<八>南条翔の異変(肆)
「――あなた方のような低俗な妖がいるせいで、他の妖は迷惑をしているのです」
第三者の声。
そっと閉じていた瞼を持ち上げると、こちらを見下ろしている二体の化け物鳥の顔面に青白い炎が衝突する。その威力は化け物鳥の巨体を大きくよろめかせるほど。
後退る化け物鳥らから目を逸らし、炎の飛んできた方角を見やる。
目に飛び込んできたのは公園の入り口だった。
整備されている二輪車進入防止柵を横切り、公園の敷地に足を踏み入れてくるのは、巫女装束を身に纏っているひとりの少女。
一つに結った長い緑の黒髪が大層印象的であった。
落ち着いた雰囲気を醸し出しているが、凛と澄ましている空気はどことなく近寄りがたいものを抱く。
見た目からして、年齢は自分と近いのではないかと翔は思った。
少女の傍らには一匹の三毛猫。
白、茶色、こげ茶の体毛を持つ“キジ三毛”と呼ばれる猫が、少女の隣にちょこんと乗っている。
「無事のようですね。まったく、どれだけ探し回ったと思っているのですか」
能面に近い表情を作る少女は翔を一瞥し、からりと悪態をついた。
どうも、その言葉はギンコに向けられている様子。
となると、あの者がギンコの飼い主なのだろうか。
『人間の坊やを助けることが先決だよ、青葉。オツネを叱るのはその後さ』
くわっと赤い口を見せる三毛猫が喋った。
もう一度言う、猫がしゃべった。
「分かっています。おばばさま」
当たり前のように返事をする少女も少女である。
(また変なのが出てきた。頭がおかしくなりそうなんだけど)
幼馴染、銀狐、化け物鳥、巫女少女にしゃべる猫。
翔は泣きたくなった。そろそろワケの分からないこの状況を説明してほしい。培ってきた常識が覆ってしまいそうである。
巫女少女が手を前に翳す。
す、と目を細める少女の黒い瞳孔が縦長に変形するや否や、見る見る瞳が紅に染まる。
彼女のまわりに青白い球体が現れた。小さな恒星を彷彿させるそれが、一斉の炎の産声を上げる。我が目を疑う翔を余所に巫女少女の命令の下、うねる炎は宙を舞い、敵と見なしている化け物鳥の胴を焼く。
鼓膜を破るほどの甲高い鳴き声が空に轟いた。奇声であった。一体は踏みとどまったが、もう一体は痛みのあまりによろめく。
その隙を逃さず、巫女少女が地を蹴って大きく飛躍した。
「……とんだ」
巫女少女の脚力の高さに呆気とられてしまう。
見上げる翔の目に映ったのは、巫女少女が化け物鳥のくちばしを蹴り飛ばす姿。体を一回転させたと思ったら、手中に先ほどの青白い炎を呼び出し、それを敵に放った。
「……きっと人間じゃねえんだろうな。あの子」
驚きを通り越してぽかんと口を開けてしまう。
人間は驚きの許容を超えると、呆気に取られてしまうらしい。翔も見事に呆けていた。
『坊や』
足元から声が聞こえてくる。
視線を下げると、例のしゃべる猫が見上げていた。
『怪我はないかい? 坊や』
しつこいようだが繰り返す。猫がしゃべっている。
「あ、はい。大丈夫です。助けてくれて、ありがとうございました」
混乱しているせいで、頭の中は真っ白となっていたが、きっちりと感謝は口にすることができた。ほぼ条件反射のようなものではあったが。
敬語になってしまうのは、相手の口調が老人じみているせいだろう。
『お前さんに怪我がないなら良かったよ。それにしても』
