<八>日輪の社(弐)
こうして場所を移動することになった翔は、先導する比良利の後ろを歩いた。
ギンコのことは心配であったが、まったく事情を知らない翔が追っても何もできやしないだろう。ここはツネキに任せて、狐らと一緒に憩殿に向かおうと思い直した。
助兵衛狐のこと北の神主、赤狐の比良利は妖らに大層人気のようだ。
「おやまあ、そこにいるのは比良利さま」
「今宵は寄ってくれよ。うまい雪見酒を用意するからな」
憩殿を目指す赤狐に次から次へと声が掛かる。
どれもこれも他愛もない世間ばかりだったが、比良利は嫌な顔を一つもすることなく、妖らに簡単な挨拶と言葉を交わし、また機会がある時にゆっくり話そうと愛想良く笑っていた。
彼が慕われる理由のひとつなのだろう。
(さっきまで青葉やおばばに、引っ叩かれていたと思えねえな)
拝殿に続く参道をのそのそと歩く。
飽きもせず比良利の様子を見守っていた翔だったが、ふと周囲の景色に興味を引かれて、そちらへ目を向ける。
(化け物ばっかだなぁ)
目に付くところ妖ばかり。ヒトではない化け物らばかりだが、みな和気藹々と会話をしたり、甘酒を飲んだり、将棋や囲碁を楽しんだり。
妖の社はただ神様を拝むだけでなく、交流場となっているようだ。
背後にいる青葉に聞くと、そのとおりだと頷いてくれた。
「妖の社は妖らにとって聖地であり、安らぎの場所なのですよ。この地にはなくてはならない、大切な場所なのです。社が栄えているほど、妖らに慕われ、信頼を置かれているという証拠でもあります」
早く月輪の社もこのようにしたい、と青葉は悲しそうに俯いた。
南の神主が不在のいま、巫女の青葉にできることは少ないのだろう。
心の中で哀れみを抱いた翔だが、ふと込み上げてきた疑問を彼女にぶつける。
「どうして玉桂神社から日輪の社に入れたんだ? あの神社は月輪の社の入り口じゃないのか?」
比良利が直々に教えてくれると言っていたが、彼は声を掛けてくる妖らの対応に追われている。
青葉に聞いた方が早そうだ。
「あの神社は南の領地ですが、鳥居の空間は日輪の社と繋がっているのです」
「繋がっている?」
「ええ、同様に北の領地にも入り口となる紅鏡神社があり、月輪の社へ入ることが可能となっています。翔殿もお気づきでしょう? 結界反転の術が異なっていたことに」
結界反転の術。
いつもならば、社の入り口を開くために鳥居を軸にして、反時計回りに8の字に歩く。
しかし先ほどは時計回りに歩いていた。
確かに術は異なっていた。
「つまり。南北それぞれに入り口になる神社はあるけど、禹歩を用いた結界反転術の歩き方で行先が変わるってことか」
玉桂神社から月輪の社に行きたいときは、反時計回りに。
玉桂神社から日輪の社に行きたいときは、時計回りに。
それぞれ歩き方が変わるのだろう。
だから比良利は時計回りに8の字に歩いていたのだ。
「比良利さんが普段、紅鏡神社から入るって言っていた理由が分かったよ」
「比良利さまは日輪の社を任されている神主ですので」
「入り方が違うだけなら、玉桂神社からでもよさそうだけどな」
「じつは便利なようで不便でして。妖の社に入る際は玉桂神社、紅鏡神社、どちらを問わずとも入れますが……出る際は一本道でして」
「というと?」
「日輪の社から人里に出る際は、必ず北の領地に出てしまうのです。もし、南の領地に行きたければ一度、月輪の社に入らなければなりません」
「なにそれ。めんどくさい」
入り口は複数あるが、出口は一本道らしい。
どういう仕掛けになっているのだ。
「確かに手間ですが入り口の空間と、出口の空間は異なりますので仕様がありません」
