の都合を銀狐に押しつけようとしていた非を認めた。


「焦らずとも良かったのじゃよ」


 最初から完璧な神使など誰も求めていない。

 取り巻く環境が神使を成長させ、しっかりと育てていくのだから。


「惣七がすべきことは、まずオツネの神職に対する心構えを、時間を掛けて育てることじゃった。段取りを間違えてしまったのじゃよ」


「……生真面目な狐だって言ってたよね? お役を優先しちゃったのかな」


「そうさな。惣七はオツネの心より、お役を優先してしまった。優しさだけでは子は育たぬ。されど厳しさだけでは、子はついてこぬ。己の都合に合わせた厳しさなど、子になんの得があろうか。子は人形ではないというのに」


 ようやく目を覚ました惣七は心を入れ替え、ギンコと時間をかけて向き合う覚悟を決める。

 まず傷つけた己の非道を謝り、亡くなった母キツキの代わりに愛情を与えたいと考えていた。神使の育成は傷心を癒えるまで、絶対に行わない。真剣に考えていた。


「されど、時すでに遅し。オツネは惣七に、一切の心を隠してしまった」


 欲していた優しさは諦めに。

 求めていた愛情は悲しみに。

 心から慕っていた気持ちは憎しみへと変わってしまったのだ。

 幸いギンコは一命を取りとめたものの、惣七がどんなに声を掛けようとも、優しく接しようとも、それこそ愛情を与えようとも、ギンコはそれを頑なに拒んだ。彼に近寄ろうともせず、自分を愛してくれた母を探してはスンスン鳴き、惣七と距離ばかり置いていた。


「オツネの中で、惣七に対する信頼が消えたのであろう」


 信頼とは恐ろしく脆い。

 築き上げる際は時間を掛けなければならないのに、崩れる時は一瞬なのだから。

 生まれたての頃から、大切にギンコを育てていたのは惣七だった。ギンコの方も、惣七にとびきり懐いていたというのに。


「神主が神使に嫌われるなど未曾有(みぞう)のことよ」


 比良利は苦く笑う。誰からも愛され、尊敬されていた鬼才が、唯一神使に嫌われてしまうだなんて、とんだお笑い種であった。


「鬼才初めての挫折じゃ。喧嘩ばかりするわしに相談を持ちかけるほど、惣七は猛省しておった」


 今も亡き対の言葉を思い出す。



【オツネを愛していないわけがない。ただ神主として気ばかりが焦り、結果的にオツネを傷つけてしまった。比良利、俺はどうすればいい。どうすればあいつに償える?】



 深く自責していた。

 比良利の前で弱い心を剥き出しては、自分は『神主を名乗る資格がない』と言っていた。

 無論、比良利にはどうしてやることもできなかった。

 あくまで、これは惣七とギンコの問題。

 第三者が口を出したところで、関係がこじれるだけだと見据えていた。


「後悔先に立たず、とは言ったものよのう」


 翔の目にじわりと浮かぶ。

 ギンコが悲しく鳴いている姿が。母のぬくもりを求め、スンスンと鳴いている姿が。


 部屋にいた頃のギンコを思い出す。

 自分といっしょに寝たいと態度で示していた銀狐の真意は、誰かのぬくもりが欲しくて堪らなかったのだ。

 ベッドに入れてやった時の、無邪気なギンコを思い出すと胸が痛む。


「そんなことがあったんだ。じゃあ、なんで比良利さんは……その、ギンコに」


 口ごもる翔の遠慮にかぶりを振り、素直に聞いていいのだと力なく綻んでくる。


「なぜ、嫌われておるかと聞きたいんじゃろう? ……そうじゃのう。これも惣七のせいじゃ。死にゆくあやつの頼みを聞き、わし自ら南の神主に宿った白の宝珠の御魂を、オツネの体内へ移したのじゃから」


「比良利さんが宝珠の御魂を?」

「左様」


 宝珠の御魂を受け継ぐ者を探す前に命の終わりを察した惣七は、悪しき妖の手に渡らないよう神使の体内に宝珠の御魂を隠す決断を下した。

 それはギンコにとって、あまりにも残酷な運命であった。

 風の噂で知らせを得た奸賊からは常に命を狙われ、必然的に境内から出られなくなってしまったのだから。


「惣七は最後の最期までオツネに詫びていた。酷な運命を背負わしてしまうこと、そして自分の焦りが生み出した仕打ちについて、死に際に何度もなんども詫びていた」


 こうしてギンコは九十九年、社から出ることを厳しく諌められ、悪しき妖からは命を狙われる日々を送ることになる。

 元々自由を好んでいたギンコは現実を受け入れることができず、自分の体内に宝珠の御魂を押し込めた惣七と、自由を奪った比良利を憎んだ。

 そうしなければ耐えられない現実だった。


 嫌われているのは、そのせいだと力なく語り部は笑う。


「すべて、あの戯け狐のせいじゃ。わしも大層運の悪い狐よ……ある意味、オツネとぼんは似た境遇にあるのかもしれんのう」


 翔は面食らう。

 おずおずとツツジの甘酒を口につけながら思考を回した。

 なりたくてなったわけではない妖の自分。

 同じようになりたくてなったわけではない神使のギンコ。


 どちらが過酷な運命を辿っているのかといえば、当然後者である。


 乳離れしたばかりの獣は母を失い、厳しい躾によって心に傷を負い、挙句の果てに宝珠の御魂を体内に宿したせいで自由を奪われ、命を狙われるようになった。

 先代や比良利のことが憎くて堪らないのも無理はない。彼らには神主としての役目があったのだろうが、ギンコにしてみればいい迷惑だろう。


「次はぼんが狙われる番やもしれぬ」


 比良利がそっと告げる。


「ぼんは依り代として宝珠の御魂の力を発揮した。既にオツネの体内に御魂がないとことは知れ渡っている頃じゃろう。今は半妖ゆえお主が持っていることはごく一部の者しか知らぬじゃろうが……遅かれ早かれ宝珠の御魂の在り処はばれる」


「今度は俺が危ない、か」


 不思議と、恐怖心は生まれない。

 現実味のない言葉に呆気を取られるばかりだ。

 静かに甘酒を見つめていた翔は、器を畳の上に置くとゆっくり腰を上げた。ふらっと立ち眩みがしてしまったのは、軽くアルコールを摂取したせいだろう。


 だが構っていられない。


「何処へ行く?」


 比良利の問いにトイレだと告げる。

 きょとんとする相手にまったく通じなかったため、御手洗いだと言い直す。


(かわや)か」


 なら向かって右の廊下だと教えてくれた。

 礼を告げて障子を閉めるものの、翔のつま先は反対の廊下を向く。

 土間に放置されていた草履(ぞうり)を突っかけると、憩殿を出て本殿の方角へ赴いた。


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