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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【弐章】名を妖狐と申す
26/158

<七>日輪の社(壱)


  ◆◆◆



 公園を後にした翔は比良利と共に、妖の社がある玉桂(たまかつら)神社の方角へ歩いていた。


『翔殿! そこにいるのは翔殿ですね!』


 すると目指している方角の夜空から一匹の狐が翔けてくる。

 それはキタキツネであった。体格は犬ほどの大きさで、すらっと長い脚と尾っぽを持っている。

 狐が空から下りてくるだけでも驚きだというのに、その狐の背中には老いた猫又が振り落とされないようにしがみついていた。


 あのキジ三毛猫には見覚えがある。


(あれは……おばばだ)


 思わず足を止めて空を仰ぐ。

 狐が満月の光を浴びながら、流れ星のように空をくだってくる。

 そしてひと気のない夜道に下り立った。おばばが背中ら飛び下りることを確認すると、狐はその身を光に包ませて姿かたちを変える。狐の正体は青葉であった。


「ご無事ですか」


 巫女装束を身に纏っている少女が駆け寄ってくる。

 しかし、すぐに足を止めて驚きの顔を見せた。

 彼女は比良利を見るや否や、血相を変えて声を上げる。


「比良利さま。なぜこちらに」


 くるりと和傘を回し、比良利が柔和に微笑む。


「双子の対に会いに来たのじゃよ。半月はコタマに任せる予定であったが、小物狐ゆえ半月も待てぬと飛び出してきたわい」


 翔は比良利が回す和傘を横から見つめる。

 蛇の目がいつまでも回っている、その模様は見ていて飽きない。


「しかしながら……まさか、比良利さま自らが人里に下りるとは」


 青葉がしどろもどろになる。


「胸騒ぎがしてのう」

「胸騒ぎ、ですか?」


「左様。居ても立っても居られず、人里に下りたのじゃが……下りて良かったわい」


 比良利が翔に視線を流してくる。

 和傘の模様を見ていた翔は尾っぽと耳を立たせ、みごとに体を強張らせた。

 そんな翔にお構いなく比良利は寝息を立てているギンコを抱えたまま、そっと身を屈めた。翔と視線を合わせると、翔の頭に手を置いて軽く撫でる。


「これも宝珠の御魂による導きなのじゃろうのう。人里に下りたわしはつよい妖気を肌で感じ、ここまで足を運んだ。わしと同等と思える妖気の強さは、この地を探してもそう簡単に見つかるものではない――白狐に何か遭ったと思ったのじゃが」


 予感は的中した。

 白狐は銀狐共々、妖祓や低俗の妖に襲われていたのだから。


「お主、怪我はないか?」


 翔は力なく尾っぽと耳を垂らしてしまう。

 それを見た比良利は、ひとつ笑ってまた頭を撫でた。


「ちっとも口を利いてくれぬのう。やっと双子の片割れに会えたというのに」


 比良利が翔の鼻先を指で弾いた。糸目の奥に潜んでいる、紅の瞳には慈しみが宿っている。まるで翔の心情を見透かしているようである。

 クンと鳴く翔にそっと歩んだのはおばばだった。


『悪かったねぇ。わたしの説明不足で危険な目に遭わせてしまって』


 謝罪してくるおばばに、ぶんぶんと首を横に振る。

 しかし猫又婆は責任を感じているようだ。

 翔の足に視線を留めると、呪符の霊気のせいで火傷を負っていることに気づき、おばばが悲しげに鳴く。


『お前さんが妖狐になってしまったのは、(しゅく)の夜のせいなんだ』


 曰く、妖が持つ妖力には周期があるという。

 妖が生まれた夜は『祝の夜』と定められており、最も妖力の上がる夜とされる。翔にとって満月の夜である今宵こそが『祝の夜』だったらしく、妖力が最大限まで上がってしまったそうだ。