苦笑いを浮かべる青葉に、翔は尤もらしい疑問を投げる。
「結界反転の術でどうにかならないの?」
「それは入る際、結界を無効にするものですので」
「出る際、やっても意味ない?」
「無意味かと」
「……不便だなぁ」
「……不便ですね」
どう足掻いても手間であることには変わらないようだ
面倒だと口をへの字に曲げる翔に苦笑いする青葉だったが、思い出したように腕の怪我は大丈夫かと言葉を投げかけてきた。
それは妖祓にやられたものではなく、金狐にやられた怪我を指していた。
「平気だよ」
空笑いをこぼす。
痛みはあれど、これは甘んじて受け取るつもりだ。
『わざと避けなかっただろう? 坊や』
青葉の足元を歩いていたおばばが鋭く指摘してくる。
おばばには敵わないものだ。
「翔殿。どうして避けなかったのですか」
当然のように青葉が「なぜ」と尋ねてきた。
決まり悪くなる翔を茶化すように、それは野暮な質問だと猫又は一鳴きする。
「野暮? どういうことです?」
意味が分からないと首を傾げる巫女狐に、『青葉も青いねぇ』とおばばは笑った。
『坊やもツネキも男であり、オスだってことださ。恋慕を抱くと、見境がなくなって相手のために奔走してしまうものだからねぇ。坊やはツネキの気持ちを酌んだのさ。見栄っ張りとも言うねえ』
「……うるせぇな。しょうがないだろ。気持ちが分かっちまったんだから」
なにより、今回は自分が悪い。
翔は自覚していた。
自分にも好意を寄せている女性がいる。
彼女が傷付けられた日には見境もなく奔走してしまうだろう。
それが例え、彼女を困らせ、嫌わせてしまう行動だとしても、きっと自分は……しかし、翔は思う。既に飛鳥を傷つけてしまったのではないだろうか、と。
(……拒んじまったな)
公園の一件を思い出す。
庇い合う妖狐の翔たちに歩み寄ろうとした飛鳥。
そんな彼女を拒絶してしまった。
明らかに拒絶された飛鳥は傷ついていた。
(だけど、ギンコを傷つけたのは妖祓の呪符だ)
翔は落ち込む一方で、仕方のないことだったのだと己に言い聞かせる。
そうしなければ、ギンコを守ることはできなかったのだから。
そっとジャージの袖を引き、左手首に視線を落とす。
火傷を負った呪符の痕が生々しい。激痛を思い返す度に恐怖に身震いをしてしまうが、それでも幼馴染らから受けた呪符のことは責められずにいる。葛藤が生まれるばかりだ。
(このまま、飛鳥のことを好きでいていいのかな。朔夜のことだって……俺はあいつらが怖い。初めて怖いと思った)
だって彼らは妖祓。妖にとって不倶戴天の敵。
ヒトの子であり、少しずつ妖のことを知り始めている妖の器の翔とって、幼馴染は大切な存在でありながら、この命を脅かす生涯の天敵なのだ――。
憩殿に入る。
神職の住まいとなっている建物の造りは本殿や拝殿よりも簡素だ。月輪の社の住まいと似たような構造になっている。
「あれは」
冷たい板張りの廊下を歩いていた翔は、中庭に目が留まり、思わず足を止める。
そこには満目一杯のヒガンバナ。妖が好んで止まない花が天高く伸び、独創的な姿で花開いていた。
「赤く色づいている」
月輪の社のヒガンバナは、ほとんど白で埋め尽くされていた。
けれど、ここのヒガンバナは赤々と色づいている。白も良いと思うが、翔としては鮮やかな赤の方が好きだとしみじみに思った。
『坊や。何しているんだい』
「今いくよ」
うつくしい花畑を恍惚に眺めていた翔はおばばの声掛けにより、止めていた足を動かす。
日本人が忌み花としているヒガンバナが美しくてならないと思うのは、翔に妖の心が息づき始めているからだろう。
(花を綺麗と思うことあんまなかったのにな)
ヒガンバナ畑を後にし、ひとつの座敷に入る。
