行くところなんか、なかった
大学時代から現在までの僕のポップな私小説です。
第Ⅰ部|東京に行けば、何かが変わると思っていた
東大合格
東京の広さ
サークルに入らない日々
夜中の読書
本屋とCD屋
第Ⅱ部|会社員になれなかった
就活の違和感
内定
1ヶ月退職
第Ⅲ部| 東京に戻った
原稿を書く日々
挫折
第Ⅳ部|地元の銀行に就職
地元
親の視線
日常の反復
読書だけが救い
鬱
第Ⅴ部|何もしない時間
引きこもり
図書館
犬
両親
津市
第Ⅵ部|哲学と猫とZINE
哲学
ソクラテス
ハマグリ
スーパー銭湯
AI
ZINE
第Ⅰ部 東京に行けば、何かが変わると思っていた。
東大に合格した。
合格発表を見たときのことは、あまり覚えていない。ただ、周りが少しざわついた。
親戚から電話がかかってきて、普段は連絡を寄こさない人まで、声をかけてきた。
「すごいな」
「やったじゃないか」
そう言われるたびに、どう返せばいいのかわからなかった。自分でも、少し浮かれていたのだと思う。少なくとも、否定はしなかった。
東京に行けば、何かが変わると思っていた。
何が変わるのかは、はっきりしていなかった。
ただ、今とは違う何かが始まる気がしていた。
可能性という言葉だけが、頭の中で大きくなっていた。
上京の日、親と一緒に電車に乗った。
車窓の景色を見ながら、特別な感情はなかった。
これからの人生が動き出す、という実感もなかった。
東京は、思っていたよりも大きかった。駅を出ると、人が多すぎて、どこを見ればいいのかわからなかった。
建物も、道も、音も、全部が過剰だった。誰も僕のことを見ていなかった。
しばらくして、それが普通なのだと分かった。ここでは、誰もが誰かにとっての他人だった。
大学が始まった。
周りには、同じように東大に入った人間が大勢いた。自分が特別な存在ではなくなったことは、すぐに理解できた。
誰も驚いていなかったし、誰も気にしていなかった。
サークルの勧誘があった。ビラを渡され、声をかけられた。どれも、楽しそうに見えた。結局、どこにも入らなかった。
理由はなかった。入らない理由を考えることも、入る理由を探すことも、しなかった。気づくと、授業と自分の部屋を往復するだけの生活になっていた。
授業は、あまり面白くなかった。内容が難しかったわけではない。ただ、心がどこにも引っかからなかった。ノートは取っていたが、頭には残らなかった。
一度だけ、合コンに誘われた。渋谷の居酒屋だった。
薄暗くて、うるさかった。テーブルの上には、料理が並んでいた。一言も喋らなかった。
何を話せばいいのか、最後までわからなかった。周りの会話は聞こえていたが、自分が入る場所がなかった。笑うタイミングも、よくわからなかった。
終わったあと、何も残らなかった。
失敗した、という感覚もなかった。
ただ、そういう場には向いていないのだと分かった。
結局、やっていることは以前と変わらなかった。
本を読み、音楽を聴いていた。
時間だけは、いくらでもあった。
昼夜が逆転した。夜になると、頭が冴えた。
昼は、寝ていることが多かった。
大学には、だんだん行かなくなった。
夜中に、一日で本を読むことがあった。
部屋の明かりをつけたまま、ページをめくり続けた。
外は静かだった。
読み終えたあと、何も起きなかった。
達成感もなかった。
ただ、朝になっていた。
「こんなはずじゃなかった」と思った。
でも、その言葉を誰かに言うことはなかった。自分の中で、何度も繰り返しただけだった。
周りは、大学生活を楽しんでいるように見えた。キャンパスで笑っている人たちを見て、自分が間違っているのかもしれないと思った。
でも、何をどうすればいいのかは、わからなかった。
東京にいるのに、特に楽しいことはなかった。
本屋とCDショップだけは、充実していた。
そこに行くと、時間が早く過ぎた。
棚を見ているだけで、落ち着いた。
