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夢を見た。ほんの数ヶ月前にあった出来事の夢だ。
ファンティーヌがまぶたを開けると、みすぼらしい小屋の屋根の骨組みがその目に映った。彼女はそれを見るともなしにじっと見つめながら、過ぎてしまった日常の夢を思い返す。
ずっと当たり前に続くと思っていた日常。それらが壊れる前の夢だった。
何と幸せだったのだろうと思う。ギスランとの恋が叶わないことに、あれだけ心を痛められた。あの時のファンティーヌにとって、恋が叶わないことが最も辛いことだった。
何と、幸せだったのだろう。
切ないなどと思っても、まだ、あの時は男を思う事ができるだけ幸せだったのだ。未来に不安もなく、希望も夢も持つことができた。
込み上げる涙をこらえる為、自身をくるむ男の上着をぐっと握りしめ息を潜めた。
きっと、あの時なら、この上着一つにくるまれただけで、世界中の誰よりも幸せになれていた。けれど今は違う。
今にも涙が溢れそうだった。ともすれば叫んでしまいそうだった。
今は、この幸せを素直に甘受できない。焦がれた人の側にいるだけで幸せになれない。父も母も、そして彼女を愛おしみながら囲んでくれていた屋敷の者達も、皆、いなくなったのだから。浮かれていい余地など彼女にはない。
何を喜び、何に幸せになれると言うのか。
父も母も、覚悟して死んだ。
いくらこの結末が分かっていたことだとしても、この悲劇を前に、喜ぶ感情など持っていいはずがない。
覚悟はしていた。父が母が、守りたい物の為に、ただ一つ選べる手段を選んだだけのこと。決して、ただの不幸ではない。
だが、現実としてそれが起きたという実感は、込み上げるごとにファンティーヌを絶望へと沈み込めようとする。
「目が覚めたか」
横になったまま現実を受け止めて震えるファンティーヌに、静かな声がかけられた。
「ぎす、らん……?」
震える声を抑えきれぬまま、ファンティーヌはゆっくりと声のした方に頭を向ける。隣りに寄り添うように男がいた。上半身を起こし、覆うように彼女を見下ろしている。
「あぁ。大丈夫だ、俺がいる」
見た事もないような優しい笑みを浮かべて、労るように大きな手が彼女の頭を撫でた。太く骨張った、皮の厚い指先が、彼女の頬をなぞるように撫でた。
それは、望んでいた触れ合いだった。
護衛としてではなく、想いのこもった優しい手つきだった。
嬉しくて、苦しくて、溢れそうになる涙をファンティーヌはこらえた。
今すぐにでも泣きついてしまいたかったが、ファンティーヌは留まる。自分には、この優しい護衛だった男に、甘える資格など無い。
そう思うと、優しさが突き刺さるように苦しい物になった。
あれだけ望んだ物を、今となっては、もう望むことは許されない。自ら拒絶しなければならない。
家がなくなった今、ファンティーヌには護衛を雇うような持ち合わせなどないのだ。
当面の生活をするための準備はある。けれど、それを雇われていただけの護衛の男に、これからは無償で側にいろなどと言えるはずがない。彼の仕事は、彼女をあの事態から救い出したところで終わっている。
これ以上を求めるわけにはいかない。優しさに甘えるわけにはいかない。
仮にも商家の娘である。人を雇うと言う事がどういう事なのかはたたき込まれた。雇うと言う事は、雇用する者から、彼らに報いる物があってこそなのだ。
ファンティーヌには、何もない。
仮にも都市をまとめていた男の娘である。父親は娘に人を使う立場という物がどういうものかをたたき込んだ。己の立場を見誤り、傲ることをよしとしなかったためだ。
人より上の立場にある者こそ、己を支える下の者を慮れ。
彼女の父はそう言った。人を使うということは人の心を知ることだと。ファンティーヌは権力という力を自覚することなく使える立場にあった。それを知れと父は言った。権力をかざしたつもりがなくとも、何気ない一言の裏に圧力を感じる者がいるのだと。見えぬ力で相手を従わせることが容易にできてしまうのだと。だからこそ、人と対するときには、相手の立場を慮れ。決して忘れるなと。
ファンティーヌは、無意識に考えてしまったのだ。ギスランの立場という物を。
先ほどから「大丈夫」とギスランが囁くのはなぜか。それは偏に全てを亡くした少女に対する思いやりからくる物なのだろう。しかし、それを受け取ったとして、ファンティーヌには、それに報いるだけの物がない。
ファンティーヌがどれだけギスランを慕おうとも、ギスランにとって、ファンティーヌはただの護衛対象でしかなかった。ファンティーヌは彼本人からそれを何度も思い知らされてきた。彼に頼るのは、ただ働きをさせると言う事だ。彼にファンティーヌを守る義理などない。
望んだ物がそこにあるのに、差し出されているというのに、ファンティーヌにたたき込まれた相手の事情を考えてしまう性で、それを受け取ってはならぬと判断する。今の自分の存在は、ギスランにとって重荷でしかないことが明らかだった。
屋敷から逃れたあの瞬間から、ファンティーヌは罪人の娘となったのだ。
その重荷を、彼に課すわけにはいかない。
気遣うように見つめてくるギスランを見つめ返せば、微笑みを浮かべた彼にもう一度頬を、髪を、そっと撫でられる。
彼を想うからこそ、その優しさが苦しい。けれどその苦しさを覚悟に変えて、ファンティーヌは己に言い聞かせた。
嘆くのは今じゃない。起こった不幸を嘆くのは成すべき事を成してからだ。この優しい護衛だった男を、解放してからだ。
「ギスラン……」
「うん?」
優しく促すようなその返事は、今までの彼とは違う。折り目正しい護衛の返事ではない。彼は正しく、自分がファンティーヌの護衛でなくなったことを自覚しているのだろう。なのにこうしてここにいてくれる。
この近さが嬉しい反面、胸を突き刺すほどに痛かった。
「ありがとうございます。でも、もう、良いのです」
「……いい?」
ファンティーヌの言葉に、男が眉をひそめた。
「はい」
「いいとは、どういう意味だ?」
少し険しくなった表情と声に、彼女は少し身を硬くした。
「最後のお務め、ご苦労でした。長い間ギスランには手間をかけさせましたが、あなたの仕事はここで終わりです。これ以上私に構う必要はありません」
視線を逸らし、何とか言いきった彼女は、これで、自分が彼に出来ることはしたのだと、そっと息を吐く。何よりも手放したくない者を、彼のために、縋ることなく手放せた自分に安堵した。