<六>人の白狐、幼馴染の妖祓(弐)
ところかわって、飛鳥は戦意を喪失していた。
多大な罪悪感が胸を占めている。
まさか白狐を庇う妖狐が現れるとは思わなかったのだ。
狐らは親しい仲なのだろう。睦まじい空気を醸し出している反面、その身を投げ出しても相手を守りたい、という強い意思が窺える。
銀狐が動かなくなったことで、庇われた白狐は悲しそうに鳴き、狐の体を鼻先でつつく。痛む足を引きずり、動いてくれ、目を開けてくれと言わんばかりに何度も鳴いていた。か細く鳴いていた。
言葉がなくとも分かる白狐の絶望。
愛すべき狐を失ったやもしれない、その現実に小さく鼻を鳴らしている。
(……見ているだけで、つらくなる)
そして飛鳥は白狐から銀狐を奪った者となる。
今まで当たり前のようにヒトを襲う妖を祓い、調伏をしてきたつもりだが……目の前の光景は、妖祓としての在り方すら見失いそうだ。
「……飛鳥。捕縛しよう」
朔夜は意思を変えようとはしない。
彼なりに妖祓としての自尊心があるのだろう。くぐもった声音を耳にするかぎり、別の感情が宿っているのも確かなようだが。
好意を寄せている朔夜に声を掛けられても、飛鳥は反応を示せずにいた。
と、飛鳥は意を決したように呪符に宿った法術を解き、白狐を解放した。
「飛鳥、何をしているんだいっ」
驚く朔夜に、飛鳥はぎこちなく笑って見せた。
「もしも私が白狐なら痛みが邪魔で仕方が無いと思う」
銀狐に寄り添いたいのに、痛みに囚われて何もできない。
そんなの白狐にとって邪念でしかないだろう。
「妖祓として間違ったことをしたのは分かっている。でも、人として間違ったことはしたくない。そう思ったから。ごめんね、朔夜くん」
ゆるりと視線を戻す。
痛みから解放された白狐が、先程よりも軽やかな足取りで銀狐のまわりを歩きっていた。
懸命に銀狐を介抱しようと頭を体にこすりつけ、優しく顔を舐めていた。
(……どうしてあげればいいんだろう)
あの白狐を、銀狐を、どうやって捕縛すれば良いのか、飛鳥には分からずにいる。
しばらくの間、その場に佇んで妖狐らの様子を見守っていたが、飛鳥は意を決して妖狐らに歩み寄る。
「飛鳥」
相棒の呼び掛けは無視をする。
妖を祓うことを専門としている妖祓だ。
その生態について学ぶことも多い。妖狐らを傷つけないよう保護して、早めに手当てをすれば、あの銀狐は助かるのでは。
(捕縛はだめだ。保護しなきゃ)
偽善と言われようと、飛鳥は狐らを保護したかった。助けたかった。
しかし白狐は良しとは思わなかったようだ。
白狐は垂らしていた耳をぴんと立てると、歩み寄ってきた飛鳥を凝視。急いで銀狐に覆いかぶさって、狐を庇う素振りを見せた。
これ以上、手を出さないでくれと言わんばかりの態度だ。
(警戒してる。当たり前だよね)
自然と足を止めてしまう。
警戒心をむき出しにして、飛鳥を見据えてくる白狐と目が合った。
白狐は鋭く、けれども哀しげに飛鳥を見つめていた。また傷つけるのかと問うように見つめてくる、その瞳には確かな恐怖が宿っていた。
と。
『アレハ銀ノ狐。欲シイ、チカラガ、欲シイ』
『宝珠ノ御魂。アノ、チカラ、サエ、アレバ』
『次ノ、南ノ神主、ニ、我コソ』
団地の奥に潜む闇夜から、ねっとりとした低い囁きが聞こえた。貪欲に囁き合う声音は、悪意にまみれており醜悪すら感じる。
飛鳥が周囲を見渡すと闇の向こうに無数の妖力、そして不気味な赤い点が見え隠れしていることに気づいた。点はぎょろぎょろとした妖の眼光だった。
(もしかして、妖が団地の公園に集っているの?)
