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 ギスランは感情が怒りに沸き上がるのを感じていた。

 ようやく彼女が手に入るという段になって、彼女がそれを拒絶してきたのだ。

 何の労もなく、そして彼女には逃げ道すらなく、ギスランの腕の中に落ちてくるはずだったのに。ギスランは当然のようにそのつもりでいた。なのに、ここに来て彼女がギスランから逃れようとしていた。

 それは許し難い裏切りのように感じられた。

 これまでずっと向けられてきたギスランの心を探る瞳も、ギスランの言葉に頬を染めた姿も、ギスランを求めて声を弾ませる様子も、今はない。

 男の思い描いていた状況と正反対だと言っていい。彼女は今までのように、甘えを含んだ様子で縋るように迷わず求めてくるだろうと思っていたというのに。

 なのに実際は甘えを全く見せる様子はなく、あるのは、もういいとギスランの手を払う姿。

 許せるものかと心の中で呟いた。

 お前は、もう俺の物になるしか道などないというのに。なぜ拒絶する。

 男はぐっと彼女の肩を掴んだ。

 怒りにまかせた気遣いのないその動作は、彼女の表情をこわばらせ、そして痛みに顔を歪ませた。

「答えろ。これからどうするつもりだ」

「……っ、ギス、ランっ」

 恐怖になのか痛みになのかそれは定かではないが顔を歪ませたファンティーヌに、ギスランは嗜虐的な快感を覚えて笑みを浮かべる。その快感を更に得るために、彼にとっては甘い、そして彼女にとっては苦しすぎる現実を突きつけた。

「お前を守る家も、家族も、身分も、何もなくなっただろう?」

 ギスランの言葉に、ファンティーヌが身をこわばらせた。唇を震わせながら、笑うギスランを凝視してくる。

 絶望すればいい。一人で何もできなくなるぐらい。俺にしか他に頼る術を無くすほどに。お前には何もないことを自覚するがいい。傷つき、嘆いて、俺に縋れ。

 なのに、彼女は震えながら言うのだ。苦しげに、耐えるように声を絞り出しながら。

「そ、そうです。もう、私には何もないのです。あなたが、そこまで私に仕える義務などないのです。どうか、足手まといになる私など捨てて……どうか、自由に……」

 拒絶するように目を逸らす彼女に、笑いが込み上げる。しかしその笑いは表に出ることなく怒りによって塗りつぶされた。

 自由に。……自由に、だと?

「そうだな。俺にはもう、お前に対して何の義務もない。俺の好きにさせて貰おうか。お前の言う通り、俺は自由だ。やっとこの立場から解放されるんだ。「姫」のお守りは、もう飽き飽きしていたところだ」

 そう言ってファンティーヌをのぞき込む。

 彼女を憐れと思う気持ちがないわけではない。けれど彼女に起こった不幸を喜んでいる自身を男は自覚していた。

 彼女に向けた言葉に偽りはない。確かに護衛の立場など飽き飽きしていた。護衛などではなく、男として隣に立ちたいと願っていた。

 なのにそれを叶えようとしたとたん拒絶した彼女が憎らしい。愛おしすぎて胸が煮えたぎるほどに憎たらしい。

 俺の言葉に傷つけばいい。他の何も考えられぬほど傷ついて、俺のことだけを考え続ければいい。お前は、俺のことだけを考えていればいい。

 傷ついた彼女の顔に、えも言えぬ感情が沸き立つ。

「何を、笑っているのですか……?」

 彼女が全てを失ったことに愉悦を覚えているギスランに気付いたのか、ぎこちなく探るような瞳を向けてくる。これまでのような甘さを含んだ瞳ではなかったが、ようやくファンティーヌから突き放すような気配がなくなったことに、ギスランは満足した。

 ギスランの言葉が彼女を傷つけている。それは彼女にとって男の言葉が大きな物だという事の証明のように見えた。

「俺は、笑っているか」

 笑っている自覚さえなかった。彼女の言葉に、ギスランは笑う。込み上げる興奮を抑えることすらできていないと知った。彼女がこの身の内にある歓喜を知れば、何と思うだろう。

「なぜ、そんなふうに、楽しそうに笑うの……!!」

 涙を溢れさせ、悲鳴を上げるようにファンティーヌが叫んだ。

 知られたくない。反面、思い知らせてやりたい。込み上げるのは彼女にとっては残虐といえるほどの衝動だった。


「私が何もかもを失ったのが、楽しいのですかっ」

 ファンティーヌは自分の言っていることが冷静さを欠いた物であることを、頭の片隅はおぼろげながら感じていた。

 違う、と。ギスランがそんな事を本気で言うはずがないと思う心があった。

 けれど、込み上げる感情を抑えられなかった。抑えようと思う理性さえ働かなかった。

 彼女は何もかもを失った。そして信頼するギスランとは別れなければならない。必死の思いで告げた言葉だったというのに、ギスランからはまるでファンティーヌにとって都合のいいように拒絶されたのだ。まるで縋れとでも言うように。混乱していた。そこへ、二人でいるという甘い夢を見せたギスランが、今度は全てを失ったファンティーヌを笑いながら嘲る。