まだ若かったので、何者かになれると信じていた。
具体的な像はなかった。
ただ、このままでは終わらない、という感覚だけがあった。
下手な小説のようなメモを書いていた。
ノートに、思いついた言葉を並べていた。
読み返すことは、ほとんどなかった。
本を読む合間に、音楽を聴いた。
決まって、同じ曲を何度も繰り返した。
小沢健二の「天使たちのシーン」だった。
夜中に、何度も再生した。
歌詞を追うというより、音の流れを聞いていた。
曲が終わると、また最初から流した。
その時間だけ、気持ちが落ち着いた。
何かが解決するわけではなかった。
ただ、呼吸がしやすくなった。
〈生きる事をあきらめてしまわぬように〉
そのフレーズを聞くたびに、
自分のことを言われているような気がした。
理由は、よくわからなかった。
生きたいと思っていたわけでも、
死にたいと思っていたわけでもなかった。
ただ、生きることを、
完全には手放したくなかった。
曲が終わると、部屋はまた静かになった。窓の外は暗く、
朝はまだ遠かった。
本を読み終えたあと、何も起きなかった。
達成感もなかった。ただ、朝になっていた。
「こんなはずじゃなかった」と思った。
でも、その言葉を誰かに言うことはなかった。
自分の中で、何度も繰り返しただけだった。
大学の帰りに、本屋とCDショップに何となく立ち寄った。
目的はなかった。気づくと、棚の前に立っていた。
本屋は広かった。
平積みの本を眺め、背表紙を追った。
知らない名前ばかりだったが、それが嫌ではなかった。
ページを開いて、数行読む。
合わないと思えば、元に戻す。それを何度も繰り返した。
誰とも話さなかった。
店員の視線も、ほとんど気にならなかった。
ここでは、何者である必要がなかった。
CDショップにもよく行った。
視聴機の前に立ち、ヘッドホンをつけた。
一曲だけ聴いて、また別の棚に移動した。
ジャケットを眺めている時間が長かった。
音を聴く前に、すでに満足していることもあった。
買う理由は、はっきりしていなかった。
気づくと、何枚か手に持ってレジに並んでいた。
お金は、あまり気にしていなかった。
まだ学生で、時間も余裕もあるつもりだった。
部屋に帰ると、買ったばかりのCDをかけた。
最初から最後まで、通して聴くことは少なかった。
途中で止めて、本を開くこともあった。
それでも、その時間は落ち着いていた。
大学に行かない日も、本屋には行った。
理由を聞かれない場所が、ほしかったのだと思う。
外は明るかったが、店内は静かだった。
空調の音と、ページをめくる音だけがあった。
時間の感覚が、少しずつ薄れていった。
同じ店に、何度も通った。店員に顔を覚えられていたかどうかは、わからない。
覚えられていない方が、よかった。
本屋とCDショップを出ると、また東京だった。人が多く、音が多く、行き先が多すぎた。
でも、さっきまでいた場所のことを思い出すと、少しだけ、安心できた。
そこに戻れる場所がある。
それだけで、十分な気がした。
三年生になる頃、周りが少しずつ動き始めた。
授業の合間に、就職活動の話が出るようになった。
説明会だとか、エントリーだとか、知らない言葉が増えた。
誰もが当然のように、その話題を共有していた。
僕は、話に入らなかった。
入れなかったのか入らなかったのかは、よく覚えていない。
就職活動という言葉を聞くと、体が少し固くなった。
理由ははっきりしなかった。
ただ、近づきたくない感じがあった。
怖かった、のだと思う。
でも、何が怖いのかは説明できなかった。
落ちるのが怖いのか、
働くのが怖いのか、
決められるのが怖いのか。
どれも違う気がした。
まだ時間はあると思っていた。
四年生になるまで、何かが起きるかもしれない。
自分だけの道が、どこかに用意されている気もしていた。
根拠はなかった。
大学には、相変わらずあまり行っていなかった。