飛鳥の背筋に冷たい汗が伝い落ちる。
日々妖を調伏しているはずなのに、肌に感じる妖気は尋常ではない。十や二十なんぞと可愛い数でもない。本当に数多の妖気を感じる。いちいち数なんて数えていられない。
闇に潜んでいた化け物らがのそりのそりと姿を現す。
三白眼を持つヒトのかたちに近い者。四つ目を持つ獣。角が生えている輩に長い舌を持つ輩。地を這う者、空を飛ぶ者、体格は大小さまざまだ。
「構えろ飛鳥! こいつらはまぎれもなく、人食いをする化け物だっ!」
闇にまぎれて四方八方を取り囲む化け物らの数に気圧されていると、朔夜が声音を張ってきた。
我に返った飛鳥は急いで呪符を身構える。
「消えろっ、お前!」
おもむろに一体に呪符を放って調伏を試みたが、所詮一体に過ぎない。調伏したところで、すぐに別の化け物が公園に侵入してくる。
何かを目指しているようだ。
(みんなどこかに向かっているみたいだけど……)
飛鳥が化け物らの視線の先に目を向ける。
「……まさか」
視線の先には狐らの姿。
化け物らは一心不乱に狐らを狙っているようだ。
群れをなして狐らに飛びかかろうとしている。
いち早く危険を察知した白狐が、銀狐を守るように化け物に噛みついていたが、次から次へと化け物らは狐を……銀狐を食らおうと大口を開けていた。
化け物らの目的は銀狐のようだ。
飛鳥は呪符を放って声音を張る。
「その子たちに手は出させない。私が相手だよ!」
一方その頃、翔は襲い掛かってくる妖に噛みつき、輩の肉体を引きちぎっていた。
『ざけんなよ』
肉片を口から出して総身の毛を逆立てる。
妖祓や負傷したギンコのことで手一杯なところに、この追い撃ち。揃いも揃って失神しているギンコを狙い、我先に狐を食らおうと襲ってくる。
ああくそ、一刻も早くギンコを手当てしなければならないのに!
腹の底から唸り声を上げると、翔は尾っぽを左右に振って威嚇を示す。
しかし翔に妖力はあれど、それを具体化する術は学んでいない。火でも出せたらいいのだが、半妖の翔には少々難しい。
ゆえにいまの翔にできることは、せいぜい相手に噛みついて傷を負わせることくらいだ。
正直なところ、この数に太刀打ちできるほどの力は持っていない。
(どいつもこいつもギンコを狙いやがって)
翔は怒り心頭に発していた。
負傷したギンコを、狐の体内に宿る宝珠の御魂を、我が物にする絶好の機会だと襲い掛かってくる化け物らの醜悪なこと。醜悪なこと。
ああ、こんなにも多くの妖にギンコは狙われていたのか。
以前、翔たちを襲ってきた妖鳥などほんの一部でしかない。ギンコは常に化け物らから、その命を狙われていたのだ。
それでもギンコは危険も顧みず、自分の下に駆けてくれた。
(もうギンコの体内に宝珠の御魂は無い。それくらいも分からないのか、くそめ)
化け物らが喉から手を出したくなるほど欲している宝珠の御魂は、生憎翔の体内に宿っている。銀狐の体内にはもう宿っていない。
それすらも分からず私利私欲の儘、銀狐の命を脅かしてくる化け物らが憎くて仕方がなかった。
こんな化け物らがいるせいで、妖祓は片っ端から妖を調伏や捕縛をしてしまうのだ。傍若無人に振る舞う化け物らのせいで。
(そっちから来てるっ、ざけんなよっ!)
