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ギスランがファンティーヌの屋敷に雇われたのは三年前になる。当時ファンティーヌは十四才。十四にもなれば、早い娘は結婚している年なのだが、年の割に幼く見える彼女は、見た目通りにまだまだ子供だった。
その頃、ファンティーヌの護衛として雇われたギスランに、ファンティーヌは恋をした。当時二十一才の彼は、手の届かないあこがれをちりばめたような大人の男性に見えた。
護衛といってもあまり厳つい風体はしておらず、どちらかというと細身で、それに似合った涼しげな面立ちをしていた。切れ長で冷たそうに見える目元も鼻梁のすっきりと通った所も、幼さの抜けきらないファンティーヌがドキドキするほどに好ましい物だった。あまり見かけないほどに黒々とした髪は、どこか彼女とは違う世界を見ている人という雰囲気を纏い、明るい表の世界しか知らない少女には心惹かれる物に見えた。
そのくせして動きはとてもすっきりと流れるようで、荒くれ者の持つような雰囲気はない。言葉も少なく無愛想ではあるが、ファンティーヌがまとわりついても邪険にするようなこともなかった。時折浮かべる笑みは意外に優しげで、そして常に礼儀正しく、それがファンティーヌに警戒心を抱かせなかったのだろう。けれど、彼は間違いなく彼女の知らない世界を生きている男に見えたのだ。
彼女の目から見た新しい護衛は、世間を知らない箱入りの少女が憧れるには、うってつけの男とも言えた。
ファンティーヌはギスランをすぐに気に入り、どこへ行くにも彼を連れ回した。護衛の必要がないような場所でも気にすることなく。
出会いより三年。
護衛として常にそばにいたものの、女としてみられていないのがファンティーヌは切なく、必死になって背伸びして彼に釣り合うようになりたいと願ってきた。
けれど、どれだけ努力をしても彼には釣り合わないと思い知らされるばかりだった。
出会った頃はファンティーヌも子供だった。そしてギスランは大人だった。実際の年齢差以上に、二人の間の精神的な年齢差は大きかった。
はじめの頃は恋心と言うよりは、あこがれが強かった。
けれど年を重ねるごとに、男に釣り合おうと努力するほどに、想いもまた募っていった。
それでも七歳年上の男から見ると、今も自分は子供なのだろうと思う。三年の年月も、その間に重ねた努力も彼に届くことはなく、ギスランの態度は出会ったあの日から変わることはない。
彼女の心だけが、変わってしまった。憧れるような淡い気持ちではなく、ひたすらに男を想う。彼に焦がれ求め続けている。けれど想う瞳も、言葉に潜ませた想いも、彼には届かない。
ファンティーヌはその事を苦く自覚する。世慣れた男が、自分の事など女性として相手にするはずもないのに。
それでも、いつも当たり前のように側にいて、いつも自分を気遣い、何よりも自分を大切にしてくれるギスランに、つい自分が特別なのではないかと錯覚を覚えてしまう。
もしかしたらという期待はどうしようもなく止められなくなっていた。
けれどその想いとは裏腹に、ファンティーヌはそろそろ本腰入れて結婚を視野に入れなければいけない年頃にさしかかってきた。そしてある日から突然に領主であるファンティーヌの父がいろいろと縁談を進めてくるようになった。
その時は理由を知らずにいた。
だからただそれに辟易して、彼女は溜息をついた物だ。
たとえ恋の終わりが近づいていたにせよ、彼女には反発できるだけの猶予があった。
その時はまだ、国からの圧力はあった物の、ファンティーヌが不安を覚えるほどに、切迫した状態ではなかったのだと、後で知った。
「まだ、そんな事は考えられないのに」
ギスランの反応がどのような物か期待を持ちつつファンティーヌはその時ぼやいたのだ。
ちらりと見上げた先で、護衛の男は、礼儀正しく微笑みを浮かべた。
