<十一>妖の社(参)
二月の凍えそうな冷気が追い風として翔の背中を押す。
その風の冷たさに我に返った翔は、おばばの言葉を反芻した。
いま猫又は何と言った? 誰が新しい神主だって?
「俺が神主? どうして?」
無意識に強張っていた体から力を抜き、やっとの思いで口を開く。
おばばがぬるりとした動きで翔の前に回る。四つの尾っぽを揺らし、持ち前の澄んだ双眸を翔に向けた。
『坊や。お前さんはただオツネから妖力を譲り受けたわけじゃない。オツネの体内に眠っていた“宝珠の御魂”を受け継いだ』
宝珠の御魂。
それは大御魂と呼ばれた土地神の魂の一部。神力が宿った魂であり、氏子を統べるための魂であり、氏子の導となる魂でもある。
『妖の社は神使、神主、巫女の三職に守護されている』
大御魂の魂と交信できる神使、氏子を導くお役を担っている神職の最高位。
大御魂の魂を身に宿すことができる神主、氏子を統べるお役を担う神職。
大御魂の魂から託された五方の勾玉を使用できる巫女、氏子の声を聴くお役を担う神職。
これら三職で妖の社を守護していると語るおばばは、翔にそっと告げる。今の翔は『神主』と同じ状態にある、と。
『お前さんはオツネから宝珠の御魂を受け継ぎ、魂を宿した依り代となった。それは誰もが成せるわけじゃあない』
宝珠の御魂は相手を選ぶ。
神力が宿った魂を正しく使い、氏子を導ける者に天命を授けて、土地神の魂と受け継がせる。
さりとてこの九十九年、月輪の社を守護する神主が選ばれることはなかった。宝珠の御魂を受け継がせるに相応しい神主はいなかった。
宝珠の御魂は眠りに就くばかりだった。
『依り代がいない間、依り代の代役は神使が担う。オツネは南の神主が担う依り代の役を、九十九年担っていた。おかげで低俗な妖に狙われることも多くてねえ』
宝珠の御魂は相手を選ぶ神力を宿した魂だが、それを身に宿せずとも、手にすることで本来では得られない神と並ぶ力を得られると云われている。
そのせいで低俗の妖は宝珠の御魂を虎視眈々と狙った。
依り代の代役を担うギンコの命を、ここぞとばかりに狙った。
翔と出逢ったギンコはまさしく宝珠の御魂を狙われた場面だったのだと教えられる。
「つまりギンコは常日頃から命を狙われているんだな?」
『そうさね。だからオツネは、妖の社から出ないよう口酸っぱく言っていたんだ。けれど、オツネは自由奔放な性格でねえ。わたしたちの目を盗んで、しょっちゅう社から飛び出してしまう』
それが今回の騒動を引き起こしてしまった。
おばばは小さく唸り、『未曾有のことだよ』と、真っ白なひげを垂らした。
『宝珠の御魂が死を迎えようとしていた坊やに宿るなんて……』
本来ならば、ギンコの中に眠る宝珠の御魂が天命を授けられそうな妖を見出す。その妖に神主の素質があると判断したら神使の体内から出て行き、新たな依り代の身に宿る流れだ。
けれど、従来の筋書きは書き換えられた。
宝珠の御魂は目覚めた。
銀狐を救おうとする少年に神主の素質を垣間見て、死にゆくだけだった少年の身に宿った。新たに化け狐の命を吹き込み、少年を人間から妖に生まれ変わらせた。
少年は銀狐の妖力と宝珠の御魂の神力に生かされた。
その少年こそが南条翔――翔の身に起きたことなのだ、とおばばは静かに告げる。
『ここまで質問はあるかえ?』
翔はぼんやりとギンコの頭を撫でていた。
いよいよ理解が追いつかない。
何がどうなって、翔が神主に選ばれたって? わけが分からない。
とりあえず……だ。
「俺の中に宝珠の御魂があるのなら、それを取り出すことはできないのか? 大事なものなんだろう? 俺が神主なんて大それたものになれるとも思えねえし」
