<幕間>嫌な予感
「朔夜くん。ここで大きな妖力が解き放たれたみたい」
夜が深まっていく団地の公園はひどく寂然としている。
冬の季節のせいか、その物寂しさが寒気と不気味さを引き立たせた。コートにマフラーをしっかり身につけても、厳しい寒さが骨身に沁みる。
「解き放たれた痕はあるのに、誰もいないね。飛鳥」
ほうっ。
朔夜はいたずらげに白い息を吐き、コートのポケットに手を突っ込んで狭い公園の中を歩き回る。
巨大な妖気を感じて幼馴染と公園を訪れたが、すでに妖の姿はなく、錆びた遊具が佇んでいるばかりだ。
しかしこの公園には、確かに“何か”がいたようだ。
大きな妖力が公園内に残っている。
朔夜は眼鏡越しに目を細めた。
「大妖なのかもしれないね」
「この町に大妖レベルの妖なんているのかな」
「いるさ。大妖になればなるほど、人間の目を欺いて町に棲みつく。大妖は賢い妖が多いから無闇にヒトを襲わないだろうけれど」
おもむろに足を止める。
朔夜はそっと身を屈めると、地面に落ちている布切れを拾った。
「これは服の切れ端?」
ざらついた黒い布を触る。生地からしてコートのようだ。
「なんでこんなところに落ちてるんだ」
指で感触を確かめていると、飛鳥が声を掛けてきた。
切れ端をポケットに仕舞い、相棒の下に向かう。
「朔夜くん、これを見て」
ブランコの側らで膝をついていた飛鳥がすくりと立ち上がった。彼女の右手には、獣の毛のようなものが乗っていた。
そっと指で抓んで目を凝らす。
パッと見は白に見えるが、これは銀の体毛のようだ。微力だが妖力を感じた。公園に妖力を残した獣だろうか。
「銀か。動物にしては珍しい毛の色だね。飛鳥、採取しておいてくれるかい?」
「うん」
小さく頷く彼女は、ポケットティッシュを取り出すと、それに優しく包んでしまう。
朔夜は顎に指を絡めた。
「あれだけ強い妖力を感じたのに、思った以上に妖の痕跡が見当たらないなんて……おかしいな」
公園内で妖力が途絶えている。
どのような妖でも、巨大な妖力を隠すことは容易ではない。道中で妖と鉢合わせになるように公園まで足を運んだのだが、妖らしき化け物に出くわさなかった。
今までにない経験だ。
それだけ凄腕の大妖が現れたのか、それとも。
「朔夜くんは何か見つけた?」
「コートであろう切れ端を見つけたよ」
すると見せてほしいと頼まれた。
そこで飛鳥に先ほどの生地を手渡すと、彼女は指で感触を確かめながら早々に小さく首を傾げた。
「この切れ端、二つの妖力がこびりついているみたい。一つはこの公園に残されている妖力で、もう一つはいま拾った獣の毛に残っている妖力」
飛鳥はわずかな妖力でも、仔細に分析する能力を持っている。
それこそ朔夜以上の腕なので、彼女の発言に眉根を寄せてしまった。
「なら銀の毛の持ち主とはべつに、妖がいたということになるよね」
「仲間という可能性が大きいね。もし争ったなら、もう少し毛が散乱しているはずだから」
さすが飛鳥。
妖力を敏感に察知、仔細に分析するだけでなく、あらゆる方向から見て。特に可能性のある答えを導き出すのが上手い。頼もしいかぎりだ。
「二つの妖力ね。厄介な妖じゃないといいけどさ」
朔夜は不機嫌に吐息をつく。
夕暮れの事件といい、大通りで起きた事件といい、この一件といい、頭を悩ませる。
「夕方に事件を起こした妖は調伏することができたけど、大通りで起きた事件は未解決だ。飛鳥、被害は?」
「妖鳥が起こした竜巻による被害は、それなりに酷いよ。舗道がえぐられたり、店の看板が倒れたり、街樹が薙ぎ倒されて怪我人が出ているから」