猫の視線につられ、腕の中にいる狐に目を留める。
ギンコは猫を見るや、ふんと鼻を鳴らして、あさっての方向を向いてしまった。
『まったく。十日も行方を晦ましといて、その態度はなんだいオツネ。どれだけ心配を掛けたと思っているんだい』
オツネ。
この狐はオツネというのか。
「へえ、オツネっていうんだな。お前」
ようやく、ギンコを本当の名前で呼べそうだ。
そのことを嬉しく思う翔であったが、空を切り裂くような鳴き声により、ほんのひと時でも忘れていた恐怖がよみがえる。
振り返ると、化け物鳥の片割れが全身を炎に焼かれていた。
羽毛は青白い炎によって焦がされ、三つのぎょろ目はその痛みに焦点を失い、くちばしからは泡が噴き出している。
「眠りなさい」
巫女少女の無情な一声により、化け物鳥は炎に呑み込まれ、姿かたちを焼き尽くされた。
文字通り、何も残らず焼き尽くされてしまったのだ。
(怖っ……)
絶句する翔だったが、もう一体いたことを思い出し、慌てて周囲を見渡す。
公園の敷地に化け物鳥の姿はないが、大きな影が地面に映し出されている。
逃げてはいないようだ。大きな影が移動している様子から、化け物鳥は空に逃げたのだろう。
「諦めの悪い奴だな」
天を見上げると、巫女少女の手から逃れた化け物鳥が急降下してくる。ブランコや滑り台などの障害物をもろともせず、低空飛行をする化け物はあの竜巻を起こすつもりなのだ。
避難したかったが一歩遅く、化け物鳥は荒れた気流を生み出して、例の暴風を起こす。
荒れ狂う風は砂埃を発生させた。視界が利かなくなり、呼吸さえも根こそぎ奪う。
「息ができねえ」
堪らず口元を押さえ、目を瞑った翔の下に化け物鳥が飛行し、鋭い鉤爪を持った足で体を掴む。
「うわっち!」
驚きの声を漏らす翔の体はふわっと浮遊感に襲われた。
地面から両足が離れ、見る見る公園の景色が小さくなる。化け物鳥に連れ去られているのだ。
翔はもちろんのこと、巫女少女や猫も油断をしていたようだ。
「しまった。人質を取るとは策士な」
にわかに聞こえる少女の声。
いや、感心する前にどうにかして欲しい!
「やっべぇ。空っ、空を飛んでるよ俺!」
目が眩む高さである。
ああ、巫女も猫も豆粒だ。
腕の中にいるギンコが胸部に顔を埋めてきた。あまりの高さに恐れているのだろう。
「だ、だ、大丈夫だぞギンコ。放さないから」
ギンコをしっかりと抱えなおす。
絶対に狐は落とさないようにしなければ。
「お前。俺たちをどうする気だよ」
翔の胴を掴んでいる化け物鳥を睨むと、ぎょろっとした目と合う。
ついつい引き攣り笑い。
「俺たちをど、どうする気ですか……」
不気味な目玉に気圧され、持ち前の負けん気の勢いが萎んでしまう。
それを嘲笑するように化け物鳥は喉を鳴らす。
次の瞬間、宙を返った化け物鳥が翔の体を天高く放った。
「ふ、ふざけんなよ!」
まさか、こんなところで解放されるとは思わず、翔は素っ頓狂な声を上げる。
「飛べるわけねえじゃん! 俺が飛べるわけねえのにっ、どどどうするんだよっ」
大パニックになった翔は意味を成さない言葉を連呼してしまう。
そうこうしている内に翔の体は天高く舞い上がったが、地球に重力がある以上、必ず物は落下する。翔とて例外ではない。
浮遊感から一変、急降下する不快な感覚が襲ってくる。
落ちる、ああ、落ちてしまう!
