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 安堵する彼女の気持ちとは裏腹に、男はそうは思っていないようだった。

「そんな事が、出来ると思っているのか?」

 固い声がファンティーヌの努力を否定した。

「え……?」

「あんたが、俺から離れて、どうやって生きていく気だ」

 重い声、鋭い視線、怒りすら感じるそれらが、ギスランから向けられていることにファンティーヌは震えた。いつも静かで穏やかとも言えた態度とは真逆の、見たこともない男の一面だった。

 まるで威圧するかのように、ファンティーヌの傍らから身を乗り乗りだして尋ねてくる。

 心配、してくれているのだろうか。

 怒りの理由が思いつかず、不安を覚えながら、けれど一緒にいるつもりだったと分かるその言葉に、喜びもまた込み上げる。

 けれど、それに甘えては駄目だと、理性が忠告してくる。

 ファンティーヌは罪人の汚名を着せられた男の娘となる。これからギスランが生きていくのに、間違いなく足手まといとなるだろう。

 彼女は、自分が一人で生きていけるなどとは思っていない。何しろ、今、これからどのようにすればいいのかすら思い付かない有様なのだ。どこに、どのように居を構えればいいのかも分からない。多少の金子は持っていても、これから先、生きて行くには仕事もせねばならないだろう。しかしどのような仕事を自分が出来るかすら分からない。どこへ行けば仕事がもらえるのかも分からない。先を思えば思うほど不安しかない。自分がどれだけ、役に立たないお荷物であるかを、ファンティーヌは理解していた。

 両親から一人だけ生き延びろと言われて、ファンティーヌは嫌だと訴えた。けれど、結局こうして一人逃がされた。

 謀反を起こすことを知ってから現在に至るまでには相応の時間があった、全く準備をする間がなかったわけではない。ただ、それがこのような結末に至るという可能性は知っていても、実際起こるとは思っていなかった。何とかなるだろうと本心では思っていたのだ。けれど、次第に事態が悪化し、ファンティーヌでさえも、異常な空気を感じるようになり、父が罪を背負って死ぬしか手立てがなくなって初めて、ファンティーヌは事態を実感した。父や母が覚悟したのなら共に行くと訴えた。

 けれど両親からの懇願にファンティーヌがそれを受け入れたのは、罪を負わされるわずか二日前。逃がされた後のことに思い至るも、それを考える余裕すらないまま、逃げ延びる準備だけが進められた。逃げ延びても、自分はどのように生きていけばよいのか分からない不安を抱えたまま。

 そして起こった昨夜の悪夢。

 ファンティーヌは絶望したのだ。家が炎に包まれ、その中で両親が、そして屋敷の者達が死んでいっているのであろう事を想像しながら。

 生きてゆくことに、光を見いだせなかった。共に死んでしまいたかった。

 ファンティーヌは生きるために男に縋ることを放棄していた。どうせ、生き延びる方法など見つけられぬ。今男に助けられても、恩を返せるあてもなく同情だけでは付き合いきれなくなるほどに足手まといになるだろう。愛した男に疎まれてまで縋りたくもない。だから今関係を切り、男がいなくなった後は死んでしまおうと思っていたのだ。

 自分に何か価値があれば良かった。さすれば、こうして手を差し伸べてくれる男の手を取る道も選べたかもしれない。優しさにすがれたかもしれない。

 けれどファンティーヌは、父の娘というその恩恵を無くしてしまえば、何の価値もない役立たずの娘でしかないのではと、気付いてしまっていた。身につけた教養など、罪人の娘となってしまっては何の役にも立たない。父の娘として褒められ持ち上げられた全てのことが生きていくのに無意味だった。家族をなくし、それまでの生活とは無縁の世界での、想像もつかない未来。

 ファンティーヌの未来には希望など存在しなかった。

 絶望は、ファンティーヌの心から、必死に生きようとする心を奪っていた。

 ギスランが心配してくれるのは嬉しい。できる事なら縋ってしまいたい。けれど、自分が進める道など、一つしかないのだ。

「私のこれからのことを、あなたが気にする必要はありません」

 厳しい顔をした男を、これ以上見つめていることができず、うつむいてそう呟いた。

 縋ってしまいたい気持ちはある。

 彼の優しさは、いつでもファンティーヌを期待させるのだ。

 相手にされていないというのに、もしかしたらいつかなどと二人の未来を夢見た日々。結局ギスランの優しさは護衛としての物でしかなかった。

 今回もそう。こんなに優しくされたら、期待してしまう。ずっと、ずっと一緒にいてくれるのではないかと。苦しい私をこのまま支え続けてくれるんじゃないかと。

 そんな事、あるわけないのに。

 絶望の中に灯る彼の優しさが、ファンティーヌを苦しめた。

 縋ってはいけないのに、縋りたくなる。

 お願い私に優しさを見せないで。

 このまま死ねば彼を煩わせることはない。だから。

 お願い、ほうって置いて。

 ファンティーヌは身をこわばらせて震えた。

 このまま護衛としての役目を終えて私の前から消えて。

 苦しい、悲しい、辛い。

 早く消えてしまいたい。早くこの苦しみから解放されたい。あなたを解放する役目を果たしたら、あなたの目の届かないところで、首を掻ききりこの苦しみから逃れましょう。

 苦しみを断つ甘美な誘惑がファンティーヌを支配していた。

 けれどギスランがそれよりもまだ甘い夢を見させる。見てはいけない夢を。

 沈黙するギスランが怖い。このまま、彼の言葉に負けてしまいそうで怖い。

 今まで守ってくれていた彼に、無意識に甘える心がファンティーヌにはある。無条件で彼に信頼を預けている。彼がいれば大丈夫と、心は安心してしまう。

 もうこのまま朽ち果てるしか道はないというのに、彼に甘えてしまいそうになる。こうして同情を向けてくれているうちに、離れてしまいたいのに。彼に疎ましく思われる前に、逃げてしまいたいのに。

 彼の優しさに飲まれてしまうのが怖かった。優しさに甘え、その先で彼の足手まといになり、疎まれるのが怖かった。ギスランから向けられる今の優しさが、怖かった。

「気にする必要がない? このまま俺にあんたを見捨てろと? 生きていけないのが分かっているのに?」

 はっと嘲笑うような笑い声が隣から響いてきた。

 耳に届いたのは思いもよらない言葉だった。いや、言葉だけならただの事実に過ぎない。ただそこに含まれる蔑みにも似た感情が自分に向けられていることが、想像だにしない物だったのだ。

 それが慕い続けていた男から発せられているのが信じられず、彼女はゆっくりと顔を上げ、自分を見下ろしている男へと視線を移していった。


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