 成熟した妖であれば妖力が上がる程度で終わるが、半妖はそうもいかない。


 翔の場合、最も妖力が上がったせいで人間の血が薄れてしまい、自然と妖狐になってしまった。

 だから今回のような騒動が起きてしまったのだと、おばばは説明してくれる。


『坊やは満月の夜に妖になった。だから自分の意思とは関係なく、妖狐になってしまったんだ』


 また生まれた夜と対になる夜のことを、『(しず)の夜』と呼ぶ。

 これは妖力が最も下がる日の夜を指しており、翔の『静の夜』は『新月』になるらしい。


『おばば、俺は元に戻れないのか』


 ようやっと口を利いた翔に、おばばが明け方には戻ると返事をくれる。


『……今すぐには戻れないのか』


 今すぐ戻りたい翔は落胆してしまう。

 元気を出すよう青葉に声を掛けられるが、気は滅入るばかりだ。

 ただでさえ大好きな幼馴染らから捕縛されそうになるわ、可愛がっているギンコに怪我を負わせてしまうわ、散々な目に遭っている。

 やっと翔の身に何が起きているのか把握するも、すぐに戻れないと言われてしまったのだから落胆するのは仕様がない話だ。


 ああ。どうしてこんな目に遭わなければいけないのだろう。


「なんじゃ戻りたいのか」


 翔がゆるりと顔を上げ、比良利にひとつ頷く。


「ふむ。狐の姿は我らにとって馴染み深いが、お主には違和感のある姿なのじゃろうのう。あい、分かった。わしが元の姿に戻してやろうぞ」


 けれど、それは妖の社に着いてからだと比良利。

 翔を元に戻すにしても、ここはヒトの目がある。妖術を使うには少々目立ってしまう。


 すべては妖の社に帰ってからだと告げて、比良利がわしゃわしゃと翔の頭を撫でた。安心させるための行為だと翔には分かっていた。


(確かに、妖術ってのは目立つだろうけど……今さらな気もする)


 だってここには巫女装束や浄衣を身に纏っている連中がいる。

 それだけで十二分に目立っているのでは、と翔は思ったが、それ以上に心を占めているものがあった。

 それは北の神主の優しさに対する感動であった。

 彼とは会って間もないが、この男は慈悲深いこと極まりない。

 これが妖をまとめる頭領、北の神主なのか。


(双子の対とか、頭領とか聞かされていたから、怖いおっちゃんを想像していたけど……良かった。比良利さん、すごく優しそうだ。見た目も若そうだし)


 実年齢は……なのだろうが、まあそれはそれ。

 翔と話が合いそうである。


 そのようなことを思っていると、比良利が妖の社まで先導すると言い、青葉の脇を通り過ぎる。


「ひゃっ!」


 その際、青葉から悲鳴が上がった。


 どうしたのか。

 翔が青葉を見やった次の瞬間、彼女の張り手が比良利の右頬に直撃する。


(えっ……)


 驚く翔をよそに「これまた痛烈じゃ」と比良利。

 青葉の尻から手を放し、その痛みに嘆いていた。

 ハッと我に返った青葉が気恥ずかしそうに頭を下げるものの、謝罪の言葉はない。当然非は比良利にある。


『比良利の坊や。お前さん、相変わらずの助兵衛狐(すけべえぎつね)だねえ』


 呆れ返るおばばに対して、何を言うかとばかりに比良利は反論した。


「おなごの尻がそこにあれば触るもの。それがおのこの浪漫(ろまん)ゆえ」


 それは、俗にいう開き直りであった。


「ふむ。オツネも大層良い体つきをしておるのう」


 にへへっ。

 えげつない笑みを浮かべる比良利は興奮している様子。ぴんと狐耳を立て、六つの尾っぽをくねらせている。


(待て待て待て! ギンコがあぶねえ!)


 可愛いギンコの身が危ない。

 翔は大慌てで比良利の下に駆け、その腕に抱いている銀狐を寄こすように袴を銜える。

 すると比良利が「仕方ない男じゃのう」と頷き、翔にも触らせてやろうと口角を持ち上げる。助兵衛な奴め、と付け加えて。


 翔は見事に石化した。

 これが北の神主の本性なのだろうか。

 先ほどまでの慈悲深さがまるでない。あの時の感動はなんだったのだ。


「オツネは私があずかりまする」


 青葉が冷たい目を向け、比良利の腕から銀狐を奪う。

 落胆の声を上げる比良利は言い訳のようにぶつくさ呟いた。


「わしゃあ、神職にしか手を出さぬと誓っておる。ちゃんと我慢しておる。ゆえに神職のおなごに触ることくらいは許してほしいものよ」


 何を言っているのだ。この狐。

 翔は白目を向けた。このご時世、セクハラは大問題である。死活問題である。宝珠の御魂よ、選ぶ妖を間違えたのでは?