行く日もあったが、行かない日も多かった。
どちらの日も、特別な違いはなかった。
昼間に目が覚めると、
今日も一日が始まってしまった、と思った。
本屋には、変わらず通っていた。
CDショップにも、変わらず行った。
そこに行けば、何かを決めなくてよかった。
棚の前に立っている間は、
「この先どうするか」を考えなくて済んだ。
家に帰ると、ノートを開いた。
文章のようなものを書いたり、何も書かずに閉じたりした。
書いているうちに、これが小説なのか、メモなのか、
自分でもわからなくなった。
何者かになりたい、という気持ちは、まだあった。
でも、どうすればいいのかは、相変わらず見えなかった。
焦っていないふりは、できていた。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
ただ、夜になると、
理由のない不安が出てきた。
眠れないほどではなかった。
でも、気持ちよく眠れるわけでもなかった。
夜中に、天井を見ながら、
時間だけが進んでいく感じがあった。
大学を卒業する、という言葉が、
現実のものとして近づいてきていた。
その先に、何があるのかは、わからなかった。
何も決めていないことだけは、はっきりしていた。
それでも、まだ終わったとは思っていなかった。
第Ⅱ部 会社員になれなかった
四年生になると、
就職活動という言葉が、急に現実味を帯びてきた。
それまでは、
どこか遠い話だと思っていた。
テレビの中や、
別の種類の人間の話のように感じていた。
四年生になった途端、
その言葉は、あちこちに転がっていた。
掲示板。
配られる資料。
友人同士の会話。
知らないうちに、
「もう始めてる?」と聞かれるようになった。
始めていなかった。
始めていない、ということを
どう説明すればいいのかも、わからなかった。
特別な理由があったわけではない。
やりたい仕事が決まっていたわけでもない。
強い信念があったわけでもなかった。
ただ、
そこに自分が入っていく感じが、
どうしても想像できなかった。
説明会に行けば、
何かが変わるかもしれない。
そう思って、何度か申し込んだ。
当日になると、
行かない理由を探していた。
体調が悪い気がした。
天気が悪かった。
時間が合わなかった。
結局、部屋にいた。
部屋で、本を読んだ。音楽を聴いた。
いつもと同じことをしていた。
それでも、
何もしないでいることに、
少しずつ居心地の悪さを感じ始めていた。
周りは、動いていた。
スーツを買った話。面接に行った話。
落ちた話。受かった話。
そのどれもが、
自分とは別の世界の出来事のようだった。
でも、完全に無関係ではいられなかった。
時間だけは、全員に同じように進んでいた。
嫌々、就職活動を始めた。
そうとしか言いようがなかった。
いくつかの会社を受けているうちに、
どこを受けて、どこに行ったのか、
少しずつ曖昧になってきた。
説明会。
面接。
待つ時間。
同じような建物に入り、
同じような質問に答え、
同じように頭を下げて帰った。
面接が終わると、
決まって、何もしたくなくなった。
家に帰り、靴を脱ぎ、
そのまま床に座った。
就職活動を始めて、すぐに嫌になった。
何が嫌なのかは、よくわからなかった。
説明会も、面接も、想定されている受け答えも、
全部が少しずつずれている感じがした。
ある日、スーツを脱いで、
部屋の隅に放り投げた。
きれいに畳む気にはなれなかった。
床に落ちたままのスーツを、しばらく見ていた。
そのまま、何も考えずに映画をかけた。
「イージーライダー」だった。
一度観て、また最初から再生した。
終わると、もう一度流した。
バイクで走る場面を、何度も、何度も観た。
僕も、就職なんかしないで、
自由でいたかった。
誰にも管理されず、どこにも属さず、
好きな場所へ行く。そういう生き方に、
一瞬、強く惹かれた。
でも、映画の終盤になると、
