<五>人の白狐、幼馴染の妖祓(壱)
◆◆◆
真上に浮かんでいる満月はうっすらと霞がかっている。
まるで雲のシルクに身を包んでいるかのように見える、それは輪郭が朧だった。
それでもなお月は強い光を放ち、シルク越しに地上を照らしている。
今宵は冬季には珍しい朧月夜であった。
(痛ぇっ。なんだよこれ)
朧月夜の下、白狐と化した翔は公園の地面に転がっていた。
右後ろ足に貼りついている札に目を向ける。少し足を動かすだけでも刃物で刺されたような激痛が走った。
札の正体は呪符――妖を捕縛し、調伏するためのものだと、翔には知る由もない。
(どうにか剥がせないかな。これ)
痛みから逃れたい一心で呪符に顔を近づける。
呪符から放たれる強い霊気に阻まれ、触れることすら儘ならなかった。
何もしなくとも、足が火傷を負ったようにじくじくする。鋭い痛みに鳴いていた翔だったが、目前まで歩んできた二つの気配に体を強張らせてしまう。
ぎこちなく見上げれば、見慣れた顔ぶれ。
幼馴染の朔夜と飛鳥が好奇心を眼に宿して見下ろしている。
「見て見て。妖狐だよ朔夜くん」
「うん、見れば分かるよ」
彼らとは付き合いの長い翔だが、こんなにも恐ろしい眼を宿した二人を見たことはなかった。
それは彼らが自分を幼馴染だとは思わず、一端の妖として見ているからなのだろう。
向けてくる眼差しが極めて冷たい。
知らず知らず、総身の毛を逆立ててしまう。
威嚇しているわけでも、脅しているわけでもないのだが、二人の目にはそうは映らなかったらしい。
「飛鳥。妖狐の気が立っているみたいだ。おとなしくさせて」
朔夜の指図により、彼女の制服のポケットから呪符が取り出される。
そして、それは躊躇なく左前足に目掛けて飛ばしてきた。避ける間もなく左前足に呪符が貼りつく。
(熱いッ、痛いッ)
翔は目を瞑って歯を食い縛った。
唸り声に近い声を漏らしてしまう。
(なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだよ。俺、何もしてないのに……よりにもよって飛鳥にこんな仕打ちを受けるなんて)
内心大号泣である。
まさか好意を寄せている飛鳥に、このような仕打ちを受けるなんて、今なら三日三晩泣ける自信がある。
相手が朔夜であれば加減なしに張り飛ばすところなのだが、彼女にそんなことができるはずもなく、翔は力なく耳と尾っぽを垂らした。
ああ、悪夢だと思いたい。
「おとなしくなったようだね。飛鳥、公園で拾った毛はこの妖のものかい?」
飛鳥が片膝を折り、無遠慮に翔の体毛に触れてきた。
「間違いないよ」
あの時の白い毛はこの妖のものだと、彼女は何度も頷く。
(……あの時? なんかあったっけ?)
一体なんの話なのか、痛みに煮えた頭で考えても翔には見当すらつかない。
敵意は見せていないのだから、早いところ呪符を取ってほしいと思うばかりである。
飛鳥が尾っぽに手を伸ばした。
三尾のひとつに触れ、「すごく強い妖力だね」と感心すると、まじまじ尾っぽを観察してくる。
「妖狐は尻尾に妖力をためて、それを増やしていくというけれど、本当みたいだよ朔夜くん。触るだけで鳥肌が立ちそう」
こちらは痛みで毛が総立ちである。
翔は心中で涙ぐんだ。
「飛鳥がそこまで言うのなら、本当にすごいんだろうね。見たところ、この妖狐は白狐だ。白狐は人々に幸福をもたらすとされている善狐の代表らしいけれど、なんでこの町に? 稲荷神社にいるならまだ分かる。神として祀られている狐だからね」
けれども、この辺りの神社に狐が祀られている話なんて聞いたことがない。
「悪意を持った狐じゃなさそうだけど……」
朔夜は小さな吐息をつくと、この狐は見過ごせないことを示唆した。
「巨大な力を持った妖を野放しにしていると、ろくなことがない」
そう言って学ランのポケットから数珠を取り出した。
その数珠は見覚えがある。
彼らが妖祓だと知った『あの夜』に、妖を調伏していた恐ろしい法具だ。
(え。俺、祓われちまうの? まじで?)