 そのようなことを思っていると、『わたしも危ないかもねえ』と、おばばが小さく鳴く。

 いや、それはどうだろう。熟女ならありだろうが、おばばは熟女だろうか。

 翔がちらっと比良利を見やれば、彼は悲しそうに耳と尾っぽを垂らした。


「勘違いも良いところじゃ。わしは神職のおなごしか触らぬ。それに……ババアの枯れた体を触っても楽しゅうない」


 なるほど、非常に正直な男のようだ。

 間もなく、比良利の顔面に猫の引っかき傷ができたのは余談としておこう。



 はてさて。

 妖の社と繋がっている玉桂(たまかつら)神社前にて。


 翔は比良利の腕に抱かれていた。

 理由は翔が狐姿になっているので、比良利が気を利かせて翔を腕に隠してくれたのである。

 腕に抱くだけなら、まだ翔の姿は目立っていたが、比良利は和傘を差している。和傘が壁になってくれているおかげで、翔は無事にひと目をひくことなく、ここまでたどり着くことはできたのである。


玉桂(たまかつら)神社だ』


 翔は見覚えのある鳥居を目にするやホッと息をついた。

 元の姿に戻れない以上、ヒトのいる世界は妖の翔にとって危険極まりない。

妖祓に狙われることもあれば、宝珠の御魂を狙う低俗な妖に狙われることもある。


 そのくせ、普通の人間に妖の姿は視えない。都合の良いこともあるだろうが、視えないヒトに対して気遣わなければいけないのも確か。


 妖らにとってヒトが暮らす世界は、さぞ生きにくいことだろう。

 身を持って体験した翔は、少しならず妖に同情した。


「さあて、社に入るかのう。玉桂(たまかつら)神社から妖の社に戻るのは久方ぶりじゃのう」


 おや、その意味は、

 翔は比良利を見上げる。


「普段、わしは紅鏡(べにかがみ)神社から妖の社に戻るのじゃよ」


 うん?

 翔はこてんと首を傾げる。言っている意味が分からない。


「ほほう。お主は表社のことをまだ知らぬのじゃな。良かろう。北の神主であるわしが直々に教えてしんぜよう。まず妖の社に入ろうか」


 鳥居の右側に立った比良利は、社の入り口を開くために鳥居を軸にして8の字に歩く。

 しかしここで、彼は反時計回りに歩かなければいけないところを、時計回りに歩き始めた。


(なんで反時計回りじゃないんだ?)


 翔がふたたび見上げると、「よく見ておくんじゃぞ」と、言って得意げに笑う比良利がそこにはいた。

 軽やかな足取りで石段を一段越しにのぼる比良利を、青葉やおばばは止めようとしない。

 寧ろ、彼らも同じことをして後ろからついて来る。


(これじゃあ妖の社に入れないんじゃ)


 疑問符を頭上に浮かべていると、石段のてっぺんに差し掛かった。

 結界反転の術により空間が少しずつねじ曲がっていく。そして本来辿り着くべき神社は姿を消し、いびつな化け物らが集う妖の聖域が顔を出す。妖の社だ。


(……あれ?)


 しかし。翔がいつも目にする妖の社とは雰囲気ががらりと違っていた。

 建物や境内の作りに変化はないが、現れるはずの寂れた参道がそこにはなく、その道を沢山の生き物が歩いている。


 二足歩行の者、四足歩行の者、人の(かたち)をした者、獣の容をした者、それすら分類に入らない者。参道を歩く誰もが拝殿を目指している。参道の外れでは二つ尾を持った猫たちが井戸端会議を。参集殿(さんしゅうでん)と呼ばれる建物では顔のない人々、所謂のっぺらぼうたちが将棋をして盛り上がっていた。


「景気づけに蒲焼(かばやき)黄金虫(こがねむし)の蒲焼はいらんかね。今なら墨餅(すみもち)もつけるでよ。そこの旦那、ツツジの甘酒を飲んではいかないかい? もみじの辛酒もあるでよ」


