<一>妖を祓う者
「僕たちから逃げられると思っているの? だったらお前は愚かだね」
彼、和泉朔夜は地面に転がるそれを見下ろすと、嘲笑うように口角をつり上げた。
印象的である銀縁眼鏡のブリッチ部分を軽く押し、やれやれと言った口振りで肩を竦める。彼はとても端正な目鼻立ちをしていた。
朔夜の足元では、恐怖にまみれた鳴声が聞こえてくる。
それはヒトではなく、ましてや獣でもなく、いびつな形をした何か、というべきもの。
頭部の前面から生えている角、鋭い鉤爪、全身を覆う漆黒の体毛。おぞましい三白眼。一見カラスのようにも見えるが、それにしては体が一回りも二回りも大きい。
いびつな形をした化け物を、朔夜は妖と呼んでいる。
「まだ、抵抗をする気なのかい」
今にも消えそうな外灯が妖をぼんやりと照らす。
体のいたるところに呪符が貼られた化け物は、奇々怪々な姿をしていた。呪符のせいで身動きが取れずにいるが、舗装された道に這いつくばって抵抗を見せている。
これから己がどうなるのか、知性のある化け物は悟っているのだ。
抵抗をしたところで意味など成さないのに。
朔夜は憮然と、化け物の愚行を観察した。
「いま楽にしてあげるよ」
彼の無慈悲な言葉と、妖の断末魔、どちらが早く天に轟いただろう。
朔夜の翳した数珠が暗紫に淡く光り、その法具に宿した力が解放される。光を浴びた妖は鳴声を地上に置いて、跡形もなく消滅した。
文字通り、舗装された道には何も残らなかった。
ひと気のない住宅街の一角は、まるで何もなかったかのように静寂が漂っている。
「朔夜くん、終わったね」
少女の声が静けさを裂く。
彼の背後で傍観していた楢崎飛鳥が、そっと歩み寄った。
童顔ながらも、どこか愛嬌のある顔立ち。くりくりとした二重は、一層愛嬌を引き立てる。
飛鳥は頬を緩めると、朔夜と肩を並べた。
「お疲れ。疲れたでしょ」
「なんてことないよ。いつものことだから」
一変して優しい光を眼に宿す朔夜だが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「最近、妖の数が急増している。調伏する回数が異常だね」
飛鳥に意見を求める。
ほんのり頬を紅潮させた彼女が、うんうんと忙しなく首を縦に振った。
「おかげで私たちの休みは全部返上だよ。毎晩こうして妖を調伏していくのも大変だね」
言葉に反して、彼女は生き生きとした表情を浮かべていた。
対照的に「人間も暇じゃないのにね」と、朔夜は気だるそうに鼻を鳴らす。
数十秒間の静寂。
先に空気を裂いたのは朔夜であった、
「帰ろうか」
家まで送る、と話を切り出す。
飛鳥は嬉しそうに頷き、歩き出す朔夜の背を追い駆ける。
「ねえねえ。朔夜くん、Lッテリアに行こうよ。ご飯まだでしょう?」
疑問の声には期待が篭められているが、彼は見向きもしない。
「ダメだよ飛鳥。僕たちは約束をすっぽかしてまで妖退治をしたんだ。彼にも悪いだろう?」
「……もちろん、悪いと思っているけど。でも、遊んでいたわけじゃないよ」
「なにより。飛鳥と二人で食事をしたら、事情を知らないあいつにも申し訳ないじゃないか。あいつ、三人で遊ぶことを楽しみにしていたんだよ?」
ご尤もな意見に、一思案した飛鳥が軽率だったと反省を見せる。
彼女にとって絶好の機会ではあったが、二人の指す【あいつ】も、飛鳥にとっては大切な者であった。
ただし。
(硬派すぎる朔夜くんにも難があるよ)
飛鳥はしかめっ面を作った。
朔夜の態度に物申したくなることも、本音だったりする。
ふと朔夜が足を止めた。
「どうしたの?」
飛鳥が首をかしげる。
「気のせい、か」
周囲を観察するように体を反転させていた朔夜が、なんでもないとばかりにかぶりを振る。
目に映るのは殺風景な舗道や古い一軒家、アパートばかりで人の姿は見られない。ひとの気配を感じたのだが気のせいだったようだ。
その目を夜空に向ける。
町中に散らばるネオンの光に敗北している月は、見るからに弱々しい光を放っていた。強い光を放つことができないせいで、地上にいる人間には見向きもされない。
それがとてもさみしい存在だと朔夜は心底思った。
「妖祓として生きることは、あの月と同じようだよ」
そっと唇を動かす。
季節は春寒の折柄、唇の先からは白い息が漏れる。
「月?」
きょとんとした顔でこちらを見つめてくる飛鳥に、苦々しい笑みを浮かべた。
「ひとりごとだよ」
そっと首を横に振った後、朔夜は大人の口癖を真似する。
幼少から言い聞かされていた言葉は洗脳のようであり、呪いのようにも思える台詞であった。
「これからも、妖を祓っていこう。それが代々受け継がれてきた、妖祓一族の宿命だから」
彼の言葉に、彼女はやや目を伏せた後、小さく頷いて同意を示した。
和泉 朔夜。
楢崎 飛鳥。
二人は幼馴染であり、妖を祓う家系の血統者である。
妖祓の継承者として、若人ながらも人間に害をもたらす妖を祓い、人間の平穏を守るために暗躍している。物心ついた頃から、二人は妖祓として厳しく躾けられてきたその腕は確かなもので、仲間の妖祓からも将来を期待されている。
ところで話はかわり。
立派な使命を与えられている二人には、三人目の幼馴染がいる。
その幼馴染は使命を背負う彼らと違い、妖祓と呼ばれる職には携わっておらず、妖の存在すら知らない。ただの人間であった。
「なん、だよ。いまの」
さて。
一部始終、今までの光景を盗み見していた者がここにいる。
その不届き者は民家の車庫に不法侵入、ぶるぶると震えながら身を隠していた。冷たい金属壁を背もたれにその場に座り込み、目を白黒させている。
常に強い気を宿している瞳は動揺しているせいで、頼りなく揺れていた。
彼こそ、二人が指す【あいつ】であり、話題にのぼった少年であった。
「ば……ばけものを、見ちまった」
南条翔は文字通り、我が目を疑い、自分の培ってきた常識すら信じられずに座り込んでいた。