気持ちは少し変わった。
自由は、きれいなものとしては
描かれていなかった。
楽しさだけでなく、
無防備さや、危うさも、
はっきり映っていた。
ラストシーンを観るたびに、
胸の奥が、少しだけ冷えた。
自由は、
憧れだけで選べるものではない。
そう思った。
だからといって、
就職したいわけでもなかった。
ただ、自由でいる覚悟も、
まだ持てていなかった。
翌日、床に落ちていたスーツを拾った。
しわを伸ばして、ハンガーに掛けた。
それだけで、
何かを決めたような気になった。
仕方なく、就職活動を再開した。
結果を待つ時間は、
長くも短くも感じなかった。
ただ、時間が過ぎていった。
ある日、電話がかかってきた。
知らない番号だった。
出るかどうか、少し迷った。
でも、出た。
相手は、会社の名前を名乗った。
聞いたことのある名前だった。
有名な会社だった。
内定だと言われた。
一通りの説明を聞き、
返事をした。
声は、たぶん普通だった。
電話を切ったあと、
すぐには動けなかった。
部屋は、いつもと同じだった。
本があり、
CDがあり、
脱ぎっぱなしの服があった。
何も変わっていなかった。
嬉しいかと聞かれたら、
よくわからなかった。
嫌だとも、言い切れなかった。
これで一安心だ、
という気持ちもなかった。
ただ、
行き先が一つ、
決まってしまった。
断る理由も、
続けて探す理由も、
どちらも、うまく思いつかなかった。
しばらくして、
親に電話をした。
「決まった」と言うと、
向こうは安心した声を出した。
それ以上、
詳しい話はしなかった。
電話を切ったあと、
少しだけ、静かになった。
何かを選んだ感じはなかった。
選ばされた、という感覚もなかった。
ただ、次の段階に進むことだけが、
決まっていた。
それでいいのかどうかは、
まだ考えていなかった。
入社して、配属が決まった。
大阪だった。
毎朝、満員電車に乗った。
行きも帰りも、人に押し込まれた。
往復で、四時間近くかかった。
電車の中では、
自分の体がどこまでなのか、
よくわからなくなった。
息をするのも、少しずつ下手になった。
配属先は、工場の勤労部だった。
仕事内容の説明を受けたが、
頭にはあまり入ってこなかった。
上司は、
脅すような言い方をする人だった。
「これは仕事だから」
「社会人なんだから」
そういう言葉を、何度も聞かされた。
やっていることは、面白くなかった。
興味も持てなかった。
それよりも、
人と話し続けなければならないことが
一番きつかった。
質問をされ、答え、指示を受け、
また答える。それが、一日中続いた。
ここは、
自分が生きる場所ではない。
そう思った。
ここで一生、生きるのだとしたら、
それは地獄だと思った。
頭の中に、
本と音楽のことばかり浮かんだ。
あの部屋。
あの静けさ。
誰にも何も求められない時間。
そこに戻りたいと思った。
仕事の内容よりも、
時間よりも、未来のことを考えるのが、
つらかった。
何も考えずに、
ただ逃げたいと思った。
衝動的に、
自分を守るために、
ここから出ることばかり考えるようになった。
気づくと、一ヶ月が経っていた。
最初の日と、
最後の日の違いは、
あまりなかった。
毎朝、電車に乗り、
工場に行き、
人と話し、帰った。
少しずつ、
何も感じなくなっていった。
ある朝、体が動かなかった。
理由はなかった。
熱もなかった。
ただ、行けなかった。
その日、会社には連絡しなかった。
次の日も、行かなかった。
数日後、
退職の話をした。
詳しいやり取りは、
あまり覚えていない。
必要な書類を書き、判を押した。
それで終わった。
会社を出るとき、
特別な気持ちはなかった。
後悔も、
解放感も、
はっきりとはなかった。
ただ、
もう行かなくていい、
という事実だけが残った。
一ヶ月だった。
第Ⅲ部 東京に戻った
会社を辞めて、東京に戻った。
