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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【壱章】少年は妖と化す
13/158

<九>妖の社(壱)



  ◆◆◆



(重い……)


 吸い込まれそうな闇に身を投じていた翔は、ずん、と体に走った重みにより、そっと意識を浮上させる。

 遠いところに漂っていた意識を手繰り寄せ、ゆるりと瞼を持ち上げる。

 しかし、体が金縛りにあったかのように動かない。


 はて、それはどうしてなのか。

 靄がかった視界が晴れていくと、満目いっぱいに獣の顔が飛び込んできた。

 何度目かの瞬きにより、その獣は翔が可愛がっていた狐なのだと気づく。


「ぎん、こ?」


 ひとの腹に乗っている銀狐は名前を呼ばれた瞬間、縦長の瞳孔を静かに揺らし、垂らしていた耳を真っ直ぐに立てる。

 翔を映す黄色の双眸が喜びの光を宿し、飛びつくように顔を舐めてきた。

 ぺろぺろと舐めてくる舌は、翔の右頬にくすぐったさを与える。


「あはは。くすぐったいなぁ」


 甘えてくる狐の頭を撫でると、ギンコを腕に抱いて上体を起こす。

 その拍子に腹に掛かっていた、薄手の着物が滑り落ちた。それに目を向ける間もなく痛みが脳天を突く。

 思わず呻いてこめかみを押さえた。


「あでで。頭が割れそうに痛い」


 ギンコが鼻先を胸に押しつけ、心配を寄せてくる。

 大丈夫だと強がるものの、痛みは刃物のように鋭い。少しでも頭を揺らせば、眉間の奥が痛くなる。


『坊や。無理をするんじゃあないよ。まだ、動ける体じゃないんだ』


 どこからともなく聞こえてくる、しゃがれた声音には猫の鳴き声がまじっていた。

 そっと目線を上げる。


「あれ、ここはどこだ?」


 そこで翔は己が見知らぬ和室で寝かされていることに気づき、ただただ呆然としてしまった。

 部屋は六畳一間の和室。

 畳張りの部屋には、年期の入った箪笥と文机(ふづくえ)。壁には柳の掛け軸。水墨画のせいか、柳はおどろおどろしいものに見える。

 部屋に時計がないため、正確な時刻は分からないが、半開きの丸窓から見える景色でおおよそ夜だと把握できた。


「旅館みたいな部屋だな」


 まだ痛むこめかみを撫でながら、ぐるりとまわりを見渡す。

 そして最後に話し掛けてきた猫に目を留める。障子の向こうにいる猫も翔に視線を留めて、一向に動かそうとはしない。

 こちらの様子を窺っているようだ。


「貴殿。まだ寝ておかなければなりませぬ」


 猫に引き続き、和室に少女が入ってきた。

 見覚えのある巫女装束は、公園で翔を助けてくれた者だった。

 彼女は身を起こしている翔に寝ておくよう促し、半ば無理やり体を横にさせてくる。目が合うと能面に近い表情がにわかに緩み、微笑みを返される。警戒心を溶かす、優しい笑顔であった。


(冷たそうな顔をしていると思ったけど、笑うとかわいいんだな)


 もっと笑えばいいのに。

 翔は素直にそう思った。


「……俺はどうしたんだっけ」


 ふたたび横になった翔は、着物を胸上まで引いてくれるギンコの頭を撫でながら、自分の身に起きた出来事を思い出す。思い出そうとした。

 されど出てくる記憶は断片的で、どれから掻い摘めば良いのか分からなくなってしまう。


『気分はどうだい、坊や』


 その原因の一つは、非常識な現実を突きつけられているせいだろう。

 枕元に座るキジ三毛猫に視線を流す。

 猫は真っ白なヒゲを揺らし、翔の様子をしきりに気に掛けてくれた。猫のくせに。


「頭が割れそうに痛いけど、寝てれば治りそうだよ」


 猫と会話している現実すら、じつは頭痛の種になりそうだとは口が裂けても言えない。


『話す元気はあるみたいだねぇ。良かった。いま、青葉(あおば)湯薬(とうやく)を作るから、それをお飲み。すぐに痛みが取れるよ』


 湯薬(とうやく)