身の危険を感じていると、飛鳥が焦ったように首を横に振った。
「待って朔夜くん。白狐の調伏はまずいよ」
白狐は一部の説に、白狐は神使だと記されている。
稲荷神社のように、この狐も神使だとしたら安易に調伏などできやしない。
下手に調伏することで祟り狐になるやもしれないではないか、と彼女は眉を下げた。
「安心しなよ飛鳥。捕縛するだけだ」
朔夜が憮然と返事した。
曰く、前触れもなしに白狐が現れるなど、なにか予期せぬことが起こるかもしれない。この地域には白狐にまつわる伝説など残っていないのだから。
捕縛して玄人の妖祓に見せれば、なぜ白狐が現れたのか、手がかりが掴めるやもしれない。
朔夜がレンズ越しにこちらを見てきた。
「この地に住む人々に危害が及ぶ前に、最善の手は打っておかないとね。白狐であれど相手は妖狐。手は抜けない」
崖から突き落とされる気分である。
朔夜は翔を捕縛して、他の妖祓に見せると言った。
そんなことをされたら、正体がばれるやもしれない。
(すげえ冷たい目で見てくるじゃん。お前)
朔夜の目を見ていると、まるで実験動物にでもなった気分だ。温かみのかけらも感じられない。
一方で胸が痛んだ。
捕縛の前提にあるのが『人間に害が及ぶかもしれない』。
それは朔夜が妖をハナッから信用していない証拠だった。その目を見れば、手に取るように彼の心情が分かる。
(何もっ、何もしていないじゃんかよ)
翔は決して人間に害を及ぼすつもりはない。
これからもその気持ちは変わらない。
ただ妖狐になってしまったため、どうにか元に戻ろうと妖の社へ向かっていた。
それだけなのである。
寧ろ、騒ぎを起こさぬよう配慮して人目を避けていたというのに、どうしてこのような仕打ちを受けなければならないのだろうか。
自分が妖だから?
だったら今すぐこの場で口を開き、自分の正体を明かして、すべてを白状してしまいたい。
(だけど……そんなことをしちまえば)
脳裏に過ぎる逃げ道は、絶望によってすぐに塞がれる。
もしも翔が妖だと彼らにばれてしまえば、それこそ関係が壊れてしまいかねない。
おばばが忠告していたように、妖祓は妖から人間を守る使命と誇りを持っている。いくら此方が危害を与えないと主張しても、人間を襲う妖がいることも確か。
二人はそんな妖から人々を守っているのだ――。
翔が妖だと知ってしまったら、彼らはどう思うだろうか。
先程のような冷たい眼を向けられてしまうのだろうか。
結局何もできず、呪符の痛みに鳴くしかない。
「朔夜くんのお父さんに見せてみる? もし捕縛するつもりなら、暴れないように呪符の数を増やすけど」
飛鳥の質問に、朔夜が頷いた。
冗談ではない。これ以上、呪符を増やされたら翔の身が持たないではないか!
こちとら歯を食い縛って痛みに耐えているというのに……。
なにより、捕縛されるわけにはいかない。彼らと行動を共にすれば、遅かれ早かれ正体がばれてしまう。逃げなければ。
(飛鳥がよそ見をしたっ、今だっ!)
垂れていた真っ直ぐに耳を立てると、呪符を持った飛鳥の右腕を三本の尾っぽで勢いよく振り払った。
「わっ! まだ暴れる力があったのっ」
驚きの悲鳴を上げる彼女には申し訳ない気持ちで一杯になるが、ここを乗り切るためだ。背に腹はかえられない。
抵抗を示すと、数珠を持った朔夜の右手が人差し指と中指を立てた。
術を発動させるために構えを取っているようだ。
(……っ、逃げないと)
思うように動けない翔は、足を引きずって距離を取ろうと努める。
幼馴染らに対して戦意など最初から持つ気などない。
しかし、これ以上の苦痛は耐えられない。
痛みを振り切るように朧月夜に向かって大きく吠えると、翔は無意識のうちに妖力を放出した。
翔を軸に二重、三重の波紋が生まれる。まるでそれは水に波紋のよう。
妖力の波紋に押され、傍らにいた幼馴染達が後ろへ飛躍する。
「なに、あの妖狐。とんでもない妖力なんだけど」
生唾を呑む飛鳥が、化け物を見るような眼で翔を捉える。否、彼らにとっては妖など化け物にしか過ぎないのだろう。
(俺が暴れたら、お前らは……俺を祓うんだろうな)
翔は悲しくて仕方なかった。
ますます彼らに正体を明かせないではないか。
険しい顔つきで朔夜が数珠を鳴らし始める。じゃらじゃら、と不気味な音を奏でながら、その数珠に念を唱える。
「天地陽明、四海常闇、満天下陽炎の如く成りけれ。さすれど一点翳成り。即ち祓除の刃を下さんとする」
それは新たなお経だろうか。
まったく聞き覚えのない念を唱える朔夜は、じゃらっと数珠から音を鳴らすと、それ左右に振る。
すると、少しずつ数珠が暗紫に光る。
彼の霊力を数珠に集約しているのだ。妖狐と化している翔には一目で分かった。
抵抗を見せたことで、妖に敵意があるのだと判断したようだ。
その手で宙を切り、朔夜は眼を見開いた。
「祓除の刃、即ち|業火の制裁。雲散霧消!」
数珠を絡ませた右の手から光が放たれた。
あれほど暗紫に発光していた光は宙に放出された瞬間、目の眩むような紅の光と生まれ変わる。まるで矢の如く、鋭い紅い筋となって翔に向かった。
それは躊躇いもなしに翔の胴を貫こうとしている。
(あれに当たったらやべえって!)
