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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【壱章】少年は妖と化す
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<十三>猫が化け猫になるように



  ◆◆◆



 妖の社と呼ばれる妖の聖地は、翔の住む地元の神社『玉桂(たまかつら)神社』と密接していた。


 ヒトの世界に通じる石段を下っていくと、ある境界線で空間が歪み、一度は訪れたことのある玉桂神社へと放り出される。


 翔は苔の生えた参道に降り立った。

 振り返るとさびれた本殿が訝しげに侵入者を警戒している。


「戻ってきたんだよな?」


 ゆるりと夜空を見上げた。

 枯れ葉を揺らす木々の先には欠けた月。

 あたたかな光を地上に放っている月は、街中で見上げる月よりもずっと、ずっと、うつくしい。周囲が木々で覆われているせいだろうか。それとも。


「鎮守の森の影響かな」


 やんわりと頬を緩め、翔は遅れて妖の社から出てくるおばば、青葉、そしてギンコに目を向けた。忌々しそうに翔を睨みつけているツネキまでいる。


「ん?」


 とぼとぼ。ギンコが歩み寄り、翔のスラックスを優しく銜えた。

 帰ってほしくないと言わんばかりに見つめてくる。否、自分も連れて帰ってほしいと言わんばかりの目だ。動物の上目遣いは反則である。


 翔はしゃがんでそっとギンコの頭を撫でた。

 どこからともなく唸り声が聞こえるが、今は無視しよう。


「ギンコ。俺の家じゃまた危険な目に遭うよ。なによりクローゼットは狭い。お前の大好きな自由がないじゃないか。自分の家に帰るのが一番だよ」


 銀狐がしゅんと耳を垂らす。


「また来るから。約束する」


 わしゃわしゃとギンコの体を撫で回すと、絶対だと言わんばかりに狐が顔を押しつけてきた。うんっと小さく頷いて、頭を軽く叩いてやる。


 すると銜えていたスラックスを放してくれた。納得してくれたようだ。

 身を引くギンコに代わり、おばばが軽やかな身のこなしで翔の腕に飛び込んでくる。


『そこまで一緒するよ』


 反射的に受け止めた猫又が意味深に鳴く。

 少しばかり翔と話をしたいらしい。

 分かったと頷き、視線を青葉に向けた。


「青葉。ありがとうな」


 あの時は言えなかった感謝を口にする。

 彼女はなんのことか分からずにいるようだったが、翔は助けてくれたお礼を真摯に伝えたかった。

 青葉が来てくれなかったら、もっと早く化け物鳥に横っ腹を食い千切られていたことだろう。最悪助からなかったやもしれない。青葉には感謝してもしきれない。


「いつか、この恩は必ず返すよ」


 ようやっと感謝の意図が伝わったようだ。

 青葉の頬が柔和に緩む。

 気にしないでほしい、と態度で示してきた。


「翔殿。くれぐれも妖のことは公言せぬように。宝珠の御魂が関わっている以上、貴方ひとりの問題ではないのですから」


 黒真珠のような瞳が翔を映す。

 素直に綺麗だと思った。


「分かったよ。今日はゆっくり風呂にでも浸かって、頭の中を整理してみたいと思う。こう見えて、まだ混乱しているからさ」


「ふふっ、見て分かる態度ですよ。どうぞ道中はお気をつけて」


 翔はおばばを抱きなおし、見送ってくれる巫女と狐らに手を振った。

 ギンコは名残惜しいのか、翔が神社を出るまで背中を追って来る。

 そんな健気な一面に微笑ましい気持ちを抱きながら、その場を後にした。また近いうちに会いに行こうと、心中で思いながら。



 神社が静寂を取り戻す中、青葉は賑やかな人だと翔の背中を見送る。

 しかし、その目は穏やかではなかった。


「なにがあろうと翔殿を新たな神主などにはさせませぬ。されど、妖の社を守るために必ずあの方を、かならず――」


