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かちり、という音だけが残った

作者: 静原

この物語には、派手な成功も、劇的な逆転も出てきません。


描かれているのは、声を荒げない人の決断と、止めないための判断です。


仕事の場で、家庭で、あるいは自分自身の心の中で。


「決めなければならない瞬間」に立たされたことのある人なら、

この物語のどこかに、きっと見覚えのある時間があるはずです。


誰かを強く引っ張れない。

大きな声で場を支配できない。


それでも、時間を整えながら前に進もうとする人がいる。


これは、時計をつくる会社で働く一人の女性の話であり、

同時に、「怒鳴らずに決める」という、少し難しい選択の物語です。


かちり、と鳴る音に耳を澄ませながら、

どうぞ、ゆっくりと読み進めてください。

会議室の壁に掛かった時計が、かちり、と音を立てた。

その音だけが、やけに大きく聞こえる。


高瀬は四十代半ばになる。

大阪の時計製造・販売会社で、

社長の次、いわゆる「ナンバー2」の立場にいた。


人前で話す機会は、この数年で目に見えて増えた。


「では、来期の方針についてですが……」


口を開いた瞬間、彼女自身が気づく。

声が低く、そして少し頼りない。

十数人の視線が一斉に集まり、

高瀬は無意識に自分の腕時計へと目を落とした。


——時間を見る癖は、直らない。


誰かを叱りたいわけでも、鼓舞したいわけでもない。

ただ方向だけは共有したい。

そう思って言葉を選ぶほど、文は途中でほどけていく。


会議が終わったあと、若手の一人が遠慮がちに言った。


「言ってることは分かるんですけど……結局、何を優先したらいいのかが、ちょっと……」


責める調子ではなかった。

だからこそ、その言葉は彼女の胸に、静かに沈んだ。


高瀬は東北の小さな町で育った。

家は厳しく、父は声が大きかった。

怒鳴ることで場を支配し、家族の空気を決める人だった。


「早くしろ」

「なんで分からない」


その声が響くたび、家の時間は歪んだ。

母は黙り、妹は縮こまり、高瀬はいつも時計を見ていた。


——この時間が、早く終わればいい。


だからだろうか。

高瀬は、人を急かすことが苦手だった。

声を張り上げて前に立つことに、身体が先に拒否反応を示す。


「実家を出たい」


理由はそれだけだった。

学校を卒業して、大阪に出た。あてはない。

関西弁の速さも、人との距離の近さも、最初はすべてが騒がしかった。


仕事を探して駅前を歩いていたとき、ショーウィンドウに並ぶ時計が目に留まった。

——時間は、どこに行っても同じ顔をしている。

そんな、どうでもいい考えに背中を押されて、高瀬は店のドアを開けた。


「アルバイト募集」の張り紙。


それが、この会社との始まりだった。


時計屋の仕事は地味だった。

ネジは小さく、作業は細かく、失敗は許されない。

だが、高瀬はこの仕事を嫌いにならなかった。


時間は嘘をつかない。

正しく組めば、必ず動く。


正社員になり、後輩ができ、気づけば社長の隣に座るようになっていた。


「君は堅実やな」


社長はよくそう言った。

褒め言葉なのは分かっている。


ただ、その言葉にはいつも、次の一歩を委ねる含みがあった。


最近は、さらに踏み込んだことを言われる。

「わしも歳やしな。そろそろ、考えといてほしいんや」


——次期社長。


強い拒否感があるわけではない。

逃げたいとも思わない。

ただ、胸の奥に、薄い不安が張り付く。


こんな自分が、本当にその席に座れるのか。

リーダーシップも、カリスマもない自分が。

なれるものなら、なってみたい。

だが、なってしまってから壊すものの多さを思うと、簡単には頷けなかった。


夜。

仕事帰りに立ち寄る、行きつけの小さな立ち飲み屋。

高瀬はビールよりも、焼酎を好む。


一杯目で、肩の力が抜ける。

二杯目で、今日の仕事が少し遠ざかる。


結婚の話を振られることは、もうほとんどない。

四十を過ぎた頃、彼女自身が決めた。

一人で生きていく。


それで困らないように、働く。

それでいい、と。


誰かに寄りかからない代わりに、

仕事の重さは、すべて自分の足で受け止める。


それが、今の自分だ。


ある夜、閉店後の工房で、高瀬は古い腕時計を手に取っていた。