回避しなければ。
足にめぐる激痛など構ってられず、翔はその場で大きく飛躍した。
「甘いよ」
口角を持ち上げる朔夜が右の手を天高く上げた。
瞬く間に紅い筋を描いていた光が屈折して翔の後を追って来る。
直撃を免れるために体を捻り、宙を返って回避した。着地して胸を撫で下ろすもの、隙を見逃さなかった飛鳥が呪符を翔の前右足目掛けて投げる。
とっさの判断で尾っぽで振り払ったものの、その尾っぽに鋭い痛みが走った。
(尻尾にもお札がっ……)
つい、よろめいてしまったが、気丈に体を立て直す。
「やっぱり、ただの白狐じゃなさそうだよ。朔夜くんの法術をかわすなんて」
「僕たちはあの妖を少し、見くびっていたようだね。今度は本気でいかないと」
まだ本気ではないらしい。
(どうしてこんなことになってんだよ)
翔は叫びたくなった。
自分は何もしていない。何もするつもりもない。
ただこの場から去りたいだけ。
それだけなのだ。
抵抗を見せたのも逃げたい一心でのこと。
なのに、どうして幼馴染らは執拗に迫るのだ。どうして放っておいてくれないのだ。
(俺が妖だからか?)
人間の住む町にひょっこりと妖が現れたから、彼らは警戒しているのだろうか。
例えるならば翔は野良犬で、幼馴染らは保健所の役人といったところだろうか。野良犬はいつ、如何なる時に人へ牙を見せるか分からない。
だから捕縛する。被害が出る、その前に。
翔はギンコと出逢った当時を思い出した。
出逢った当初のギンコは翔に敵意をむき出しだった。それを尻目に翔は役所に連絡しようかどうか、悩んでいた。
同じだ。
あの時の翔と、今の幼馴染らは。
今の翔はあの時のギンコなのだ。
捕縛されないため、なにより逃げたいがために幼馴染らと対峙せざるを得ない。そんなこと翔はつま先も望んでいないのに。
(……逃げないと。あいつらから逃げないと)
翔に占める気持ちはこれひとつであった。
大好きな幼馴染らに牙を向けることなど、どうしても翔にはできないのだ。
その気になれば彼らの腕に噛みつき、相手を怯ませて去ることもできる。
しかし、翔には幼馴染に対する確かな情が宿っている。姿かたちは妖でも、心は未だヒトなのだから。
法術を放つための構えを取ってくる幼馴染らに恐れおののき、片隅で泣きたい気持ちを堪えると、尾っぽを二人に向けて駆け出す。
敵意はない。
態度で示したところで妖祓には通じない。
あくまで捕縛を目的に、翔の後を追って来る。
数が一人ならまだしも相手は二人。負傷した翔にとって悪戦である他ない。
「飛鳥、そっちに回って!」
「準備はいつでもできている。朔夜くん、法術をっ!」
手馴れたように妖を追い、飛鳥が新たに取り出した呪符に念を唱え始めた。翔の足に貼りついている呪符が、彼女の持つ呪符と呼応するように光を宿す。
ずきり、と痛みが増した。
(こんなの走れねえって)
思わず足を止めてしまう。
「捉えた」
準備を整えた朔夜が、数珠を鳴らして法術を放つ。
――今度こそ避けきれない。
覚悟したその時、翔は真横から体当たりされた。
体に衝撃が走り、翔の体は木の葉のように吹き飛ばされた。
(いまのはっ)
何が起きたか分からない。
地面に叩きつけられた翔は、目を白黒させながら急いで首を起こす。
世界から音が聞えた。
そこには自分の代わりに、法術を浴びている銀狐の姿がいたのだから。
紅き炎に身を焦がすように、その光が轟々とギンコを焦がしている。