そこは比良利の私室であった。
翔は部屋で手当てを受けた。
手当てしてくれたのは日輪の巫女。紀緒という女で、青葉の先輩巫女にあたるらしい。妖名は二尾の妖狐、ハイイロギツネの紀緒という。
「さあ、これで大丈夫ですよ」
「ありがとう」
「いいえ。軽いお怪我のようで安心いたしました」
紀緒は同じ巫女の青葉に比べると『女性』と呼ぶに相応しい妖狐だった。
肩まで伸びている色素の薄い黒髪、端整な顔立ち、賢さを宿す眼、そして雪のように白い肌に思わず息を呑んでしまう。彼女の取り巻く空気はとても艶かしい。巫女装束すら妖艶で、翔は彼女こそ日本美人だと心中で賛美した。
「他に痛いところがあれば、遠慮なく仰ってくんなまし」
恭しく会釈してくる紀緒に何度も頭を下げると、彼女から小さく笑われた。
つい頬を赤らめてしまう。
紀緒の女性らしい笑みを浮かべる姿は反則である。
誤魔化すように目を逸らすが、顔の熱は引かない。
それがまた彼女を笑わせることになり、翔は気恥ずかしくなってしまった。助手を務めていた青葉に冷たい目を向けられたため、咳払いを一つしておく。
そうして、身を小さくしていると、比良利の低い唸り声が室内を満たした。
視線を比良利に向ける。
そこには眉を寄せながら煙管をふかす狐がいた。
おばばにこれまでの経緯に聴いているのだろう。
細長い煙管を食み、脇息と呼ばれる安楽用具に肘を置いて凭れている。
赤々と燃える火皿を見つめ、静かに紫煙を吐き出すと、比良利が物静かに口を開いた。
「あの妖祓は、ぼんの竹馬の友と申すのじゃな」
『ああ。だから厄介なんだ。お前さんとしては、今すぐにでも坊やを傍に置きたいだろうけど』
「無論。今宵の一件で明白となった。やはり、このぼんは宝珠の御魂に見出されている。それは、わしの目でも確認した」
ヒトが妖になる話など腐るほど聞く話。
されど宝珠の御魂がヒトの子を意図的に生かし、さらにはその力を貸す、など前代未聞。
比良利はやはり白の宝珠の御魂が、命を懸けてギンコを守った翔になんらかの可能性を見出したのだろうと意見する。
それこそ妖を先導するほどの力が備わっているに違いないとのこと。
随分、過大評価されているようだが、北の神主は真剣に物申している様子であった。
『お前さんは、坊やと双子になる腹は決まっているのかえ?』
「齢十七の狐と聞き、戸惑いが無いわけでもない。さりとて、宝珠の天命ならば受け入れる次第じゃよ」
比良利が、おもむろに己の額を親指で指す。
「妖型のぼんをこの目で見たのじゃが、ぼんの額には二つ巴が浮き出ていた。それは神主が授かる神聖な証。ぼんは見込まれているのじゃよ」
『齢十七の坊やに期待を寄せすぎじゃあないかい』
「天命は依り代の意思なんぞ聞かぬからのう」
『明日にでも神主にしたいってかい』
「それだけ南の地は切迫しているからのう。とはいえ妖の器では神主どころか、社に携わる神職を受け持てるのかどうかも怪しい。まずは一人前の妖になることが先決よ」
そう言って、比良利は灰を受け皿に捨てた。
新たな煙草を詰めるために軽く息を吹きかけ、粒子のような灰を飛ばしている。
比良利を流し目にしていたおばばは『そうかい』と鳴いて、意味深長に吐息をつく。
『坊やがわたしが覚悟していたよりも、はるかに宝珠の御魂に期待されているのは分かったよ。それは南の地にとって喜ばしいことなのだろうけれど……』
口ごもる猫又に、自分にとっても喜ばしいことだと比良利は間髪を容れずに答える。
「できることなら今すぐにでも一人前の妖になってもらい、神主として育成したいわい」
赤狐はわざとらしく肩を竦めた。