地を這う犬を模ったような妖が紫色に染まった長い舌を出し、大量の涎を垂らしながらギンコに直進した。
(指一本触れさせるもんか)
翔は先回りして、ギンコを跨ぐように降り立つ。
くわっと赤い口を見せ、四方八方を取り囲む化け物らに鋭い眼光を飛ばした。
銀狐の身を狙うのならば、まず自分の命を狙え。
でなければ、ギンコは手にできない。
そう言わんばかりに闇が広がる夜空に吠え、翔はその身に宿っている妖力を解き放った。
挑発に乗った化け物らの一部が翔に飛び掛る、その瞬間――白狐に生えている三本の尾っぽが、長い脚が、体毛に包まれている体が白濁の光に包まれ、一瞬にして爆ぜた。
ギンコとさほど変わらなかった体格は三回りほど大きくなり、尾っぽは天に向かわんばかりに伸びる。
犬歯はより鋭く太くなり、白狐の額には勾玉を模ったような模様が浮かぶ。
それは体毛とは対照的な色をしており、漆黒を帯びている二つ巴であった。
光に巻き込まれた化け物らは存在ごと消滅し、塵と化して夜風に運ばれる。
闇に隠れる化け物らからどよめきの声が上がった。
――あれは南の神主である象徴。まさか次の神主が現れたのか。まだ見習いなのか。宝珠の御魂はあの狐に宿っているのか。
様々な声が聞こえてくる。
耳障りなことこの上ない。
物怖じていた化け物らが、欲に負けて翔目掛けて飛び掛ってくる。翔は地面を蹴り、宙を翔る。持ち前の尾っぽに青白い炎を宿らせると、容赦なく化け物らに放った。
身を焦がして塵と化していく哀れな化け物らに目もくれず、地面に着地した翔は周囲を見回して、化け物らを冷然と見据える。
月光を浴びている妖狐の存在そのものが神々しい光を放っていた。
「朔夜くん。あれは……」
「後光が差しているように見える。あの妖狐は神使なのか?」
息を呑んでいる幼馴染の存在など気にも留めず、ただただ翔は化け物らを捉える。
月輪の神使を守るために。
「一尾お前に向ける笑みくりゃさんせ」
第三者の声音。
「二尾お前と悲しむ涙くりゃさんせ」
張り詰める空気を裂くように、柔らかなわらべ歌が聞こえてくる。
それを口ずさんでいる輩の姿は未だ見えない。
「三尾慕情の花が咲き、四尾別れを惜しむ情もあり」
しかし、確実に公園に向かっている。
「五尾切なさ時にあれども、六尾怒りで我を忘れることもあれども、あるいは七尾弱き心に打ちひしがれることもあれども」
次第に大きくなる歌声、闇夜に隠れる化け物らが怯え始めた。
よほど恐ろしいのか誰もが身を委縮させ、挙動不審に周りを見渡し、一向にその場から動こうとはしない。
「八尾強き心が芽吹き、九尾お前と生きる喜びに目覚めよぞ」
歌声の主がようやく姿を露にする。
輩は大きな和傘、赤い下地に白の弧を描いた蛇の目模様の傘を差していた。
狩衣、帯、袴まで見事に白に染まっている輩は浄衣姿である。
しかし従来は被っておかなければならない立烏帽子は被っておらず、紅の長髪がよく白に映えた。
輩は若き男。
「嗚呼、九つ尾っぽにゃ情がある。まことに嬉しきかな嬉しきかな」
背中の向こうには紅く長い尾っぽが六つ。
頭には狐の耳が生えていた。
「――やれ、これは狐のわらべ歌と呼ばれるもの。わしのお気に入りよ」
くつり、と笑みを零す男は、糸目でほとんど見えない瞳を和らげる。
開眼しているのかどうかすら怪しい。
男は警戒心を抱く翔に目を向けた後、不遜な輩どもに視線を留めた。
「同胞に手を下すとは。よほど命を懸けたとみた。うぬら」
たった、それだけの言葉で化け物らは慌てふためいた。
我先にと言わんばかりにギンコを狙って目をぎらつかせていたというのに、これまた我先にと言わんばかりに身を翻して闇の向こうを目指す。
みながみな、脱兎の如く逃げ始めた。
「まさか、この比良利からは逃げられると思いか? 舐められたものよのう」
竹で出来た傘の柄を握なおし、男が傘で宙を横一線に薙ぎ払う。
風が白い螺旋をえがいた、次の瞬間、闇夜に消えようとしていた妖の体にまとわりつき、見事に発火した。
めらめらとした紅い炎が化け物らを次々に呑み込んでいく。
金切り声を上げて消滅していく化け物らに鼻を鳴らし、「下賤にはお似合いの最期じゃな」と皮肉を浴びせていた。容赦のかけらもない。
「さてと」
男が蛇の目傘を折りたたむ。
そして、ゆるりと翔の方を振り返った。銀狐を守るために慌てて身構えるも、男は一変して微笑んでくる。
「そうか。お主が話に聞く白狐」
慈しむように笑声を漏らすと、翔に歩み寄ってきた。
「白狐よ、我が双子の対よ。そう身構えるでない」