土地神の魂を身に宿しているなんて恐れ多い。ぜひ返上させてほしい。
『いまの坊やは宝珠の御魂に生かされている。抜いてしまえば、坊やは死んじまうよ』
「え、それは困るんですけど」
翔は死にたくないと何度も首を横に振った。
「生かされているって……どういうことだよ。おばば」
『端的に言えば、坊やの心臓の代わりを果たしているのさ。死にゆくお前さんを、無理やり妖狐にして生まれ変わらせたんだ。体の負担は相当大きかったはずだよ』
「じゃあ、ずっとこのままなのか?」
宝珠の御魂を取り出せないということは、翔が依り代にもなるも同然。
低俗な妖とやらが宝珠の御魂を狙っているらしいので、翔は必然的に妖の社に留まることになるのでは? ……困る、家に帰れなくなるのは非常に困る。
『安心しなさい。坊やの生命力が回復したら取り出せるよ。あくまで宝珠の御魂は坊やを生かすために、一時的に心臓の代わりを務めているだけなんだ』
翔の生命力が回復したら、ちゃんと宝珠の御魂は取り出せるとのこと。
ああ良かった。翔はホッと胸を撫で下ろした。
「俺、家には帰れるの? 宝珠の御魂が体に宿ってるんだよな?」
『家には帰せるよ。目覚めた宝珠の御魂も坊やに宿ったことで、不完全な状態のようだしねえ』
「不完全?」
『坊やは妖の器。半妖だ。未熟な妖狐に宿った宝珠の御魂は本来の力を発揮できずにいるんだ』
翔はいま妖の器と呼ばれる時期にいる。
簡単にいえば妖に成熟するための準備期間。この期間を超えることで、翔は一人前の妖になるとのこと。
「人間には戻れないのか?」
『坊や。気の毒だけれど、それは無理な話なんだ。いびつな血を宿したら最後、化け物になる運命からは逃れられない』
ヒトであれ、獣であれ、物であれ、条件は同じ。
いびつな血を体内に宿せば最後、妖として生きていくしかない。
猫又婆はしっかりと現実を伝えてくれる。
「……俺、今までのように暮らせなくないか?」
『ひとまず妖の器期間は大丈夫だよ』
妖の器の間はヒトの血が勝るため、翔が化け物だと気づかれる可能性は低い。
それこそ妖祓や他の妖が翔を妖狐だと気づくのは至難の業だろう。
宝珠の御魂を身に宿しても、翔が未熟な半妖である以上、持ち前の強大な力は発揮できない。
それゆえ人間社会でも問題なく暮らせるはずだ。
しかし問題は妖狐に成熟した後だ。
『青葉が懸念していたように、坊やの傍に妖祓がいるのは厄介なんだ。文字通り、妖祓は妖の調伏を生業にしている人間。わたしらとは不倶戴天の敵なんだよ。公言してはいけないと言ったのも、妖祓なりの誇りや成すべきことがわたしらにとって命に係わるからなんだ』
「妖を祓う……それが誇りなのか」
『わたしらにとっては恐ろしい行為だよ。けれどね、妖祓の道理も理解はできる。妖祓は人間を守ろうとしているだけなんだ。それを否定することはできない』
妖祓にとって調伏は人間に危害を加える化け物を駆除しているだけなのだ。人里に下りてきた獣を駆除するのと同じ。
そこに正義もない悪もない。
自分たちの暮らしを守るための行動なのだ。
『坊や、たとえ親しい人間であろうと軽はずみで言ってはいけないよ。宝珠の御魂の価値を知る者の耳に入ればお前さんは必ず狙われる。いいね?』
おばばの言葉に翔は頷くことしかできない。
『すまないねえ。いっぺんに話したから、混乱しているだろう?』
呆けた顔を作る翔を気遣うように、猫又が優しく鳴く。
軽く首を横に振ると、翔は苦々しく笑った。
「頭がごちゃごちゃしている」
話の規模が大きすぎて許容範囲を超えてしまった。
おばばの話を聞いても、それはすべて他人事にしか思えず、自分の身に降りかかっている出来事には思えない。