針は止まっている。


原因は分かっている。

ゼンマイが、少しだけ緩んでいるのだ。


力任せに巻けば、動くだろう。

だが、それでは長くもたない。


——人も、同じだ。


引っ張れない自分を、ずっと欠点だと思ってきた。

だが、引っ張らない代わりに、整えることはできるのではないか。


翌朝の朝礼で、高瀬は言葉を削った。

「今日は、目標を一つだけ共有します」

「今月は、“修理の返却日を守る”ことだけに集中してください。売上の責任は、私が持ちます」


逃げ場を、自分で塞いだ感覚があった。

だが、誰も困った顔をしなかった。


数週間後、工房は静かに回り始めていた。

「最近、仕事しやすいです」

若手のその一言を聞いたとき、高瀬は腕時計を見た。


——あの、止まっていた時計。


あれは、強く引かれたからではなく、正しく調整されたから動いたのだ。


その夜、社長がぽつりと言った。

「君はな、前に立つタイプやない。せやけど、時間を整えるのは、誰よりもうまい」


高瀬は、小さく笑った。


引っ張らなくてもいい。

同じ時刻を、皆が見られればいい。


帰り道、

夜の大阪の街で、高瀬はふと考えた。


次の席に座る自分を。

不安は、まだある。

だが、拒む理由も、もうなかった。


——もう少し、調整してみよう。


かちり、と腕時計が鳴った。


最初の会議室で聞いた音と、同じだった。

だが今度は、その音が、確かに前を指していた。



それから、ほどなくしてだった。


昼下がりの事務所に、一本の電話が鳴った。

受話器を取った総務の女性の声が、途中で震えた。


「……社長が、事故に遭われたそうです。命に別状はないと……ただ、しばらく入院が必要で……」


空気が、一瞬で止まった。

時計の秒針の音だけが、やけに鮮明になる。


社長代理を務めることになったのは、

その日のうちだった。


「高瀬さんしかおらへん」


誰かがそう言ったが、

背中を押す力よりも、

責任の重さのほうが先にのしかかった。


——自分に、務まるのだろうか。


社長代理として初めて立つ朝礼。

社員たちの顔は、期待よりも、不安を映していた。


それは、そのまま高瀬自身の顔だったのかもしれない。


決断しなければならない。

判断を、先延ばしにはできない。

これまで「整える側」にいた自分が、前に立たされている。


その日、取引先からの一本の電話だった。


老舗百貨店向けの製品が、予定通り仕上がらない。

納期を守るか、精度を優先するか。


電話口で、先方の担当は言った。


「週末のフェアに間に合わないと、困るんです」


高瀬は即答できなかった。


品質を落とせば、長年築いた信用を壊す。

だが、延期を告げても、信用を壊す。


——自分の一言で、誰かの時間が止まる。


その恐れが、舌を重くした。


結局、返答は曖昧になり、判断は遅れた。

結果、修理はやり直しになり、工房は一晩中動くことになった。

その夜、高瀬は工房で一人、うなだれていた。


一人で決める、というのは、

誰にも寄りかからないということじゃない。

誰の背中も借りずに踏み出す、

ということだった。


翌朝、

工具の音が一定のリズムで響いていた。


ベテラン職人の森下が、無言で作業を続けている。


彼は口数が少ないが、ネジを締める音が、いつも正確だった。


「昨日は……すみませんでした」


そう声をかけると、

森下は手を止めずに言った。


「社長代理、全部決めんでええですよ。時間だけ、止めんといてくれたら、それでええ」


若手の佐藤も言った。

「今、何を一番守るかは、ちゃんと伝わってます」


胸の奥が、静かにほどけた。



入院中の社長を見舞った日。

病室の白い壁に掛かった時計は、少し進んでいた。


「すまんな、任せてしもて」


そう言った社長に、高瀬は思い切って聞いた。


「どうして……私だったんですか」


社長は、少し笑った。


「君はな、前に出て目立たん。

 でも、場の時間を止めへん人や。

 皆が動ける余白を、ちゃんと残す。

 それができる人は、案外おらん」


その瞬間、高瀬は気づいた。

社長は、引っ張る背中だけを、見ていたのではなかったのだ。


会社に戻ると、

社員たちが、それぞれの持ち場で動いていた。


完璧ではない。

それでも、誰も止まっていない。