これには幼馴染らも驚いた様子で動きを止めてしまった。完全に不意を突かれたようだ。
『うそだ。ギンコ……』
力なく銀狐が倒れた光景を合図に翔は足を引きずって一歩、また一歩ギンコに近づく。一分一秒でも早く駆け寄りたいが足が痛んで仕方がない。
やっとの思いでギンコの下に辿り着くことができた翔は、鼻先で銀狐の体を押す。
ご自慢の銀の毛並みも焦げてしまっている。これではせっかくの毛並みが台無しだ。
『なんで、俺をっ』
小さな小さな声で言葉を漏らす。
堪えがたい辛酸を噛み締めると、クンと鳴いて相手に呼びかける。何度も起きてほしい、と呼びかける。
すると失神していた狐が目を開けた。
『ギンコっ』
派手に負傷しているというのに、ギンコは力なく尾っぽを振って翔の顔を寄せてくる。翔の無事を喜んでいるようだ。
何をしているのだと相手を罵りたくなった。怒鳴りたくもなった、怪我をさせた現実に嘆きたくもなった。
『このばか狐』
甘えてくるギンコに応えるため、そっと銀狐の顔にすり寄った。生温かい舌で頬を舐められる。翔もその行為を返し、ギンコの安否を気遣う。
「朔夜くん。あの子……前に拾った体毛の一匹だよ」
戸惑いを露にする飛鳥が口を開いた瞬間、ギンコが身を起こした。
翔に覆いかぶさるように倒れ込んでくる。足を負傷していた翔は、支えきれず転倒してしまった。
顔を上げて首を捻ると、ギンコが懸命に翔の体にしがみついてくる。必死にしがみついてくる。それはまるで、自分を妖祓から守るように。
そうだ。
この獣は妖祓から自分を守ろうと身を挺しているのだ。
(ギンコ、どいてくれ。俺は大丈夫だから)
ギンコに退くよう鼻先で押したのだが、それを銀狐は拒むばかり。
蚊の鳴くような鳴声を漏らし、けれど、しがみつく力を強くする。一連の行為ですら負傷したギンコには辛いだろうに、スンスン鳴いて顔を舐めてくるのだ。
翔の真似をして守ろうとしてくれて……違う、これは真似ではなく、ギンコの意思だ。翔を守りたいギンコの意思なのだ。
銀狐がずるっと前足を垂らす。
翔が驚いてギンコを見つめると、銀狐が力尽きたように瞼を下ろしていた。体を揺すっても反応が返ってこない。
まさか。
力任せに這い出た翔は、ギンコの体を何度も鼻先で揺する。鳴いても尾っぽを振る気配はない。
(起きろって。ギンコ。目を、目を開けてくれよ!)
さっきまで目を開けて尾っぽを振ってくれていたではないか。顔を舐めてくれていたではないか。鳴いてくれていたではないか。
体に顔を埋めて鼓動を確かめると、脈はしっかり打っている。失神しただけのようだ。
それでも、翔は抑えることのできないショックを抱えた。
幼馴染に対する親愛。ギンコに対する愛情。どこにぶつければいいか分からない、やり切れない怒り。
どれも翔を苛む。
誰にこの悲しみをぶつければいいのだ。
翔は妖としてヒトを憎めばいいのか、ヒトとして妖の立場に同情すればいいのか、何も分からない。
妖は確かにヒトを襲う生き物かもしれない。
けれども、ギンコのようにヒトに懐く人畜無害の妖もいるのだ。
それをどうして妖祓は分かってくれないのだ。分かってくれようとしないのだ。
(ギンコっ、俺を、俺を庇ったばかりにっ……ギンコっ、ごめんっ、ギンコ)
どこからともなく危機を察知して、翔を助けようとした銀狐に何度も謝り、頭を体にこすり付けた。ギンコがいつもしてくれているように。
翔にできる精一杯の慰めだった。