3
ギスランは、ファンティーヌの後ろに付き従いながら、わずかに口端を歪めていた。
彼の目に映るのは、背筋を伸ばし美しく歩みを進める、主の後ろ姿。けれど脳裏に浮かぶのは切なげに微笑んで背を向けたファンティーヌの顔だった。
傷つけばいい。苦しめばいい。
彼はまるで呪うかのように、その可憐な後ろ姿に想いを込める。
俺に期待をさせるな、と。手をさしのべる事さえ許されぬと言うのに、何故惑わせるのだと。
ファンティーヌ。
そう名を呼んで抱きしめる事が出来るならどれだけ楽か、と護衛の男は考える。
もしくは彼女が思うように、彼女を懐いてくる子供と思えたのなら。想う対象にすらなっていなければ、これほど苦しい想いにとらわれずにすんだのだ。そうすれば彼女を傷つけたいなどという暗い感情にとらわれずにすんでいた。
身分の差という物は思いのほか大きな壁なのだと、彼女を望んで初めて思い知った。
『私のような女性は好みではないのでしょう』彼女はそう言った。
その通りだ。こんな金持ちの苦労も知らない甘ったれた深窓の姫君など、好ましく思った事など一度たりともない。優しいだけ、かわいらしいだけでは何の役にも立たない。ましてや七つも年下の、ファンティーヌのような子供など……。
だから、返した答えに嘘はない。
なのに、ダメなのだ。ファンティーヌが欲しい。
ファンティーヌの「ような」女性には興味はない。だが、ファンティーヌ自身に興味がないとは同意ではないのだ。詭弁だろうが関係ない。ファンティーヌにそれを悟られない事が大切なのだ。
護衛の男は自嘲する。
彼女が愛おしくてたまらなかった。本来なら話す事さえも出来ないような立場の彼女の傍にいて、彼女がすぐ側で笑って、好意さえも向けてくれる幸運に目眩がするほどの幸せを感じる。
このまま抱きしめたいと込み上げた欲求を、こらえたのは一度や二度ではない。
溢れそうな激情のまま、連れ去ってしまおうかなどと考えたこともある。
けれどそれを実行に移そうと思ったことはなかった。
無知な彼女を一時の激情でさらうのはたやすいだろう。けれど、人生という物は続く物なのだ。この街では貴族よりも力を持ち、貴族同様「姫」と呼ばれて育った、豪商の令嬢。その絶対的な力を持つ家柄の庇護下で、絹のシーツにくるまれて育った彼女をさらって、どうやって幸せに出来る。
男はその疑問への答えを持ち合わせていなかった。
攫えば主も許しはすまい、恐らく執拗な追っ手がかかるだろう。
それでも消せぬ想いに、男は一時の幸せのために己の命を投げ出す事も考えた事があった。
しばらくの間でいい、彼女が耐えられる間だけでもさらい、二人だけの夢をひととき見てみたいと。彼女が耐えられなくなったら帰せばいい。後は男が罪を負って主に殺されれば全てが終わらせられる。彼女を失った苦しみを味わわずにすむ、と。
けれどその後、彼女は家に戻っても傷物扱いされ、貴婦人としてのまともな生活は望めなくなるだろう。
考えるほどに、男は悟るしかなかった。
自分にはこの高貴な姫を幸せになど出来ない。出来るはずがないのだと。
故に願った。このままでいい、このまま護衛として満足していたいと。
なのに、彼女は誘うように笑う。
「ギスラン」
そう名を呼んで、笑いかけて来て手をさしのべてくる。
期待をさせるなと、男は怒りに似た感情すら覚えた。
彼女は知らない。男がその手を取るわけにはいかないのだと言う事を。
彼女は分かっていない。
その手をギスランが取るというその意味を。
ギスランが苦しさを振り切って彼女の気持ちを躱す度に、彼女は切なげに表情を曇らす。
彼女は分かっていない。
ギスランはぎりっと握りしめた拳に力を入れる。
身分の違いがこれほどまでになければこんな風に躱したりはしない。彼女が生きていく苦しさを少しでも知ってさえいれば、その覚悟さえもてる存在ならば無理にでも攫っていく。けれど、彼女は想像の中でしか苦労を知らず、そして確かにそこに身分の差は存在していた。
自分は彼女を護衛する立場でしかないのだ。どんなに近くにいたとしても。
彼は目の前にいるファンティーヌの後ろ姿を見て、あざけるように口元を歪めて笑った。
もし自分が『お慕いしております』とでも言ったとして、彼女はどうするつもりなのだと。
想像するだけで、滑稽すぎて笑える。
彼女は、分かっていない。
思いが通じる事になど、意味はないのに。なぜなら、二人の未来はあり得ないから。先のない行方に身を投じたところで、その先に幸福はない。一時的な幸福を掴んだとしても、その先には代償として長く苦しい余生が続くのだ。
彼女は、生きる苦痛を知らない。物に恵まれ、人に恵まれ、満ち足りた中での生活しか知らない。貧しく惨めに朽ちてゆく人生も知らなければ、好奇と悪意に晒される人生も知らない。ただ生きる、それだけがどれだけの労力を必要とするのかを知らない。
彼女の心根はどこまでもまっすぐで、それを逆手に取れば、恐らく、この先の苦痛さえも顧みずギスランを選ばせることも出来るだろう。世間を知らない彼女は恐れも知らない。ほのかに自分に向けられる恋心をつついてたぶらかす事などギスランにはあまりに容易く思えた。
しかしその先の彼女にあるのは明日食べるものにも困る生活、愛や恋だのとうつつを抜かせる時間などなく、一所に留まれない不安定な生活、人に蔑まれながら顔も上げられないような人生なのだ。
ギスランが彼女の手を取るという事は、そんな人生を負わせるという事だ。彼女が想像する以上に苦しい物となるだろう。
ギスランには彼女の考えの甘さが分かる。身分の違う者と想いを通わせるという事は、決して甘いものではないというのに、彼女はそれを分かっていない。
ギスランが彼女をさらう事など出来るはずがないのだ。
無邪気なまでの彼女の向けてくる想いに、ギスランはこらえるように奥歯を噛み締めた。
苦々しい感情が蔓延する。それは、怒りにも似ていた。
この苦しみを、彼女も味わえばいい。
躱すことで、彼女が傷つき苦しむ姿を見るのは、ギスランにとって甘い蜜のようであった。