(こ、このままじゃ地面に叩きつけられて……あっ)
自由に身動きが取れない翔の本能が、かまびすしく警告を鳴らす。
それに従い、強い力で抱きしめていたギンコを宙に遠く放った。
驚き、大きく鳴く銀狐を見送った後に襲ってくる衝動は、気が遠くなりそうな痛み。横腹を食い破る鋭いくちばしが、翔の四肢の感覚を奪い去る。落ちる感覚すら、麻痺しかけていた。
ギンコの甲高い一声が、まるで悲鳴を思わせる。
「ああっ、そんな! おばばさま。殿方が!」
巫女少女の嘆きが聞こえる。
遠い地上にいるというのに。
『オツネも、オツネも危ない。青葉、はやく狐火を!』
猫の焦りも聞こえる。
遠いとおい地上にいるというのに。
(こんな状況なのに、すげぇ眠い)
痛みが強烈な睡魔を引き寄せる。
このまま眠りに就いてしまおうか。
脳裏に過ぎる、甘い誘惑もギンコの悲痛な鳴き声によって叶わなくなる。
閉じかけていた瞼を持ち上げると、化け物鳥が宙に放られたギンコに向かって大きく旋回していた。あくまで敵の目的は狐のようだ。負傷した付録には興味が無いらしい。
空中にいるギンコは、うまく身動きの取れないながらも、鋭いくちばしの攻撃は紙一重に避けていた。
されど、次に避けられるかどうかは分からない。
(ギンコ……)
ああ、守らなければ。
翔はギンコと約束したのだ。
飼い主の下に帰してやると。それまで何が遭っても守ると。
走馬灯のように、ギンコと過ごした数日が脳裏によみがえる。出逢った夜から、落ち込んだ夜から、狐と過ごした何気ない日常から。
ギンコ。
銀色の毛並みを持った、うつくしく気高い、高貴な狐。人語を理解する賢い狐。
あれが翔の傍にいてくれたから、翔は幼馴染らの秘密を知りながらも、ひどく落ち込まずに済んだのだ。
あの狐が翔を癒し、支え、励ましてくれたのだ。
そんな優しい狐を傷付ける者は誰だ――神のつかわしめを傷付ける不届き者は誰だ。
「……ゆるさない」
旋回する化け物鳥を見据える。
負傷した横腹を右手で押さえると、ギンコを襲おうとする化け物に殺気立った。空いた手で握り拳を作る。
「そいつを傷つけることは、ゆるさない」
翔の全身が紅の蒸気に包まれる。
持ち前の丸い瞳孔は縦長に伸び、体から放たれる蒸気と同じ色に染まった。
日が沈み、空には月と星が現れる。
それらの光を一身に浴び、翔は喉が裂けんばかりに咆哮した。
「ギンコに手ぇ出してんじゃねぇ――っ!」
呼応したように銀狐の体が大きく脈打ち、ギンコは天高く遠吠えする。
狐から放たれた眩い銀の光は翔の体を包み込んだ。
まるで月光のようにうつしい色を放つ、その光の中から間もなく翔が飛び出す。
いや、それは翔ではなく、混じり気のない純潔の白を纏った巨大な白い狐であった。黒の二つ巴を額に開示させ、三本の尾っぽを持つ白狐が飛び出した。
白狐は躊躇うことなく、化け物鳥の喉元に食らいつく。
相手の肉体を食い千切ったことで真正面から鮮血を浴びたが、白狐は痛みに狂う化け物鳥の奇声など見向きもしない。
顔に付着した赤黒い血をそのままに、三つの尾っぽの先端に各々青白い炎を宿した。
それを化け物鳥に放つと、颯爽と夜空を翔けて、落ちていくギンコの後を追う。背後では化け物鳥が青い炎に包まれ、身を焦がす間もなく消滅していた。
ギンコが地上に叩きつけられる前に、白狐が体を銜え、ゆるりと地上に降り立つ。
駆け寄ってきた巫女少女と三毛猫が見守る中、三本の尾っぽを持つ狐は姿かたちを変え、ふたたび少年の姿を取り戻した。額には二つ巴が開示されたままだった。
「貴殿……」
ぼんやりと宙を見つめていた翔が、巫女少女の声に反応し、血で汚れた顔をそちらに向ける。
へらりとあどけない笑顔を作った。
「あんたの、狐だろ」
腕に抱く狐を巫女少女に差し出し、ギンコは無事だと伝えた。
怪我も、なにも無い。狐は無事だ。
そう告げて、銀狐を受け取ってくれるよう促す。
彼女の腕にギンコがおさまったところで、翔は安心したように呟くのだ。「約束は守ったからな」と。
「ああっ、貴殿! しっかり!」
翔は力尽きる。
両の足で立つこともままならず、巫女少女の方に倒れ、やがて意識を闇へ放る。ねんざも腹部の痛みも感じずに。
『青葉、坊やを連れて帰るよ。この子は人間じゃない、半妖だ』
少年の体を受け止めた彼女、青葉に三毛猫が指示をする。
その尾は次第に四つに分かれ、各々の方角に靡いた。
『しかもただの半妖じゃあない。さっきの力は間違いなく、宝珠の御魂のもの。額に開示された二つ巴といい、白狐の姿に変わったことといい……まさか、この子が次の神主――だとしたら、とんでもないことになるよ』