 さらに参道の参集殿側には出店が開かれた。

 売られている内容はともかく……一つ目小僧が賑やかに商売をしている姿は、印象深いものがある。


「あら安い。買おうかしら」


 頬に手を当て主人に声を掛けているのは一人の女性。ただし体が蛇の体をしている。

 ()れ女という妖らしく、比良利は彼女を見るや興奮したように、美しい女体だと三尾している。

 特にくびれの締まり具合について感動していた。比例して、持ち前の尾っぽと耳が出ている。嬉しそうにパタパタと動いている。呆れて物も言えない翔である。


『相変わらず。日輪(にちりん)の社は栄えているねぇ。神主はこれなのに』


 女体にでれでれと口角を緩めている比良利に、おばばがちくりと皮肉をこぼす。


「これとはなんじゃ」


 不満げに鼻を鳴らす比良利に、本当のことじゃないかと猫又は憮然に鳴いた。


『日輪の社?』


 翔は瞳孔を真ん丸にすると、ふたたび社を観察するためにぐるりと首を動かす。

 此処は月輪(げつりん)の社ではなく、対となっている『日輪の社』らしい。


 そういえば、月輪の社とは異なり寂れた空気もなければ、参道や建物も綺麗に整備されている。

 それなりに月輪の社も立派だとは思うが、妖が集い賑わう日輪の社の雰囲気には負けている。


 闇が深まる夜だというのに昼間のような明るさだ。

 参道の道沿いに等間隔単位で松明(たいまつ)が焚かれているせいだろうが、要因はそれだけではないだろう。


(たくさんの妖がいるおかげだろうな。ワクワクしてくる)


 ここにいるだけで気持ちが賑やかになり、なんだか楽しくなる。沈んでいた気持ちが浮上する。拝殿に行って神様に手を合わせたい気持ちが芽生えた。

 ああ、元気が出てくる。不思議な社だ。


 翔は自然と三つの尾っぽを振らして、境内の空気を楽しんだ。

 それに気づいた比良利がそっと自分を地に下ろす。


「ジッとしておれ」


 ゆるりと翔の頭に左手を置いてくる。

 何をするのかと身構える翔をよそに、右の人差し指と中指を立て、静かに(とな)(ことば)(つむ)ぎ始めた。


 聞き取れない言葉に翔はまばたきを繰り返し、比良利をじっと見つめる。

 じんわりと体の芯が温まってきた。

 体内で妖力の動きを感じ、なにやら変化が起きているのだと察する。


「あ、れ」


 気付けば人型に戻っていた。

 家着代わりに使用しているジャージ姿でその場に尻をついていた翔は、自分の手足に目を落とす。狐の手足ではない。胸部や背中を確認。尾てい骨辺りに三本の尾が生えたままで、ついでに頭に耳も生えているようだが、姿かたちはヒトである。


「戻った!」


 勢いよく立ち上がり、大喜びする翔は何度も手のひらをグーパーと動かす。


「ありがとう。俺を元に戻してくれて」


 比良利に感謝すると、彼は目尻を下げて肩を竦めた。


「お主はヒトの子。その姿を好むのは当然じゃろうな。それにしても、随分と若い妖狐じゃのう。歳をなんぼじゃ? 五十路(いそじ)ほどか?」


 五十路は五十歳のことである。

 妖の価値観で年齢を聞かれても困る。


「十七ですけど」


 頬を掻いて返事をすると、比良利が血相を変えて驚きを見せた。


「なに? 十代なのかお主。コタマから若いことは聞いておったが、まさか十代とは……赤ん坊も同然じゃのう」


 大変失礼な発言である。

 これでも人間の年齢では、成人に近い年齢なのだが。


 不機嫌になる翔に青葉がクスクスと笑声を漏らした。

 ひどい、見た目は青葉と変わらないというのに! そりゃあ中身は百五十前後のおばあちゃんだが、見た目はほぼ青葉と同年代じゃないか!