工房の奥で、若手が古い時計を直している。

針は、少しずつだが、確かに進んでいた。


——この会社が、好きだ。


人の声も、間も、迷いも含めて。

時間を整えながら、進んでいく、この場所が。



数か月後。

社長は職場に復帰した。


「代理、ご苦労さん」


そう言われたとき、高瀬は、以前のように身構えなかった。


自分は、まだ足りない。

判断も、覚悟も、社長には及ばない。


それでも

——少しだけ、近づけた気がした。


表向きは、以前と同じ日常だった。

会議があり、修理があり、電話が鳴る。


高瀬は再び「ナンバー2」の席に戻り、決裁書に目を通す側に立っていた。


だが、一つだけ、違うことがあった。

判断を前にしたとき、胸の奥が凍りつくような感覚が、以前ほど強くなかった。


ある日、工房で不具合が見つかった。


海外向けに出荷予定の限定モデル。

このまま出せば、致命的ではないが、後々狂いが出る。


社長は不在。

時間は、待ってくれない。


高瀬は、工房の奥に立つ森下を見た。

彼はいつも通り、無言で作業をしている。

カチ、カチ、と工具の音だけが、一定の間隔で響く。


「……止めます」


高瀬は、そう言った。


声は低かったが、揺れていなかった。


「今日の出荷は止めます。理由は、私が説明します」


一瞬、空気が張りつめる。


だが、森下は顔を上げず、ただ一度だけ、小さく頷いた。

その動きは、確認でも、許可でもなかった。

——分かっている、という合図だった。


その瞬間、高瀬の胸に、奇妙な静けさが広がった。

誰かに背中を押されたわけではない。

けれど、独りではなかった。


その夜、高瀬は久しぶりに、実家のことを思い出していた。


父の声。怒鳴り声。

「早くしろ」

「なんで分からない」


あの頃、決断はいつも、上から落ちてきた。

時間は歪み、逃げ場はなかった。


——だから、自分は決めることが怖かったのだ。


間違えたら、誰かを傷つける。

声を荒げたくない。

時間を、壊したくない。


けれど今日、自分は怒鳴らなかった。

急かさなかった。

ただ、止めると決めた。

それでも、時間は止まらなかった。


森下の手は動き続け、若手は黙って準備を始めた。


——決断とは、押しつけることではない。

——時間を、正しい位置に戻すことなのだ。


高瀬は、そう理解した。


数日後。

社長は、結果報告を聞いて、短く言った。


「ええ判断やったな」


それだけだった。

だが、その一言で十分だった。


会議室を出るとき、壁に掛かった時計が目に入った。

かちり、と音を立てる。


あの音は、もう父の声ではなかった。


責める音でも、追い立てる音でもない。


——進んでいい、と告げる音だった。


高瀬は思う。

私はまだまだだ。

迷うし、怖がるし、完璧にはなれない。

それでも。

怒鳴らずに決めることは、できる。

誰かの時間を歪めずに、前へ進むことは、できる。


森下の作業音が、遠くで規則正しく響いている。

その音に支えられながら、高瀬は歩き出した。


針は、今日も進んでいる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


高瀬という人物は、強くなることで成長したわけではありません。


彼女が手に入れたのは、迷わなくなった心でも、

恐れを感じなくなった勇気でもありません。


それでも彼女は、決めました。

怒鳴らずに。

急かさずに。

誰かの時間を歪めない形で。


この物語で描きたかったのは、

「一人で決める」ということの、本当の重さです。


それは孤立ではなく、

誰かの存在を感じたまま、責任だけを引き受けることなのかもしれません。


森下との無言の信頼、

父の記憶との和解、

社長の背中から受け取った静かな想い。


それらはすべて、

高瀬が“社長になる準備”ではなく、

“決断する人になる準備”をしていた証でもあります。


針は、今日も進み続けます。

完璧でなくても、迷いながらでも。


もしこの物語が、

あなたが何かを決めなければならない瞬間に、

ほんの少しでも寄り添うことができたなら、

それ以上に嬉しいことはありません。


また、同じ時刻を見られる場所で。

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