逃げた、という感覚はなかった。
戻った、という言葉の方が近かった。
部屋を借りた。
前に住んでいた場所とは、少し違う街だった。
それでも、東京だった。
荷物は少なかった。
本と、CDと、最低限の服だけだった。
部屋に入ると、
音が少なかった。
窓を開けると、
遠くの車の音が聞こえた。
大阪よりは、少し静かだった。
ここなら、
何とかなるかもしれない、
と思ったわけではない。
ただ、
ここでなら、
一人でいられる気がした。
仕事は決まっていなかった。
貯金も、多くはなかった。
それでも、焦る感じはなかった。
昼間は、近所を歩いた。
知らない道を、
特に目的もなく歩いた。
カフェや、本屋の場所だけを覚えた。
本屋に入ると、
少しだけ、息がしやすくなった。
棚の前に立つと、
何も説明しなくていい気がした。
家に戻ると、
机の前に座った。
何を書くかは、決めていなかった。
書く必要がある、
という感じだけはあった。
ノートを開き、
何行か書いて、
すぐに閉じた。
それを、何度も繰り返した。
夜になると、
音楽をかけた。
小さな音で、
部屋に流した。
外は、相変わらず東京だった。
人は多く、行き先も多かった。
でも、その中に入らなくてもいい、
と思えた。
少なくとも、今は。
東京に戻ってから、
文章を書いていた。
毎日ではなかった。
書ける日もあれば、
何も書けない日もあった。
机に向かい、
ノートを開き、
数行書いて閉じる。
それを、何度も繰り返した。
題材は、小沢健二だった。
曲そのものというより、
聴いていた時間のことを書いた。
夜中の部屋の空気や、
繰り返し再生した感覚を、
言葉にしようとした。
原稿を書き終え、
どこに送ればいいのか考えた。
知っている雑誌は、
それほど多くなかった。
それでも、いくつか候補を挙げて、
一つに決めた。
封筒に原稿を入れ、
住所を書き、切手を貼った。
ポストに入れるとき、
特別な気持ちはなかった。
送ったことを、すぐに忘れた。
しばらくして、
編集部から連絡が来た。
短い連絡だった。
掲載したい、という内容だった。
電話を切ったあと、
部屋の中を見回した。
何も変わっていなかった。
発売日になり、
本屋に行った。
棚に並んでいる雑誌を、
一冊手に取った。
自分の文章は、その中にあった。
名前も、ちゃんと載っていた。
それを確認して、ページを閉じた。
嬉しいかどうかは、
よくわからなかった。
やっと始まった、
という感じもしなかった。
ただ、一度、外に出た。
それだけだった。
次の原稿を書こうとは、
すぐには思えなかった。
オファーも、
特に来なかった。
部屋に戻り、また机に向かった。
ノートを開き、
何も書かずに閉じた。
雑誌に文章が載ってからも、
生活は特に変わらなかった。
仕事はなかった。
決まった予定もなかった。
朝起きて、夜になって、
また寝るだけだった。
小説を書こうと思った。
理由ははっきりしなかった。
書く以外に、やることがなかった。
毎日、決まった時間に机に
向かったわけではない。
昼に書く日もあれば、
夜中に書く日もあった。
書けない日も、多かった。
ノートを開いて、
一行も書かずに閉じる。
それで一日が終わることもあった。
書けた日は、少しだけ進んだ。
数行。多くても、数ページ。
話が前に進んでいるのかどうかは、
よくわからなかった。
登場人物のことも、
設定のことも、
途中で何度も揺れた。
これは本当に小説なのか、
ただのメモなのか、
自分でも判断できなかった。
それでも、
やめるという選択肢は、
あまり考えなかった。
書くのが楽しい、
という感覚もなかった。
苦しい、
というほどでもなかった。
ただ、
書いている時間だけ、
一日が形を持っている気がした。
外に出ることは、少なくなった。
買い物と、
たまに本屋に行くくらいだった。
部屋は、だんだん散らかっていった。