双子の対。
男は確かにそう言った。ということは。
「わしは六尾の妖狐、赤狐の比良利。またの名を、四代目北の神主と申す」
北を統べる神主。
この男が噂に聞く南の神主の対なのか。
想像していたよりも、ずっと若い。二十代前半に見える。
大きく眼を開く翔、もとより白狐の巨体を見上げ、比良利がそっと鼻先に触れてきた。
「お主に妖型はまだ早い」
元の姿に戻るように告げてくる。
ここにはもう誰も狐らを傷つける者はいないから、そう付け足して。
(……でもギンコが)
翔は身を挺して守ってくれた銀狐に、そっと目を落とす。
つられて比良利も視線を落とした。
「オツネ、失礼するぞ」
銀狐の容態を診るため、比良利は持っていた和傘を地面に置いて片膝を折る。
ギンコの焦げた体毛に触り、失神している狐の頭を撫でた。
「……傷は浅いようじゃが、法術は後遺症が残るやもしれぬ。白狐よ、力を貸してほしい」
比良利は翔に持ち前の妖力をギンコに送れるか、と尋ねてきた。
「お主の妖力はオツネから受け継いだもの。治癒力を高めることができよう」
やれるかどうかは分からない。
しかし、指を銜えて見ているだけなんぞ翔にはできない。
翔はひとつ頷くと、ギンコの頭に顔を寄せてそっと瞼を下ろす。
全身の力を抜き、体中にめぐる妖力をギンコに向ける。まもなく翔の身が光に包まれた。
(妖力を送る。ギンコが瀕死状態の俺にしてくれたことだ)
かつて銀狐がその妖力を持って翔の命を救ってくれた。
ならば翔も同じことをしよう。
翔は満ち溢れんばかりの妖力を銀狐に送る。
既に妖力の制御を練習する過程で、ギンコの妖力は何度も受け止めていた。
受け止めることができるのならば送ることだってできるはずだ。自分の中の妖力を器に移すようなイメージを頭で描きながら、翔は比良利がもう十分だと合図するまで妖力を送り続けた。
「うむ、もう安心じゃろう」
比良利が声を掛けてきた。
翔はそっとギンコから顔を離して、銀狐の具合を確認する。
月光に照らされているギンコの毛並みは見事に銀色であった。うつくしい色を放っていた。
あれほど焦げて潤いがなくなっていた毛先も、元通りの瑞々しさを取り戻している。
未だに気を失っている銀狐の身を案じて小さく鳴くと、微かにギンコの耳が動いた。目を開けてくれるやもしれない。
ひたすらギンコの目覚めを待っていると、比良利が苦笑いした。
「法術を浴びたのじゃ、しばらくは起きぬよ。さりとて傷は癒えた。痛みもなかろうて」
じっと比良利を見つめる。
「安心せえ。半日もすれば目も覚める。オツネは元気になる」
それを聞いてようやく安心することができた翔は、比良利の言葉を信じることにした。溢れた妖力を鎮め、妖型とやらを解く。
元の獣型になる翔に目尻を下げた比良利はギンコを腕に抱くと、放置していた和傘を拾い、すくりと立ち上がった。
「さあて。そこのうぬらは妖祓のようじゃが」
すっかり蚊帳の外に放られていた朔夜と飛鳥が強張った面持ちを作る。
比良利から醸し出される桁違いの妖力に恐怖しているのだろうか。それとも……。
舐め回すように人間を観察していた比良利だったが、意味深長に口角を持ち上げると片手で和傘を開く。
蛇の目模様を妖祓に見せ、軽く柄を回した。
連動して傘の模様も、くるりくるりと時計回りに回転する。
「妖祓は妖の敵。妖とヒトは相容れぬ」
人間は朝昼を支配し、妖は夕夜を支配する。
まるで月と太陽のような関係性だと比良利は謳う。
「若すぎる妖祓。くだんのことは目を瞑ろう。うぬらも悪気があったわけではない。警戒心があってのこと」
身内が無闇にヒトを襲っていることは事実明白。
それについては謝罪しなければならない。
「この地を統べる北の頭領として、赤狐の比良利はお詫び申し仕る」
くるりと体を反転させ、比良利は妖祓に向かって深々と頭を下げる。
そして踵を返すと「帰るぞよ」と、翔に声を掛けて公園の出入り口を目指した。
(……朔夜、飛鳥)
翔は幼馴染らに視線を流す。
比良利の妖気に気圧されて動けない妖祓の怖じた眼は、比良利だけでなく、少なからず翔にも注がれている。
それがとても哀しかった。
比良利が言うように妖と人は相容れることのできない存在。
いまの翔の心はヒトであれど、姿かたちは妖。翔は幼馴染らと相容れることはできない。できないのだ。
(つらいなぁ)
のた打ち回りたい悲しみを抱えると翔は痛む足を無視して、出入り口で待つ比良利の下へ颯爽と向かう。
妖らが去った後の公園はただ、ただ、闇と静寂に包まれていた。