 巫女の決意を固めたひとりごとは狐らの耳に入る前に夜風に攫われ、舞い上がる木の葉と共に消えていった。





 石段を一歩、また一歩くだり、翔は舗道に立つ。

 左右を確認すると、慣れ親しんだマンションに向かうため、ゆっくりとした歩調で帰路を辿る。

 外灯の少ない舗道。そこにひと気はない。時々通る自動車のライトがやけに眩しく感じる。


「なあ。おばば」


 人間の目のように見える車のライトを流し目にしつつ、翔はしばらく閉じていた口を開いた。

 声音は寒さにやられたのか、ずいぶんと硬かった。


『なんだい坊や』


 対照的に軽やかな口調で聞き返す猫又が、ちらりと翔を見上げた。

 努めて猫又と視線を合わさぬよう前方を見つめながら、翔はやっとの思いで言葉を紡ぐ。


「俺はいつか、妖になるのか。今は人間でも、いつか狐になっちまうのか」


 言葉に出してはじめて込み上げてくる不安を、きっとおばばは見抜いていたに違いない。


『妖の器のままなら建前上、人間のままでいられるよ。器のままでいられたらの話だけどねぇ』


「成熟しない方法はあるのか?」


『よほどのことがないかぎり、成熟しない妖はいない。子どもがいずれ大人になるように、半妖もいずれ妖に成熟するよ』


 猫又婆は正直に答えてくれる。


「そっか」


 素直に相槌を打つ翔に、『オツネが憎いかい?』とおばば。

 狡い質問だ。そんな感情なんぞ抱けるはずもないのに。憎めるならとっくに憎んでいる。きっと幾分気も楽になることだろう。


「どうして俺は妖になっちまったんだろう。宝珠の御魂が俺を選んだ理由も分からないよ」


 胸に秘めていた疑問を、呼吸と共に吐き出す。

 おばばはジッと息を潜めていた。

 軽トラックが真横を通り過ぎていく。過ぎ去っていく風が身に沁みた。


『わたしもねぇ。ただの猫だったんだよ。どこにでもいる、ただの猫だったんだ。けれど月日と共に、妖力を持つようになった。おかげで仲間には先立たれたよ。友人にも、夫にも、子にも孫にも。なんでだろうねぇ。ただの猫だったのに。神様の悪戯なのかもしれない』


 もの寂しそうに語るおばばと、ようやく視線を合わせることができた。

 化け猫が力なく笑声をもらす。


『猫が化け猫になるように、ヒトも妖怪になることがあるんだよ。坊や』


 翔だけではない。

 同じように、ヒトから妖怪に生まれ変わり、その命を今世に残す者たちがいる。

 人生、どこでどう転んでいくかは分からないのだと猫又は身じろいだ。寒さが身に堪えるらしい。猫の妖でも根っこは猫だ。寒さには弱いのだろう。


 腕で壁を作るようにおばばを抱きなおすと、『ありがとう』と、猫又婆が嬉しそうに鳴いた。


『坊や、怖いかい? 妖になる自分が』


 迷子の子どもに物を尋ねるような口振りだが嫌悪感は抱かない。

 戦国時代から生きている猫又から見れば、十余年生きる翔なんぞ本当に坊やなのだろうから。


「よく分からないってのが正直な感想。だって自分が化け物になるなんて……夢みたいじゃないか」


 本音を言えば怖い。

 自分が自分じゃなくなるのではないか、と暗い思考を抱いてしまう。


「俺は俺のままでいられるのかな。おばば」


 決してギンコの前では言えない胸の内を吐露する。

 銀狐の前で言えば、気に病んでしまうだろうから。


『素直な子だねえ。いいんだ。今は思ったことを口にしなさい。誰もお前さんを咎めないよ』


 細く長い尾っぽで頬を撫でてくる猫又に慰められ、ついついはにかんだ。

 猫又の優しさが伝わってくる。


『翔の坊や。さっきの話の続きだけどねぇ。ほら、お前さんの五感が鋭くなる話さ。妖祓は他の人間にはない霊力というものを持っていると言ったね?』


「うん。言っていたっけ」


『お前さんは妖力を持ち始めている。けれどそれを制御できるまでには至っていない。そればかりか、体は新たな力に耐えられるような免疫を持っていない。そこに霊力を当てられたら、体がびっくりして過剰反応を起こすんだよ』