お前は人間じゃない。化け物だ。妖の器だ、と言われただけでも衝撃だったのに、追い撃ちをかけるかのように宝珠の御魂がどうの、次の神主がどうの、人間には戻れないのこうの……頭が爆発しそうだと顔を顰める。
『そうだろうねぇ。そうだろうねぇ。坊や、お前さんの反応は正しいよ』
おばばが何度も頷いた。
『これは一度で受け止められる話じゃあない。お利口さんに受け止める必要はないよ』
翔の感情は普通なのだと猫又が慰めてくれる。
苦虫を噛み潰すような面持ちを作っていた翔は、おばばの言葉にうんっと頷き、自分の体に視線を落とした。
産声を上げた時から連れ添っている大事な体に異常は見られない。
この体が“妖”だなんて想像すらつかない。
「そういえば俺、横っ腹をあの鳥に貫かれたような……これも妖の力で治ってんの?」
公園で起こった不幸を思い出す。
あの時、確かに翔は横っ腹を貫かれた記憶があるのだが……捻挫も治っているようだ。
これも宝珠の御魂のおかげだろうか。
『宝珠の御魂が坊やの細胞の再生を活性化させるんだろう』
「心臓の代わりを果たすだけじゃないんだな」
『元々妖はヒトより力を持っているからねぇ。加えて宝珠の御魂を身に宿している。神力が一役買っているんだろう。ただ万能なわけじゃない。宝珠の御魂をもってしても、毎回体が治癒されるとは限らない。体を粗末にしてはいけないよ』
「あんな痛い思いを二度も、三度も平気で食らえるかよ。ぜってぇごめんだね」
うへぇ。
間の抜けた声を上げ、大袈裟にかぶりを振る。
それを目にした青葉がくすくすと笑い、ギンコがクオンと一鳴き。おばばもそりゃそうだと納得したようにしゃがれた声で鳴いていた。
ひと通りの説明を終えると、おばばは部屋に戻ろうと提案した。
『まだ坊やは体を休める必要があるし、これからのことも考えないといけないからねえ』
「おばば。とりあえず……俺は家に帰りたいよ」
翔は帰ってゆっくり寝たいと唸った。
問題は山積みだ。
化け物になったことも、妖祓のことも、神主のことも。考えないことはたくさんあるが、ひとまず家に帰って休ませてほしい。今日のことを整理する時間が欲しいと翔は訴えた。
『分かった。坊やの気持ちを尊重しよう』
「良かった。ダメって言われるかと思ったよ」
『そんなことは言わないよ。坊やの立場になって考えれば、誰だって帰りたいと思うだろうしねえ。今後のことはまた後日話そう』
「おう。ありがとう」
『妖の社は異界にあるから、ヒトの世界まで送ろうかねえ』
またしても新しい単語が出てきた。
異界とはなんだ。異界とは。
(妖の社って俺の地元にあるって勝手に思ってたけど……じつは違ったらどうしよう)
それこそバスで三時間走らせた辺鄙な田舎だったら……ああ、無事に帰れるのだろうか。
翔は心中でだらだらと冷や汗を流した。
そんな翔の心情など露一つ知らないおばばは、翔の肩に飛び乗って念を押す。
『坊や。再三言うけれど、決して自分が妖だと公言してはいけない。いいね?』
「分かったよ。おばば」
翔は素直に頷く。
『いい返事だねえ。どちらにせよ、坊やには妖力の制御を教える必要がある。後日、また此処に来てもらわないと。また急に五感が鋭くなって悩む羽目になるよ』
「それはめちゃくちゃ困る……まともな生活が送れなくなる」
『坊やの五感が鋭くなってしまっている原因のひとつに、幼馴染の妖祓が関わっていると思うんだよねえ』
「え、どういうこと?」
『妖祓はただの人間にはない霊力というものを持っている。その力が』
その時であった。
おばばの説明を切り裂く大きな鳴き声が聞こえた。クオーンと勇ましい獣の鳴き声であった。
会話を中断せざるを得ない。