 飽き飽きしたと言っていた。

 ファンティーヌの相手をするのがどれだけ不快だったのか。彼の態度からよほど堪えきれぬ物であったのは確かであると思われた。

 その事実がたまらなく苦しい。優しく見せてくれていた言葉も微笑みも、全て偽りだったのか。ならばなぜ、この期に及んで手を伸ばす素振りをしたのか。それならばなぜ最初から捨ててくれなかったのか。

 期待をさせておいて、絶望に突き落とされる。

 ギスラン、あなたは、残酷です……!

 訳が分からなかった。起こっていることを認識するのが精一杯で、ギスランがどういうつもりなのか考えるだけの余裕などない。

「ああ、楽しいのかもな」

 男はそう言うと、ファンティーヌの肩を掴んだまま、さも面白そうに笑って肩をゆらしている。

 不安定なファンティーヌは、ギスランの言葉とその様子に感情をひっくり返されていた。

 ファンティーヌは苦労を知らない年若い少女である。それが突然に襲ってきた悲劇を前に、まともな精神状態であれるはずがなかった。思考も感情も、一定の物を通常のように保つのは難しい。

 絶望にとらわれて負に向かっていた彼女の感情は簡単に揺り動かされる。絶望の苦しみは、ギスランへの怒りと悲しみに形を変えることで、ついに発露した。

 彼女は目の前の男の袖を、つかみかかるように力強く握りしめた。

「どうして、笑っているのですか!! どうして楽しいだなんて笑えるというの!!」

 ファンティーヌは縋るように身を乗り出すと、男を責めるように叫んだ。男の言動の矛盾に気付くこともできない彼女は、言葉通りの意味の筈がないことにすら頭が働かない。正常に頭を働かせるには、彼女の混乱は大きすぎた。目先のことにとらわれて、感情が簡単に振れてしまう。

 それを煽るように、つかみかかる彼女を見下ろしながらギスランが嘲笑った。

「どうして? お前が、何もかもを失った事がどうして楽しいのか、本当に聞きたいのか?」

 男の指が、なぞるように彼女の頬をなぞった。

 肌を滑る太く硬い指先の感触は、ただ優しく触れているだけだというのに、なぜか今にもくびり殺されてしまいそうな気がして、総毛立つようなぞくりとした感覚にとらわれる。

「ずっと思っていた。身分など失ってしまえばいいと」

 笑みを浮かべ、心底幸せそうにそう囁いた男に、ファンティーヌは頭が真っ白になる。

 なぜ。

 ギスラン、どうして。

 その言葉で、決定的に突き放された気がした。頬に触れた指先が首を掴んだのではないかと思うほどの息苦しさを覚えた。

 それほどまでに、私が疎ましかったというの? 私が全てを失って、楽しいと思ってしまうほど。

 もし今立っていたのなら、間違いなく彼女はその場に崩れ落ちていただろう。

 男の袖を握りしめていた手がガタガタと震えた。力が入らない。男に縋る指先がずるりと布からすり抜け、バサリと音を立てて膝の上へと落ちた。

 座っていた彼女は倒れこそしなかった物の、一瞬で頭から血の気が引き、ズクンと胸の中におもりが落とされたような感覚に陥っていた。

 頭は空っぽになったようにふらふらするのに、腹部から下は動くことさえおぼつかないほど重くて、そのまま沈み込んでしまいそうに感じられる。

 もしかして、私は、ギスランに、嫌われていた?

 がちがちとかみ合わない歯が、当たる度に震えの音となって大きく頭の中を揺さぶるように響かせる。

 許容量を超えた感情に、突然込み上げた涙があふれ出す。

「……ぁっ、あぁ……!!」

 悲鳴が上がった。

 溢れた感情が喉を引き裂くようにして噴き出したようだった。もう、これ以上感情を抑えつけておく事ができなかった。やり場のなかった感情が次から次へとあふれ出し、狂ったように胸の痛みが叫び声となって溢れ出す。後から後から溢れる涙を堪えようとさえ思えなかった。

「……っ、ぃや……っ、あ、ぁ……あぁぁぁ…!!」

 嗚咽を響かせて、ファンティーヌは泣き崩れた。


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