 あ。

 翔は脳裏に数日間のことをめぐらせる。

 二度ほど五感が鋭くなったが鋭くなる直前、幼馴染のどちらかに触れられた。

 それだけではない。電線事件の際、飛鳥が何か唱え始めた瞬間に気分が悪くなった。


 それは二人が霊力とやらを使ったせいなのか。


『噂をすれば霊力を感じるねぇ』


 うんぬん思考をめぐらせていると、おばばがこのようなことを言う。

 しかもこっちに近づいているらしく、猫又が険しい顔を作った。

 思わず足を止めて抱く腕を強くする。


『安心しなさい坊や。今のお前さんはただの人間だ。たとえ妖力を秘めていようと“妖の器”の時期は人間の血が勝る。表向きは人間そのものさ。なにより、オツネが傍にいないんだ。急に妖になることもないよ』


「え、ギンコが傍にいるとなっちまうのか?」


『坊やはオツネから妖力を分け与えられた。自力で妖になることはまだ難しい』


 だから、ギンコの妖力を媒体にして妖に変化するのだという。

 その証拠にいまの翔には、妖というものが視えていない。

 おばばが己の尾っぽを見るよう告げた。曰く、尾っぽが四又に分かれているという。


 しかし、翔の目には一本にしか見えない。

 媒体にしているギンコがいないため、内に秘められている妖力が奥底へ眠ってしまったのだそうだ。

ゆえに現時点では妖すら視えない。

 一時ではあるが、翔は本当にただの人間に戻ったのだ。


『私生活に支障が出ることは少ないだろうねぇ。坊やが“妖の器”でいるかぎり』


 ならば、もしも妖になってしまったら……?