なにせ、南の神主が欠けている分、北の神主である比良利に全負担が掛かっている。
二人で治めなければならない領地を、一人で治めることは難しく、結果的に低俗な妖が増え、闇雲にヒトを襲い、警戒心を抱いた妖祓が人畜無害な妖を葬るという悪循環が生じている。
一端の神主として、見過ごせないところだ。
比良利は目を細め、煙管に火を点す。
「今年、惣七が死んで百年の節目を迎える。あやつがいない、九十九年はつらいものじゃった。あやつはいつも生真面目で、わしのふざけすら、真に受ける短気で馬鹿な奴じゃった。あやつは最期まで勝手な奴じゃった。次の神主を見届けぬまま死によって……おかげでわしは過労で身が朽ちそうじゃ」
皮肉という棘を言葉に巻いて、懐古の念を抱く比良利の表情は穏やかだった。
翔には惣七という人物が誰なのかは分からない。初めて聞く名前だ。
けれども大まかな話を聞くかぎり、惣七という人物はおおよそ先代南の神主の名前だろう。おばばや青葉、それに紀緒の表情を観察していれば容易に察しがつく。
当事者でありながら、すっかり蚊帳の外に放り出されていた翔は、他人事のように話を聞いていた。
(ん?)
ふと、青葉が下唇を噛み締め、緋色の袴を両手で握り締めていることに気づく。
このままでは唇が切れてしまう。
「青葉。大丈夫か?」
そっと声を掛ければ、弾かれたように顔を上げ、彼女が苦々しく笑い返す。
青葉の心はまるで曇り硝子のようだった。
何を思っているのか読み取れず、同じ表情をするしか翔には術がない。
そのようなやり取りをしている間も、比良利はおばばと話を進める。
「コタマ、飾らず本音を申し上げよう。わしは宝珠の天命を受け入れ、ぼんを新たな対として迎え入れたい。齢十七であれど、妖らの希望となるなら迎え入れるうべきじゃと考え、事を進めていきたい。祠の一件もある。待つことには飽き飽きしておるのじゃよ」
『お前さんの言うことはご尤もさね』
「ぼんにどこまで話しておる?」
煙管を吸う比良利に、おばばはかぶりを振る。
これっぽっちも話していないと態度で示し、『坊やにはまだ早い話だよ』と、翔の気持ちを優先してくれた。
猫又は北の神主に訴える。
この仔狐は不可抗力で妖の器になった身の上。ヒトから妖になるという現実さえ、まだ受け止められずにいる。ようやく妖力を自在に引き出すことができるようになったばかりなのだ。無理に話を進めても本人の負担になるだけだろう。
努めて翔の味方でいてくれる猫又の声は、憂い帯びている。
『最初から妖であれば持たなかっただろう悩みを、坊やはこの若さで抱いている。わたしにはその苦悩がよく分かるんだよ』
おばばは元猫だ。
猫から猫又になった経緯はどうあれ、化け物として生きることに多少なりとも悩んだに違いない。
そう思わせる発言だった。
『比良利、お前さんもそうだったろう? とんとん拍子に進められるほど、簡単な話じゃあないんだよ』
「言わんとしていることは分かる」
比良利がゆるりと翔に視線を留める。
決まり悪く頬を掻いてその場を凌いでいると、彼は紀緒を呼びつけた。
「紀緒。すまぬが案内を頼む」
紀緒に自分以外の客人を他の座敷へ案内するよう頼んでいた。
つまるところ、比良利は翔と二人きりにさせろと言いたいのだろう。
『ちょっと待っておくれ。比良利』
「コタマ、申したであろう。待つことには飽きてしまったと。安心せえ、ただ二人きりで、ゆっくりと話をしたいだけじゃよ」
比良利は柔和に目尻を下げた。
「相変わらず、心配性のお節介猫じゃのう」
おどける赤狐に、『それがわたしの長所さ』とおばば。
承諾の代わりにしゃがれた声音で鳴いてみせた。
(え、うそ。まじで北の神主と二人きりになるの?)