 聞き慣れない言葉である。

 きょとんとしてしまう翔だが、すぐ側で青葉(あおば)と呼ばれる少女がせっせと粉を湯飲みに注いでいるところを目にし、薬を作ってくれているのだと察する。寝ていれば大丈夫、薬は不要だと言いたいところだが、相手の厚意を無下にもできない。


 結局、差し出された湯薬を受け取り、それを胃袋へ流し込んだ。

 この世のものとは思えない凄まじい味に吐きそうになったものの、猫の言う通り、頭痛は吹き飛んだ。痛みすら忘れる恐ろしい味、とも言える。


『良薬は口に苦し、とは言ったものだねぇ』


 青い顔で寝込む翔を、猫は面白そうに笑う。

 飲んだ本人は笑い事ではないのだが、少し時間を置くと本当に薬が効いてきたのか、とても気分が良くなった。青葉の腕は確かなのだろう。


「ありがとう。味は凄かったけど、痛みは取れてきたよ。えーっと」


妖名(ようめい)は一尾の妖狐、キタキツネの青葉(あおば)と申しまする。どうぞ、青葉と呼んでくださいまし」


 妖名(ようめい)

 またもや聞いたこともない単語である。

 青葉の肩に飛び乗る猫に目を向ける。しゃがれた声で鳴く獣も、名乗ってくれた。


『妖名は四尾の猫又、キジ三毛のコタマ。みんなからは“おばば”と呼ばれているよ。お前さんもおばばと呼んでおくれ』


「分かった、おばばって呼ぶよ」


『そっちの銀狐は南の神使(しんし)、銀狐のオツネ。翔の坊やのことは、すべてオツネから聞かせてもらったよ。この子を助けてくれたそうだねぇ』


 引っ掛かる言葉が多いものの、翔は目を覚ましたばかり。

 一つ一つ疑問に挙げていては身が持たない。

 そこで最も尋ねるべき質問を相手に投げる。


「青葉とおばばはギン……オツネの家族なの?」

『似たようなものさね』

「そっか。良かった」


 翔は自分のことのように嬉しくなる。可愛がっていた狐がようやく我が家に帰れたのだ。喜ばずにはいられない。

 傍にいるギンコの頭をわしゃわしゃと撫でる。


「良かったな。お前、自分の家に帰れたんだぞ。もう安心だな」


 予想に反して、銀狐がどことなく悲しそうに耳を垂らしてしまった。

 おや、嬉しくないのだろうか?


「なんだよ。嬉しくないのか? オツネ」


 本名で呼んでやると、嫌がるようにかぶりを振って、掛けている着物の中に潜ってくる。

 そのまま翔の腹の上に乗り、ふんふんと鼻を鳴らしてきた。

 隙間から覗く黄色の双眸が、さみしい気持ちを訴えてくる。翔との別れを惜しんでいるようだ。


 なんて意地らしいのだろう。

 翔は内心泣きたいほど感激してしまう。

 こちらとて飼い主が見つかって嬉しいような、ギンコと離れがたいような、さみしい気持ちに駆られているのだ。


 しかし、いつまでもギンコをあの狭いクローゼットで飼うわけにもいかない。

 元の生活に戻してやるのがギンコのためだ。


「ギンコと離れるのは、俺もさみしいよ」


 しきりに胸に顔を押しつけて、甘えてくる狐に同じ気持ちだと伝える。


『ギンコ? オツネのことかい』


 おばばが興味深げに首を傾げた。


「うん、俺がオツネにつけた名前なんだ。部屋に置いている間、呼び名がないのは不便だったから」


『なるほどねぇ。だからオツネは坊やに本名で呼ばれるのを拒んだのかい』


 拒む?