 疑問は思えど、決して口には出すことはしなかった。蜃気楼のように揺らぐ未来を知ることが怖い。


 すると、おばばが慈悲溢れた声音で鳴く。


『坊やのことは、おばばが面倒を看てやるさ。なにせ、わたしは巷でも有名なお節介ババアだからねぇ』


 アーモンド形に目を細める猫又の顎を撫でると、ごろごろと喉を鳴らしてくれた。ささくれ立った心が少なからず癒える。



 道路脇に佇み、どれほどおばばの体を撫でていただろう。


「ショウ!」

「ショウくん!」


 背後から二つの声が聞こえた。

 肩をびくりと震わせ、知らず知らず握り拳を作ってしまう。

 勇気を持ってゆっくりと顧みると、対向車線を挟んで向こうに、幼馴染二人の姿。

 やっと見つけた、と荒呼吸を繰り返す朔夜と飛鳥の姿に目を瞠る。

 珍しい、飛鳥だけでなく朔夜まで息を切らしているなんて。いかなる時も、自分のペースを崩さない男なのに。


 ガードレールを乗り越え、片側二車線の道路を飛び出す幼馴染らにクラクションが鳴らされる。ごめんなさいと飛鳥が両手を合わせ、朔夜が走りながら深々と頭を下げていた。


「なにしているんだよお前ら。あぶねえな」


 揃って何をしているのだと驚く翔の前に立ち、二人は呼吸を整える。


「こんなに走ったのも久しぶりだよ。しんどい」

「はぁっ。ショウ、携帯くらい見ろよ」


 呆然と幼馴染を交互に見つめ、何かあったのかと尋ねた。

 二人は翔の疑問に答えてはくれない。

 それどころか、そっくりそのまま質問を返される始末。


「僕たちをここまで走らせておいてっ。ショウはここで何をしていたいんだい」

「なにって……なんだろう」


 翔はおばばに目を落とした。

 にゃあ。しゃがれた声で鳴く猫又は人語を喋ろうとしない。猫として翔に甘えている。翔の目にはまんま猫だが、二人の目には猫又として映っているのだろう。やや表情が硬い。


 おばばはわざと猫又の姿でいるのだろう。幼馴染らの様子を見るために。

 なにより“妖の器”になってしまった翔を気遣っている。おばばは翔の妖力を悟らせぬようにしてくれているのだ。

 いくら人間の血が勝っているとはいえ、万が一のことがある。

 何か遭ってはいけないと思ったおばばは、翔をを守るために傍にいてくれたのだ。

 もちろん翔と個別に話もしたかったのだろうが、真意はこれなのだろう。嬉しいやら泣きたいやら。


「かわいいだろう? さっき仲良くなった猫なんだ」


 体を撫でているとおばばが一声鳴いた。

 意図を察し、翔がしゃがんで猫をおろしてやる。

 颯爽と来た道を戻る猫が不意に立ち止まって振り向く。


 にゃあ。優しく鳴いてくるため、翔は手を振って「またな」と、笑みを返した。


「風邪ひくなよ」


 ばいばいと手を振ると猫はまた一声鳴き、軽やかな足取りで走り去る。

 それを見送り、学ランのポケットに手を突っ込んだ。急に体が冷えていくのを感じる。猫は丁度良いホッカイロだったようだ。


 身震いすると、飛鳥が首にマフラーを巻いてくれる。

 それは翔のマフラーだった。夕方、風に飛ばされてしまったもので行方不明になっていたのだが、彼女が拾っておいてくれたようだ。


「どうして猫といたの? しかも、こんな時間に」


 ショウくんらしくない。

 おどける飛鳥に苦笑いを返す。


「さあ。なんでだろう。あいつが優しかったからかな」


 果たして、うまく嘘をつけているだろうか。演技力には自信がない。


「まったく。君が急にドタキャンするから、びっくりしちゃったじゃないか。家に連絡してみれば、おばちゃんにどこかに飛び出したとか言われるし……おかげで探し回ったよ」


 皮肉ってくる朔夜が脇腹を小突いてくる。

 彼の中に秘めた霊力が翔の肌を粟立たせた。

 悟られぬよう脇を押さえるも、朔夜の話を理解して言葉を失ってしまう。


 二人が探し回ってくれた、とは?


「なんで。明日も会えるじゃん」


「今日のショウは明らかおかしかった。だったら、今日中に聞きたいじゃないか――何か遭ったんだろ?」


 その優しい気遣いが、心配の強さを翔に教えてくれる。

 こんな時間まで外にいる意味。息が切れてまで駆け寄ってくれた姿。翔を一方的に責めることはせず、こちらの心身を案じる優しさ。

 どれも翔の胸に強く突き刺さった。

 ああ、どうして幼馴染に疑いの心を向けていたのだろう。仲を疑ってしまったのだろう。取り戻せるものならば、尾行する前の自分に、人間の自分に戻りたい。


 いずれ自分たちの関係は崩壊する。


「……ショウ?」


 いつの間にか、握り拳を作り、下唇を噛みしめていたようだ。

 様子に気づいた朔夜が、そっと声を掛けてくる。

 慌てて表情を作り、翔はへらっと笑った。なんでもない、と笑った。声が上擦ってしまったのは、気のせいだと言い聞かせた。


「ありがと。探しに来てくれて。俺は大丈夫だよ」

「ショウくん、でも」


「ただ、ちょっと疲れちまっただけ。それだけだよ。疲れたなぁ」


 胸に秘めている不安と恐怖と、先の読めない未来の絶望が口にできたら、どんなにいいだろう。

 化け物鳥に襲われたこと、この身に起きたこと、崩れそうな恐怖心、苛んでいる真実を言いたい。言いたくない。言えない。言えるはずがない。

 関係を壊したくないのだから。


――猫が化け猫になるように、ヒトも妖怪になることがあるんだよ。坊や。


 脳裏に過ぎるおばばの言葉を反芻し、二人に背を向けて月を見上げる。

 優しい光が、妙に目に沁みた。


「お前らが来てくれて、すげぇ得した気分。疲れも吹っ飛んじまった」


 振り返る翔の表情を目の当たりにした二人が、見たこともないほど驚きと哀れみにまみれている。

 それほど酷い顔をしていたのだろう。血色も悪いのだろう。見え透いた強がりだったのだろう。

 それでも翔はうそをつく。つき続ける。二人の心配を蹴り飛ばし、これ以上のことは聞かないでほしいと壁を作る。


 これは我儘であろう。

 これは自分本位であろう。

 これは得手勝手(えてかって)であろう。


 それでも。ああ、それでも。半生以上いっしょにいた彼らだからこそ、今の関係を貫き通したかった。


「帰ろうか。探しに来てくれたお礼に、なんか奢るよ」


 今宵、翔は幼馴染二人に初めて隠し事を作る。

 それは大きな、大きすぎる、隠し事であった。

 話せば三人の関係が大きく変わってしまう、決して明かせない秘密であった。

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