翔の心中としては、置いて行かないでほしいの一点張りだったのだが、口には出せず、紀緒に連れられて行くおばばらを見送ることしかできなかった。
障子が閉められると、それを合図に比良利が手招きをしてきた。
「もっと近こう寄れ。そんなに離れられては話す気が失せてしまう」
軽い口ぶりで言ってくるものの、相手は北の地を統べる神主。妖を纏める頭領である。
短時間、接してみて怖い化け狐ではないと分かったものの、それは表面上だけかもしれない。おばばから、北の神主は誰もが恐れる存在だと聞いている手前、不安が募ってしまう。
(ぐずぐずしてたら、怒られるかもしれないよな)
障子側に座っていた翔は恐る恐る移動する。
歩幅三歩ほど距離を空け、比良利と向かい合う形で腰を下ろした。
「とって食いやせん。そう緊張するでない」
体を強張らせる翔をからかう比良利だが、翔自身にそれを受け流すだけの余裕はない。
ただただ何を言われるのだろうか、と身構えてしまう。
宝珠の御魂を体内に宿しているのだから『大人しく神主になれ』という話ならば、喜んで宝珠を返品する。生命力が戻ったら、と条件を加えさせてもらうが…………。
とにもかくにも、そういう重苦しい役は御免被りたい。
双子の対と呼ばれようと、なんと言われようと、神主などなりたくないのだ。
現実逃避するように俯いて畳の目を数えていると、比良利が話を切り出してきた。
「見れば見るほど、若い狐じゃのう。ぼん、妖の器になって幾日になる?」
予想していなかった話題に面食らう。
てっきり開口一番に神主になれ、うんぬんの話がくるとばかり思っていたのに。
「たぶん三週間くらい経ったと思う……思います」
恐々返事すると、まだまだ日は浅いことを指摘された。
翔にとっては、長い長い時間に思えたが、比良利からしてみれば、まこと短い時間なのだろう。
「白狐よ。名を聞いていなかったのう。聞かせてくれまいか」
「翔、南条翔……です」
「何を畏まっておる。楽にせよ。わしは今、神主としてではなく、一妖としてお主と接したいのじゃから」
小さく綻ぶ彼は言葉を重ねる。
それはどのようなことが遭ったのか、自分に話してはくれないだろうか、というもの。
事細かに話してほしいようで、日常から事件沙汰まで何が遭ったのか、教えてほしいと頼んできた。
(話してほしいって言われてもな)
比良利の申し出に、ますます困惑する。
それは比良利にとって重要なことなのだろうか。それとも何かの参考にしたいのだろうか。どちらとも取れる意味合いに口を曲げつつ、翔はゆっくり口を開いた。
「ギンコに会った夜、俺は……化け狐になった」
話は遡ること幼馴染らの秘密を知ってしまったことから、とある道端で銀狐に出逢ったこと。妖に襲われ重傷を負い狐に救われたこと。銀狐に『ギンコ』と名づけて日々を過ごしたことや自分の体に異変が起きたこと等など。
気乗りしない気持ちで話していた翔だったが、次第に舌が滑らかになっていく。
堰切ったようにあれやこれと出来事を語っているうちに、今宵の一件に差し掛かる。
突然、体が熱くなり、ヒトから獣の姿になってしまった。その瞬間は全身の血の気が引き、家族に見つからないよう急いで家を出た。
そこで妖祓に会い、そして、そして。
気持ちばかりが先走り、ついに言葉が詰まってしまう。
この感情について、なんと言えばいいのか。
適切な言葉を探していた翔はふと自分の腕に目を落とした。ジャージに水滴が落下する。それは止まることなく、一粒落ちた。その上からまた一粒、また一粒と落ちていく。
(なんで?)