 翔はギンコに視線を戻す。


『どうもその狐は、ギンコの名前が気に入っているようなんだ。お前さんは今までどおり、オツネのことをギンコと呼んでやっておくれ』


「ギンコは即席でつけた名前だけど……いいのか? オツネ。ギンコって呼ぶぞ?」


 うんうん、ギンコが何度も頷く。

 おばばの言うとおり、銀狐は翔に『ギンコ』と呼ばれたいようだ。

 ならば、これまでどおり『ギンコ』と呼んでやろう。


『さてさてオツネ、お前さんは坊やから下りなさい。坊やはまだ万全じゃあないんだ』


 おばばが注意すると、それまで甘えたな態度を見せていたギンコが一変。鼻を鳴らし、嫌がるようにつんけんと顔を逸らしてしまった。

 どうやら腹の上から動く気はないようだ。

 翔としてはまったく問題がないため、気にしなくても良いと微苦笑するも、傍観者となっていた青葉は快く思わなかったようだ。


「オツネ。その態度はおばばさまに失礼でしょう。殿方から下りなさい」


 ギンコがすっぽりと着物に潜ってしまう。

 それを見逃す青葉ではなかったようで、上掛けにしている着物をひっぺ返すと、翔の上に乗っているギンコを持ち上げた。

 途端に翔の制服に噛みつき、狐は離れることを態度で拒絶する。

 なにやら雲行きが怪しくなってきた。


「翔殿から退きなさい」


 ギンコが後ろ足で青葉の体を一蹴りする。

 うるさい、と言わんばかりの態度である。


「まあ、そのような態度を取って! 子どもじゃあないんですよ!」


 ばたばたと足を動かす、ギンコの後ろ足が青葉の体を何度も蹴りつける。


「いくら翔殿をお気に召したからといって、目覚めたばかりの方に我儘を通そうとするのはいただけません。翔殿にもご迷惑でしょ」


 獣のつぶらな瞳が翔を捉える。

 耳を垂らして、顔色を窺われると「ダメ」と強くも言えない。甘えてきたのは、本当に自分を心配してなのだろう。

 とはいえ、簡単に大丈夫だと言えば、青葉の顰蹙を買ってしまう恐れがある。

 そこでこのように返答した。


「ギンコは俺を心配して、体を温めようとしてくれたんだよな。ありがとう。元気になったら、いっぱい抱っこしてやるから、ちょっとだけ我慢してくれな」


 おばばたちの意見を汲み取りつつ、ギンコの気持ちも汲み取る。我ながら良い返答である。

 ギンコの方も、翔のお願いに納得したのか、あっさりと制服を放し、可愛らしげに鳴き声を上げた。

 これにて話は仕舞い、かと思いきや、青葉が我が目を疑ったように声を上げた。


「狐のくせに殿方の前で猫を被るなんて、どういうことです! 普段の貴方はもっと傲慢で我儘でしょう! 翔殿、騙されないでください。オツネは普段本当にアイタタッ!」


 余計なことを言われたくないのか、ギンコが青葉の腕を引っ掻いた。

 それに腹を立てた青葉が負けじと狐の頭を叩く。それにまた腹を立て、銀狐が尾っぽで青葉の顔面を叩き、彼女の手からすり抜けた。

 畳に着地してくわっと赤い口を見せる。明らかに戦闘態勢に入ってる。


 するとどうだ。

 青葉が上掛けにしていた着物を鞭のように構え、今かと今かとギンコが飛び掛かる時を待っている。


「え、えっと……二人とも落ち着こうな? 喧嘩は良くない」


 この飼い主と飼い狐は仲が悪いのだろうか?