 ますます不機嫌になる翔だが、彼女の腕にいるギンコに目がいくと表情が一変する。


 何事もなかったかのように眠りについているギンコに目を細め、青葉の手からそっと銀狐を受け取る。

 手触りの良い体毛を撫でた後、「ごめんギンコ」と、その身を抱き締めた。


「俺を庇ったばっかりに。ごめん、ごめんな。怪我させてごめん」


 罪悪感を抱く。

 この怪我の元凶が、大切な幼馴染らだという現実に打ちひしがれそうだ。


「翔殿」


 しゅんと耳や尾を垂らして落ち込む翔に、青葉は何か励ませる言葉はないかと探していたが、言葉が見つからないようだ。出しかけた手が宙をさまよっていた。


 代わりに手を差し出したのは比良利だった。

 彼は優しく翔の肩に手を置き、柔和に綻ぶ。


「オツネならば案ずることはない。それよりお主にも手当てが必要じゃて。ヒトが使う呪符は、妖にとって毒そのもの。手当てをせねば、腫れるばかりじゃ」


 比良利がおもむろにジャージを引き上げ、翔の左手首を観察する。

 赤黒く腫れた手首には(ふだ)の貼られた痕が残っていた。同様に右足首も腫れていることだろう。


「妖祓が使った術は? それを食らったギンコは大丈夫なのか?」


 再三再四、北の神主にギンコの身を尋ねると彼は強く大丈夫だと肯定してくれた。

 眼光の強さと限りない優しさを見つめ返し、力なく笑う。


 比良利は不思議な男だ。

 少ない言葉で、人を納得させ、頷かせ、認めさせるのだから。


「しかし、オツネは見れば見るほど良い体つきじゃのう。ぼん、そろそろ腕が疲れてきたであろう。代わろう」


 これさえなければ最高に尊敬できる狐だというのに。

 ケダモノが十本の指を余すことなく動かして、うっとりとギンコを見つめる。

 何度も言うが彼は北の頭領であり、此処日輪の社の神主である。なのに、ケダモノに成り下がるとはこれ如何に。


「……比良利さん、近づくなよ。まじで」


 翔は可愛い狐を守るために十歩ほど後ずさった。

 自分だけ狡いと不満を漏らす比良利だが、勘違いをしてほしくない。

 翔はギンコに対してヤマシイ気持ちなどない。尾っぽを触りたいとか、体を撫でまわしたいとか、そのような無礼な考えは持ち合わせていない。いないのである。


――ドンっ!


 間もなく、背中に大きな衝撃が走った。

 勢いづいたそれのせいで、翔の体が前のりになる。


 咄嗟の判断で体を反転させたため、腕に抱く狐に被害はなく、翔自身も叩き付けられる衝撃は少なくて済んだ。

 もっとも、翔に迫っていた比良利は甚大な被害を受けたようだ。


「ぼん、お主……わしが北の神主と知っての行為かのう」


 どうやら北の神主を下敷きにしてしまったようだ。

 翔は急いで比良利から退くも、あまり申し訳ないと思えなかった。天罰だと思っても、翔は一切悪くないだろう。


 視界の端に金色の体毛がちらついた。

 既視感(デジャヴ)を感じた翔は反射的に頭を低くする。

 金色の体毛を持った生き物が剛速球並みの速さで飛んできた。後ろで背中を擦っていた比良利の顔面にそれが直撃したことで、比良利は奇声を上げてふたたび倒れてしまう。


 犯人は日輪の社の神使、ギンコの許婚でもあるツネキだった。

 軽やかに宙を返って地に着地する金狐は、総身の毛を逆立てると、尾っぽを右に左に激しくくねらせる。

 持ち前の鋭い犬歯を見せてくるツネキは殺気立っていた。

 初対面とは比べ物にならない。周りが見えないほど憤っているのだと察した翔は、再度向かってくるツネキの牙を受け止めるために右の腕で構えた。


『ツネキ!』


 おばばの制止にすら反応を示さず、金狐が容赦なく噛み付いてくる。

 牙は容赦なく肉に食い込んでくる。

 痛みで顔を歪めてしまうが、そんなことどうでも良かった。


 ツネキはギンコの一件を知っているのだ。どこまで知っているのかは分からないが、きっと負傷したことを知っているのだろう。


「ごめん」


 蚊の鳴くような声で翔はツネキに謝罪する。

 毛を逆立て、唸り声を上げ、食いちぎらんばかりに腕を食むツネキに何度もごめんと繰り返した。


「お前の許婚を傷つけた。俺が弱かったから、ギンコが庇って……ごめん」


 大切な許婚を傷つけてしまった。守れなかった。怪我を負わせてしまった。許しを()うつもりはないが、どうしても謝罪したかった。ギンコを愛している許婚に。


 すると何を思ったのか、翔と目を合わせたツネキがそっと口を放した。

 やり切れないように唸り、クックッと鳴き、軽く翔の体を頭部で小突いてくる。

 仕舞いには飛躍して翔に頭突きをかます。お前みたいな奴が彼女を腕に抱くなと言わんばかりに、ツンとそっぽを向いてしまった。


 あまり痛くはない頭突きを食らった翔は、額を擦りながらツネキを見つめる。

 

