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悲嘆に暮れた泣き声が狭い小屋に響く。
苦しさを吐き出すような、苦しげな嗚咽が絶え絶えにこぼれ落ちてゆく。
「どうして、どうして……っ」
時折漏れる呟きと、叫ぶような泣き声と。あらゆる悲しみと苦しみを吐き出しながらファンティーヌが慟哭する。
ギスランはそれを見つめながら、彼女のこの姿が見たかったのだと、突然に自覚した。
彼女に拒絶された怒りややりきれなさ、そして衝動的で残虐な感情が引いていく。
男は安堵していた。
彼女がようやく彼女の身に起こったことを受け止めたのだ。理性に感情が追いつかず、泣くことさえできなかったのだろう。悲劇的な状況にもかかわらず落ち着いているように見えたが、それは感情豊かな彼女らしくなかった。彼女の身に起こったことは、決して冷静に受け止められる苦しみではなかったはずなのだ。今まで取り乱すことなくいられたのがおかしいぐらいだった。
実感も足りなかったのだろう。
彼女が張り詰めて、平静を装い、苦しさを男にすら見せようとしない姿を、どれだけ苦く思っていたのかを自覚した。その事もまた、腹立たしさの一因であったのだと。
意図せず追い詰めることとなったが、結果、ようやく彼女は泣いた。苦しさを吐き出すことができたのだ。
悲嘆に暮れる彼女を、ギスランは時折なじられながら、その振り上げられる拳をひたすらに受け止めた。振り払われながらも、小さな背中に腕を回し、包み込んだ。
苦しさから立ち上がるとき、こうした感情の発露が時に必要である。
苦しさをバネに立ち上がるには、彼女には目指す物が何もない。復讐は領主夫婦の望むところではない。彼女には怒りも悲しみもぶつける場所がどこにもないのだ。吐き出す先がないのなら、こうして泣いて叫んで心に折り合いを付けていくしかない。
泣き崩れているその姿を、ギスランは苦しさとわずかながらの安堵を込めて見つめていた。
長い、長い時間が過ぎた。泣き尽くした彼女から、途切れ途切れの呻くような泣き声が聞こえる。そしてしばらく後、泣き声は途切れ、そして力の抜けた彼女の体から寝息が聞こえはじめた。
うずくまるような体を無理のない体勢に直してから、そっと衣を掛ける。
痛々しい泣き声はもう聞こえてこない。
ギスランは労るように彼女の流れるような髪を撫でた。
愛おしんで、彼女を傷つける何物からも遠ざけて護りたいと思う。けれど同時に、どうしようもなく傷つけたい衝動も存在する。
今まで触れることのできなかった、手入れの行き届いた髪に指を絡め、そして頬に触れる。
今は、凶暴な感情はなりを潜め、ただ愛おしさだけが溢れている。ギスランは息を吐いた。自分が彼女にした仕打ちの愚かさを男は理解していた。愛しい女を傷つけたいなどと、その感情の不毛さは誰に言われるまでもない。それでも抑えられなかった衝動を、今は悔やむばかりだ。
今夜彼女の身に起こったことは、少なからずギスラン自身にも動揺を与えていたのかもしれない。
ギスランにとって死は身近な物であった。生きていく、ただそれだけのことがどれだけ難しいことなのかを身をもって知っていた。謀に手を貸すような仕事をしたのも一度や二度ではない。少年時代はそういった裏の社会で得られる汚れの仕事を主に引き受けてきた。子供だからこそできる仕事があった。
結果、他人の人生が崩壊していくのを何度も目にしてきた。それを見るのも、そうして逆に陥れられて逃げ出すのも、日常のように起こっていた時期もあった。そうした悪意にまみれたやりとりは、他人事ではなく、身近な物だった。いつ自分の身に起きてもおかしくないような日常の出来事だった。
今更、一つの家が無実の罪で潰されようと、殺されようと、ギスランには何の感慨もない物であった筈だった。
悪意も裏切りも企みも謀ることも、全ては身近にあった物なのだから。
力ある者のたった一つの欲望や悪意から、力ない者の日常とは簡単に崩される。それをするのが人間であり、それにまみれて生きるのがギスランの真実であった。
けれど彼はそれと無縁に生きてきた少女と出会った。その家の主はギスランの本質を知りながらも彼女の護衛を任した。
