8
父がいた。母がいた。私は、笑っていた。
振り返ると、誰よりも私に安心をくれる男性がいた。
『ギスラン』
私は笑いながら彼の名を呼んだ。
私を見つめていた瞳が微笑んで、私を守る逞しい腕が伸ばされた。誘われるようにその腕に向かうと、そのまま彼の腕が私を捕まえて、そのまま広い胸へといざなわれて……。
温かい。
ファンティーヌはうつらうつらと、自分を包み込む温もりに浸る。
ギスラン。
心の中で彼を呼ぶ。
あなたさえいれば、私は………。
少しずつ夢は覚めてゆく。目覚めたとき、先ほどまでの出来事が夢であるのだと一瞬にして現実が襲い来る。けれど夢の余韻はまだファンティーヌを包み込んで、愛おしさと幸せとに浸らせてくれる。
ギスラン。
包み込む温もりが気持ちいい。
それが何かを確かめることなく、ファンティーヌは自分に寄り添う温もりに身を預けていた。
しかし徐々に夢から覚めてゆき、彼女の夢うつつの意識は次第に現実を把握してゆく。
まずはじめに気付いた違和は、目の前を覆う温もり。人肌なのだと気付くのにしばらくかかった。
驚きと共に身を離そうとすれば、それを阻むように鍛え上げられた腕が回されていることに気付く。
そして、足すらもまるで拘束されたかのように、その人の足によって押さえつけられている。
何事か分からずにしばらく呆然とした物の、すぐにそれがギスランであることに気付いた。
夢に見たままの、自分を守る、逞しくあたたかな温もりに包まれていたのだと知る。
次いで昨夜のことが思い出された。
あんな事を言ってなお、自分を守ってくれているのだと思うと、愛おしさに涙がにじんだ。
男の本心がどこにあるのかはやはり分からない。分からないが、そこにある男の優しさは分かる。
昨夜泣きはらしたファンティーヌは、あれほどまでに抱えていた悲しみや怒り、絶望がわずかながらに落ち着いていることに気付く。今なら、昨夜のように取り乱すことなく男と話せるような気がした。
気を取り直し、あたたかなそこから抜け出そうと身をよじったときだった。回された腕に力がこもって、彼女の動きを遮った。
「どこへ行く気だ?」
「あ、の」
背中から低くかすれた声がして、男を起こしてしまったことにわずかながらの罪悪感を覚えながら戸惑う。
「無駄だ。逃がすと思うな」
くっと笑いながら呟かれた声は、なぜかとても優しく響く。
「ギスラン……?」
問いかけるように名を呼ぶと「何だ」と低い声が短く返ってくる。
昨夜は恐ろしいと思った彼の雰囲気が、今はいつも通り落ち着いた物に戻っている事に気付き、ファンティーヌはほっと息を吐いた。
「あの、私はあなたを雇えなくなりましたし、あなたが私についている必要は、その、ないのですよ……?」
黙っていれば彼の優しさにつけ込んで側にいられるかもしれない、という気持ちもある。けれど、きっとそれはいつ捨てられるかと怯えながらの日々となるだろう。だからと、今の優しいギスランのうちにと、意を決して問いかけてみれば、返ってきたのは呆れたような、苛立ったような溜息だった。
「たった今言った事をもう忘れたのか。ようやく俺の意志であんたに触れることができるというのに、逃がすと思っているのか」
回された腕がぎゅっとファンティーヌを押さえ込むが、その拘束する手も圧迫感も気持ちいいと思うのはどうしてだろう。
ファンティーヌは男の言動が理解できずに混乱する。目覚めて状況が一変したようにも感じるし、けれどギスランの言動は一貫しているようにも感じる。
いつも以上に男の考えている事が分からない。だからその言葉の意図することを掴みきれない。
「何を言って……」
まるでギスランがファンティーヌから離れたくないように聞こえてしまう。
どうして。
ギスランがそんな事を言う理由が見つからない。言葉の意味通りに受け止めることができれば幸せなのだろう。けれどそうしようにも、男に躱され続けてきた過去がそれを否定する。
ファンティーヌの知る男は、寡黙で護衛らしく相応に威圧感はあるが、彼女にだけは優しい男だった。けれど、気持ちを隠しきれない彼女に距離を取っていたのは彼の方だ。