 翔にはツネキの言葉は分からないが、なんとなく雰囲気で分かる。


 金狐は容赦をしてくれているのだろう。

 許すとまではいかないが、何か事情があったのだと頭が冷え、それなりの態度を取ってくれている。


 ツネキは頭に血がのぼりやすい性格ゆえ、先に体が出てしまうのだ。

 本音をいえば事情を聴いてから飛び掛かるなり、噛みつくなりしてほしいところだが、翔はツネキの心情が痛いほど分かるため何も言わずに苦笑いを浮かべた。


「ツーネーキ」


 心穏やかではない輩は此処にもいた。

 赤く腫れた額をそのままに、口元を引き攣らせている比良利は、むくっと上体を起こしてツネキを見据える。


「わしに、なにか申すことがあろう」


 彼の殺気に気付いたツネキがぎょっと身を引く。

 禍々しい空気を放つ北の神主は完全に憤っていた。


「お主という奴は」


 比良利は逃げようとするツネキの首根っこを抓み、その短気な性格はどうにかならないのかと呻く。どうやら、彼もツネキの性格に苦労しているらしい。

 誤魔化すように可愛らしく鳴くツネキだが、相手は妖狐。獣の愛らしさなんぞ通用しないようだ。

 青筋を立てる比良利が握り拳を作った、その直後、翔の腕にいたギンコが身じろいだ。


 かまびすしい騒動に目が覚めたのだろう。じわりじわりと瞼を持ち上げていく。


「ギンコ。気がついたか?」


 何事もなかったかのように欠伸を零し、ぼんやりと宙を見つめるギンコにおずおずと声を掛けると、銀狐がうんっと首を傾げて鳴いてきた。どうしたのだと言わんばかりの眼である。心の底から安堵した瞬間だった。


「痛いところはないか? あったら遠慮なく言うんだぞ」


 銀狐の身を抱き締める。

 その言葉に、ギンコは少しずつ一件を思い出したのだろう。萎れたように耳を垂らし、クーンと悲しげに鳴いた。

 そんなギンコに謝罪しようとしたのだが、比良利が割り込むような形で銀狐の顔を覗き込む。


「オツネ。久しいのう」


 愛想よく笑って手を挙げる比良利に驚き、眼を開き、ぶわりと毛を逆立てたギンコは一変した。

 低く唸り声を上げるや否や、翔の腕から飛び出して彼の顔に尾っぽをぶつけた。


「なっ、ちょっとギンコっ。いきなりどうしたんだよ」


 頓狂な声を上げる翔を余所に、地に着地した銀狐は比良利に向かって吠える。

 嫌悪感を惜しみなく曝け出し、けれど、何かに怯えるように姿勢を低くする。


「オツネ。あまりに無礼ですよ。貴方の気持ちは分からないでもないですが……」


 青葉が落ち着くよう窘めると耐え切れなくなったのか、くるりと尾を向けて本殿の方へ駆けてしまった。


「ギンコ!」


 翔が呼んでも獣は止まらない。

 許婚を心配したツネキが、比良利の手を逃れて、その後を追う。


「また逃げられてしまった。相変わらず、オツネに毛嫌いされとるのう」


 今日こそ、友好的に会話ができると思ったのだが……。

 事はそう簡単にうまく運ばないものだと比良利が吐息をつく。


 それは決して比良利がセクハラまがいなことをするからではなく、彼自身の何かにギンコが嫌悪を抱き、獣から毛嫌いされているようだ。

 セクハラを抜かせば好青年であることに間違いはないのだが、ギンコは思うところがあるらしい。


「やり切れぬのう」


 肩を落とす比良利に『オツネもまだ子どもなんだよ』と、おばば。

 慰めの言葉を掛け、年月を掛けてワダカマリを解こうと助言した。


『それより、憩殿(いこいどの)に案内しておくれ。早く坊やの手当てもしたい。オツネは……少しばかり、ひとりにさせてあげようかねぇ。なあに、ツネキもいるんだ。大丈夫だよ』


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