主はギスランも及びもつかないほど、冷徹で謀略に長けた男だった。なのにその手腕は、時に裏で振るわれることはあっても、全ては街のためにと振るわれていた。これだけの力を持ちながら、こんな力の使い方をしている人間をギスランは他に見た事がなかった。なのに、必要とあれば冷徹な判断を迷うことなく下す。得る物と切り捨てる物を瞬時に判断し、普段では考えられない冷酷さを見せつけられることもあった。どうすればこんな人間が出来上がるのかと、呆れると同時に心惹かれた。ギスランは初めて人を尊敬することを知った。
そして時を同じくして抑えが効かないほど焦がれる恋情を知った。自分とは無縁と思えていた上流階級の人間に、生温かい、けれど、心地よい感情を教えられた。
まるで子供のするような愚かな恋だった。何の力もない、ひ弱で、愚かで、ただかわいらしいだけで何の役にも立たない少女に、どうしようもなく惹きつけられた。
ギスランにとって、初めてかけがえのない人間ができた。
自分の欲望のために、主を裏切る気にはなれなかったのも、ファンティーヌを求めることができなかった理由の一つである。尊敬する云々の前に、彼の力では領主を出し抜くことは難しかったのだ。
領主もそれを見抜いていたのだろう。気付いていなかったとは思わない。何度か釘を刺されたこともあった。
彼らの未来がほぼ確定となり、彼女の後を任されたときは、どれだけお人好しなのだと主をなじりもした。主がそこまでする必要はないと。己の身を守ることを優先することの何が悪いのだと。なぜ自らを犠牲にするのだと。それは冷徹さを持つ主の下す判断とは思えなかった。
けれど領主はどこまでも情に厚く、どこまでも非情であった。確実に得たい物があるのならば、手段を選ばない。そこで賭ける物が、己と家族の命であったとしても。
犠牲ではないのだと主は笑った。もしそうしなければ、今回起こる被害の数十倍の被害が国からもたらされる。根深い貧困が蔓延し、貧富の差がひどくなり、この商業の都市としての力は衰退するだろうと。それを見るのが何よりも許し難い。これは我欲なのだと。主はそう言った。家族と、そして信奉者を道づれにした身勝手な欲なのだと。
主の意志は固かった。
最終的にギスランはそれを受け入れた。
そして全ては失われた。愛しい少女を残し、男にとってこの街で得た大切だった物全てが。
この結末をギスランは覚悟していた。最終的にはファンティーヌさえ助かれば後はどうでもいいとすら割り切っていたつもりだった。
男にとって身近にあった物が、尊敬した彼らの元にも訪れたのだと、ただそれだけのことだと理解していた。どんなにすばらしい人間であろうと、どんなに大切にしたい者であろうと、死も、裏切りも、謀も、訪れるときは無情にやってきて全てを奪い去る。
覚悟していたことだった。
ただ、主らの死は、思った以上に堪えていたらしい。
心を落ち着けようとするように、ギスランは、そこに眠る愛しい少女を何度も何度も撫でた。
不用意に感情に振りまわされて苦しめてしまった。
何とでも言いくるめることぐらいできたであろうに。彼女が自分に頼らなかった事への腹立たしさに囚われてしまった。彼女が不安定であったように、男もまた平常心を失っていたのだろう。
抱きしめて、彼女を慰め、自分に頼らせたかった。このまま手に入れてやろうという欲望も確かにあった。けれど、ただ彼女の苦しみを受け止めてやりたい気持ちも確かにあったのだ。
なのにしたことといえば、以前からくすぶっていた感情にとらわれて、彼女を追い詰めることだった。
「うまくいかないものだ」
彼女を手に入れられると思ったというのに。
長い髪をそっと持ち上げ口付ければ、彼女がわずかに身じろいだ。それをきっかけにファンティーヌはむずがるように寝返りを打ち、呻くような声を漏らす。
「大丈夫だ。今はゆっくり休め。……ファンティーヌ。俺が、いる」
彼は寝返りを打つ背中を何度もさすりながら、なだめる為の言葉を思い付くかぎりゆっくりと囁けば、その声に反応するかのように、彼女の声も動きも次第に落ち着きを取り戻してゆく。
眠っているひとときぐらいであれば、思うままに優しくあれるのだが。
安らかな寝息を立て始めたファンティーヌを、眼を細めて男は見た。
愛しさは増すばかりだ。そして彼女を手に入れたいという欲もまた。
ギスランは息を吐くと、彼女の隣に腰を据えると、静かに目を閉じた。
今は、男もまた休息が必要であった。