けれど、死者は出ていないようだ。
妖鳥は悪事を起こすだけ起こして行方を晦ませている。もしかしたら他の妖が調伏してくれたのかもしれない、と飛鳥。
それの意見に同調したいところだが、朔夜の不安は尽きない。
「夕方の一件は参ったね。まさかショウが狙われるなんて」
荒々しく頭を掻く。
妖が幼馴染の翔を狙った。
その命を奪うため、電線を切るなどの強硬手段を取ったのだから肝が冷えた。傍らには妖祓がいると知っていたくせに。
翔は視えない人間だ。妖も幽霊も信じていない一般人なので妖祓のことを伏せている。
それゆえに、どう妖鳥を調伏しようか悩んでいた。
頃合を見計らったかのように「用事がある!」と、トンズラするように翔が帰ったから良かったものの、あのまま朔夜たちの傍にいたら苦戦を強いられたに違いない。
(……いや状況は最悪だ。本当は止めるべきだった)
なにせ狙われたのは翔なのだ。
否応なしでも止めるべきだったと、今さらながら後悔を抱く。
だいたい、なぜ翔が狙われたのだろうか。
基本的に、妖は夜に行動する生き物だ。あの時間に人間を襲うなど稀である。ましてや妖祓が傍にいると分かっていながら、人間を襲うなんて自殺行為も良いところだ。
(それに、ここ数日ショウの様子が何かおかしい。特にさっきの、あいつ……)
急に具合を悪くしたり、ぼんやりと上の空になったり。
なにより、雀を目した翔の表情はいびつであった。あれを本気で欲しがる横顔は獲物を狙う獣、雀に対して食欲に駆り立てられていた。
しかも本人は口走ったことを憶えていないときた。
(まさか。取り憑かれているんじゃ……)
懸念が強まる。
なんだ、この言い知れぬ嫌な予感は。
「ショウくん。ちゃんと家に帰ったのかな? ちょっと電話してみるね」
飛鳥も不安に駆られたのだろう。
携帯を取り出して翔に連絡を取り始める。飛鳥のことが大好きな翔だ。彼女が電話をすれば、すぐに出るだろう。正常な状態の翔であれば。
(何も起きてくれるな)
これは杞憂であってほしい。
心から願う朔夜だが、青くなる飛鳥の表情がすべてを台無しにしてくれる。
「飛鳥、どうしたんだい?」
「……いないの」
「え?」
「ショウくんの携帯に電話を掛けても出ないから家に電話したの。そしたらおばちゃんが出たんだけど……ショウくん。いないって」
「なんだって?」
息を呑んでしまう。
「あいつ、家に帰ってないのかい?」
「ううん。帰って来たらしいんだけど、すぐ家から飛び出しちゃったんだって。しかもショウくんが家を出る直前、不気味な音が聞こえたと思ったら、一斉に窓が揺れる怪奇現象が起きたらしいの」
ふと朔夜の脳裏に数日前の出来事が蘇る。
先程のコートの切れ端と、翔と交わしたコートのやり取りを思い出す。
翔はお気に入りのコートをダメにしたらしく、父親のお古を着ていた。お気に入りのコートはどうしたのだと尋ねると、彼は青褪めたように口を閉ざしてしまった。見て分かるほど動揺していた。
(まさかショウは……妖が起こす物騒沙汰に巻き込まれているんじゃ)
この切れ端が翔の物である確証はない。
されど、翔が狙われた事件と、コートのやり取りと、彼らしからぬ表情。この場に落ちていたコートの切れ端がパズルのピースのように合致する。
「飛鳥。ショウを……ショウを急いで探そう。あいつの身に何か起きているに違いない」
険しい顔を作る朔夜に感化され、飛鳥は硬い表情で頷いた。
「まずは妖鳥がいた大通りに戻ろう。ショウくんの手がかりがあるかもしれない」