「お父上は、ファンティーヌ様を安心できる方の元に嫁がせたいのですよ。探し始めるのには決して遅くはありません」
「でも、そんな良縁なら、爵位もない成り上がりの領主の娘なんて……」
「何をおっしゃいます。旦那様は公爵家からの覚えもめでたい、豪族でいらっしゃいます。ここは王都からは離れているとはいえ、国内随一の商業都市。そこをまとめていらっしゃる旦那様のお力は国内において決して小さい物ではございません。ましてや、ファンティーヌ様のようにお可愛らしい方なら、家の魅力よりもファンティーヌ様ご自身の魅力で良縁をいただけるはずです」
落ち着いた様子でギスランが言った。
「お可愛らしい」と当たり前のように口にされたその言葉に、ファンティーヌはドキリとした。
笑みを浮かべたまま、すっと視線を向けられれば本心のように見えてしまう。
「で、でも、あなたは、私のような女性は好みではないでしょう?」
ファンティーヌは、何でもないようなふりをしてつんとすまして言って、男の反応を密かに窺う。
後ろで、くすりとギスランが笑ったのを感じた。
「どういう意味ですか?」
ファンティーヌの思惑など簡単に見抜かれているような気分になった。からかわれているのかもしれないと思うと恥ずかしくなる。けれどここまで言ったのなら、もう一押しだ。早鐘を打つ胸をおさえながら、その一言を絞り出す。
「その、女性として、です」
護衛の男が微笑ましい物でも見るように見つめてくる。
「そうですね、姫のような雰囲気では、女性としては少し幼いのかもしれませんね。ですが、そう感じるのは私の話。姫のように愛らしく若い女性を好む男性は多いですよ」
男の言葉に、ファンティーヌの胸はぎりぎりと軋むように痛む。けれどそれを表に出してはいけない。彼の言葉に傷ついたなどと見せるわけにはいかない。必死に口角をあげて、笑顔の形を作る。
「……だと、良いんですけど」
無理矢理に作った笑顔を貼り付けて、ようやくその一言がでた。それ以上、ギスランの顔を見ていることが出来なかった。
何でもないようなふりをしてファンティーヌは顔をそらす。
分かっていたことだ。
そう、分かっていた事だったのに。
思い知るぐらいなら、聞かなければ良かったのだ。淡い期待なんか抱かなければ良かった。
「ファンティーヌ様?」
その声に、はっと我に返る。
愛しい男が、何ごともなかったように、涼しい顔で彼女を見ていた。
彼にとっては、その程度の言葉でしかない事実を思い知る。
「……何でもありません」
ファンティーヌはぎこちなく笑顔を作り、彼にほほえみかけた。
そう、何でもないことだ。
ファンティーヌはたった今の会話を思い返しながら、そう自分に言い聞かせる。
痛む胸をおさえながら、微笑みを貼り付けて。
ギスランにとって、自分はただの護衛の対象でしかないのだと。ただ、分かっていたことを確認しただけなのだから。
「……行きましょう」
唇をきゅっと引き締め、まっすぐに前を向く。目の端で、ギスランが小さく礼を取り静かに自分に付き従うのが見えた。
想いだけがつのる。けれど、想うほどに、男との距離を思い知ることになる。すぐ側にいるのに、いつも側にいるのに、彼との間には深い亀裂があることを感じる。まるで拒絶されるように、そこを飛び越えるのを拒まれるように。近くにいるのに、触れることを許さない。
それは大きく、そして深い亀裂だった。
側にいたい。側にいられるだけで十分だと、そう思っていたのに。想うほどに側に彼がいてくれるだけでは満足できなくなってゆく。彼に愛されたい、触れ合いたい。心がそう求める。
護衛という名のもと、彼女を守る大きな手、彼女を包み込めるほどに大きな胸板、それらは、護衛として彼女を包み込むことはあっても、そこに想いを乗せて触れてくることはない。
自分の歩くすぐ後ろに付き従うギスランの存在を強烈なほど意識しながら、ファンティーヌは彼と同じような涼しい表情でもって自分の心に仮面をつけた。