 繰り広げられる双方の喧嘩を交互に見やって仲裁に入っていると、おばばがぴしゃりと一喝した。


『青葉、オツネ。客人の前で、みっともない姉妹(きょうだい)喧嘩をするんじゃあないよ』


「ですが……おばばさま」


 不満げに異議を唱える青葉だが、猫には逆らえなかったようだ。渋々と着物を下ろした。

 対して銀狐は反省の色をひとつも見せず、寧ろ澄まし顔であさっての方向に顔を逸らしてしまう。空気は最悪であった。

 困ってしまう。和やかな雰囲気に持っていったつもりなのに。


「あれ。おばば、さっき姉妹(きょうだい)喧嘩って……」


 ゆっくりと身を起こし、機嫌を損ねているギンコの身を抱きあげて膝にのせる。

 見上げてくる狐の鼻先を指先で弾くと、獣はすんと鼻を鳴らした。


『ああ。オツネと青葉は姉妹なんだ。血が繋がっているわけじゃあないんだけど、同じ化け狐として姉妹のように育てられてきたんだよ』


 ギンコが姉で、青葉が妹らしい。

 しかし着眼点は姉妹ではなく、べつの単語に向けられた。


「化け狐? え、彼女は狐なの?」


 目を背けていた現実と向かい合う時が来たようだ。

 翔は改めて、おばばを含めたみんなに何者なのか。ここはどこで、自分はどうしてしまったのか。あの化け物たちはどうなってしまったのか、と疑問を投げる。


 間髪を容れず返されたのは――化け物であった。


『もう、お前さんも分かっているだろう。言葉を発する老いぼれ猫の異常を。青葉の常人外れた身体能力を。オツネの長けた理解力を。わたしらのような生き物を、ヒトは化け物と呼んでいる』


 おばばの正体は『猫又』と呼ばれる化け猫。

 ギンコや青葉の正体は『妖狐』と呼ばれる化け狐。


 みながみな、ただの獣にあらず。

 されど、ただの化け物にもあらず。

 人間と同じように理性があり、感情があり、社会性がある。それらに当てはまる者は己を(あやかし)と名乗っている。

 人間が親しみを込め、化け物を『妖怪』と呼ぶこともあるとおばば。


 呆けている翔に『ここまでで質問はあるかい』と、優しく言葉を掛けた。


 あるといえばある。

 ないといえばない。

 それが翔の率直な気持ちであった。


 常識の範囲を超えてしまい、理解力が追いついていない。

 疑問すら抱けない状態であった。


『坊や。よく見ておくんだよ。おばばの尾っぽを』


 ゆらゆらと揺れるおばばの尾っぽに目を向ける。

 根元から少しずつ分かれはじめ、一本の尾っぽから四本の尾っぽに変化していった。これが猫又だと呼ばれる所以(ゆえん)なのだと、おばばが得意げに鳴く。

 翔は目を点にして、尾っぽを見つめる他ない。


「君も、こんなことができるの?」


 青葉に聞くと、当たり前のように狐になれると笑みを返された。

 こちらはちっとも笑えない。

 また頭が痛くなりそうである。寝込みそうである。


「ギンコは……人間になれるのか? ん?」


 うんっと首を傾げてくる銀狐に合わせ、翔も首を横に傾ける。

 返事をしてくれたのはおばばであった。曰く、ギンコは人間に化ける力を得ていないとのこと。それはつまり、いずれは化ける力を得ることがある、という意味なのか。


「化け物ねぇ。それにしちゃ、可愛い化け物だな。お前」


 しげしげとギンコを見つめる。

 この狐が人間に化ける、なんて想像もつかない。


『化け物にも色んな種類がいるんだよ。わたしやオツネのように獣から化け物になる者。青葉のようにヒトから化け物になる者。物から化け物になる者。本当に多種多様なんだ』


 青葉が人間だったことに驚く翔だが、おばばは他人事ではないのだと翔に促す。


 呼吸が止まりそうだった。

 なぜだろう。この先の話を聞いてはいけない気がした。

 おばばの澄んだ瞳を見つめると、本能が嫌というほど警鐘を鳴らす。

 しかし。人間は一度気になると、たとえ悲しい現実が待ち受けようと知りたがる生き物だ。


「他人事じゃないって、どういう意味なんだ?」


 一拍の間はあまりにも重く、冷たく、長い。

 やや戸惑いを見せるおばばが、努めて優しく、そして翔を落ち着かせるように告げる。

 

『坊や。お前さんはもう人間じゃない。わたしらと同じ化け物なんだ』

 

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