それでも彼にとって無条件に守ってやっても良いと思えるぐらい、彼女に情を移していたという事だろうか。
いくら考えても男の意図が分からずに、抱きしめられたまま混乱する。
「あんたは、俺の側にいるしか道はないと言っているんだ」
後ろから抱きしめられ、彼女の首筋に男の顔が埋められる。目の端に映る男の黒髪がさらりとファンティーヌの頬をくすぐり、首筋を男の無精髭がざらりとひっかく。
「あ……」
息づかいさえ聞こえるその近さに、ファンティーヌは震えた。
「お前を守る物はもうない。あんたは、俺から離れて生きていけない。あんたは俺を頼るしかないんだ。逃げようだなんて考えるな。諦めろ」
脅しつけているようなのに、優しい声だった。優しい声がまるで絡め取るようにファンティーヌの未来を束縛してゆく。
その束縛を心地よいと思いながら、けれどファンティーヌはそれを納得できずにいた。
「でも、それだとあなたに負担がかかりすぎます」
ギスランと恋仲だというのなら喜べたかもしれない。甘えて頼ることができたかもしれない。けれど彼女は知っている。彼が自分をそう言う目では見ていないことを。それがファンティーヌにとっての事実であった。
「……っ」
背中で男が息を飲んだのが聞こえた。
「なぜ……あんたは俺を頼らない……っ」
その呟きは苦しげに響いた。
「俺は、そんなに信用できないか。「命を賭してあなたをお守りする」そう誓ったあの言葉をお前は信じていなかったのか!」
まるで縋るようにぶつけられる言葉にファンティーヌは息を飲んだ。
「命を賭して守る」確かにファンティーヌはその言葉を男から献げられたことがあった。けれどあくまでそれは雇われた護衛としての言葉だったはずだ。今の状態でそれが当てはまるなどと、どうして思えるというのか。なのにそれを信じないと責められる。何という甘い責め苦か。
ファンティーヌは男の言葉を拒絶するように首を横に振ると、腕の中から逃げるかのように身じろいだ。
「逃がさないと言ったはずだ」
低い声が耳元で響き、そこから彼女の体にぞわりとした感覚が全身へと伝わる。
「俺が、怖くなったか?」
男は地を這うような低い声で呟く。
「ファンティーヌ」
威圧するような声が彼女の名を呼んだ。けれど何と答えて良いのか分からずに、彼女はただ身を固くして縮み込ませた。
「俺の気持ちを知って怖くなったか。それとも疎ましいか」
男の言葉の意味が分からない。なぜ怖いだの疎ましいだのという考えに及ぶのか。
ファンティーヌは首を横に振る。
「ならばなぜ逃げようとする」
訳が分からない。困っているのはファンティーヌの方だというのに。彼女の目に涙がにじんだ。
「い、意味が分かりませ……」
「ほんとに? 俺の気持ちが本当に分からないのか?」
責めないで。
ファンティーヌは唇を噛み締めた。
ギスランの気持ちが分かった事なんて一度もない。分かっているのは、自分では彼の相手にならないという事だけだ。
彼女を抱きしめる腕に力がこもった。
「ファンティーヌ。俺のもとにいろ」
優しくなだめるような声がした。護衛の頃に聞いた、いつもの穏やかで落ち着いた……そして感情の分からない声。
「どうして……!! だってあなたは前に言ったじゃないですか! 私のような女には興味がないと! なぜ今更そんな事を言って私を惑わすのですか!」
彼女は身を丸めるようにして身を固くする。叫ぶ自分を、そしてこれから聞かなければいけない辛い言葉で傷つく自分を守るために。
惑わせないで。期待させないで。それが手に入らないと突きつけられたら、今はもう、耐えられない。
「私はただの足手まといにしかならないのに。あなたの幸せを邪魔すると分かっているのに。あなたが私の事を私が思うようには返してくれないと分かっているのに。お願いですから、もう期待させないで下さい、ほうっておいて下さい……!!」
身を丸くして震える。期待が打ち捨てられるのが怖くて、もう尽きたと思った涙がまた溢れた。