どうして自分はいま。
(泣いているんだ?)
自分自身の異変に驚いていると、聴き手に回っていた赤狐が真横に移動してきた。
ゆるりと、比良利に目を向けると、頭に何かをかぶせてくる。
それは浴衣であった。彼の私物なのだろう。
いつの間に取りに行ったのだろうか。己の状況が把握できないあまり、べつのことで混乱してしまう。
と、北の神主が頭に手を置いた。
その衝撃で、また涙がこぼれ落ちていく。
「ここには、わしとお主のみ。顔はその浴衣の裏に隠れ、わしも見えぬ」
伝い落ちる涙をそのままに、翔はジッと比良利の言葉を待つ。
明らかに自分は彼の言葉に期待を寄せていた。
「みな、誰でも強くありたいもの。しかし、その強さを得る者は少ない。それは何故であろうか――みな、誰もが自分の弱さを隠し、その心に負った傷を放置する。時に傷のみ公にし、自分の弱さを隠して悲観することもあろう」
嗚咽が漏れそうになった。
「それでは何も得られぬよ。ぼん」
奥歯を食い縛って必死に堪える。
最後の意地であった。
「向かい合う時じゃよ。今こそ己の心と向き合うが良い。今までのお主には、それが許されなかった。さぞ、つらかったであろう。もう良いのじゃぞ」
脆い意地が、あっけなく崩れていく。
もう堪えられそうにない。
「こ、わいよ。変わっていく自分がっ、すげぇこわい」
大粒の雫をジャージに落とし、震える体をそのままに、心の奥底に沈めていた感情を声に出す。
大切な幼馴染らに命を狙われた絶望。彼らとは違う生き物になってしまう恐れ。化け物になる恐怖。正体を明かせない苦しさ。銀狐を怪我させてしまった罪悪感。その怪我の原因が、妖祓の幼馴染で憎むこともできず、けれど許すこともできず、ただただ悲しみに暮れるしかない。
「おれ、誰かに助けてほしくてっ。ずっと、誰かに言いたくて、こわいって言いたくて」
けれど、そんなことを言ったら傷つく狐がいる。
翔はギンコを傷つけたくなかった。
しかし、もう限界であった。
「化け狐になんか、なりたくない」
妖などになりたくない。
こんなにも濃い辛酸を味わうくらいならば、妖などになりたくなかった。
ただのヒトに戻りたい。何も知らなかったあの頃に戻りたい。
どうして、自分は幼馴染らの秘密を知ろうとしてしまったのか。
「比良利さん、おれ、化け狐になりたくない。こわいよ。人間のままでいたいよっ!」
その場に崩れて蹲る。
喉が裂けんばかりに泣き喚き、いつか幼馴染らを憎んでしまいそうな自分に恐怖した。大好きな彼らに嫌われるかもしれない未来に震えてしまう。
誰かに助けて欲しいと常に片隅で思いながら、どうにもならないと諦めなければいけない今に納得がいかず、連日のようの葛藤をしては苛んでいた。
「追わなきゃよかった」
「ああ」
「あのときっ、おれ……あいつらを追わなきゃっ」
「そうじゃのう」
「こんな目に遭わなかったのにっ!」
赤裸々と醜悪な胸の内を曝け出す翔は気づかない。
哀れみを宿した眼を向ける比良利が慈しみをこめて、何度も背を擦っていることを。
十余年しか生きていない幼い迷子のために何度もなんども背を擦っていることを、翔は気づけずに心が空っぽになるまで、いつまでも声を上げていた。