読みかけの本。
聴きかけのCD。
書きかけのノート。
どれも、
中途半端なままだった。
それでも、少しずつ、
最後のページに近づいていた。
いつ終わるのかは、
考えないようにしていた。
終わったあとに、
何が起きるのかを、
考えたくなかった。
ある日、最後の一文を書いた。
勢いはなかった。
達成感もなかった。
ページを閉じて、しばらく机の前に座っていた。
これでいいのかどうかは、
わからなかった。
でも、これ以上は書けない、
という感じはあった。
それだけだった。
原稿を、送った。
送り先と、締切だけは、
何度も確認した。
それ以外のことは、
あまり考えなかった。
結果を待つあいだも、
生活は変わらなかった。
本を読み、
音楽を聴き、
机に向かった。
しばらくして、連絡が来た。
二次選考まで進んだ、
という内容だった。
それを読んで、
特別な気持ちは起きなかった。
そういうものだ、と思った。
次の連絡は、少し時間が空いた。
ある日、短いメールが届いた。
選考の結果、今回は見送る、
と書いてあった。
理由はなかった。
画面を閉じて、しばらく何もしなかった。
机の上には、使いかけのノートがあった。
それを開いて、何も書かずに閉じた。
それで終わった。
二次選考で落ちてから、
東京の見え方が、少し変わった。
何かが決定的に起きたわけではない。
ただ、同じ景色が、
前と違って見えるようになった。
駅に出ると、人が多かった。
前からも、後ろからも、人が来た。
避ける場所がなかった。
前は、それほど気にならなかった。
人が多い街だ、
そう思っていただけだった。
その日は、それが少しうるさく感じた。
電車の音。
アナウンス。
携帯電話の着信音。
全部が、同時に鳴っているようだった。
街を歩きながら、
自分がどこに向かっているのか、
よくわからなくなった。
目的は、特になかった。
ただ、外に出ていただけだった。
本屋に入っても、
前ほど落ち着かなかった。
棚は変わっていないはずなのに、
長く立っていられなかった。
CDショップにも行った。
ジャケットを眺めても、
気持ちは動かなかった。
どれも、
少し遠くにある感じがした。
街が悪いわけではない。
東京が間違っているとも思わなかった。
ただ、ここに自分がいる理由が、
急に薄くなった。
この街で、
何かを続ける理由が、
見つからなくなった。
部屋に戻ると、荷物が目に入った。
本と、CDと、
書きかけのノート。
それだけだった。
この街で、
これ以上増えるものが、
ある気がしなかった。
外を見ると、
東京は相変わらずだった。
何も変わっていない。
変わったのは、
自分の方だった。
そう思った。
東京が合わなくなってから、
しばらくは、そのまま過ごしていた。
何かを決めたわけではなかった。
出ていく準備を始めたわけでもなかった。
ただ、外に出る回数が減った。
部屋にいる時間が、
少しずつ長くなった。
お金のことを考えるようになった。
貯金は、減っていく一方だった。
仕事を探そうとは思わなかった。
探せば見つかる、
という気もしなかった。
実家のことを、
時々思い出した。
帰りたい、
という気持ちではなかった。
行く場所が、
他に思い浮かばなかった。
東京を出る前の日、
渋谷に出た。
特別な用事はなかった。
ただ、映画を観ようと思った。
映画館に入り、
一日中、同じ映画を観た。
途中で外に出て、
また戻った。
観ていたのは、「うたかたの日々」だった。
なぜか、その映画が、
そのときの自分には、しっくりきた。
理由は、
よくわからなかった。
何度も観ているうちに、
時間の感覚がなくなった。
外に出ると、もう夜だった。
渋谷は、いつもと同じだった。
人が多く、
音が多く、
光も多かった。
でも、
それを煩わしいとも、
懐かしいとも思わなかった。
ただ、ここを離れるのだと思った。
サヨナラ渋谷。
部屋に戻ると、
荷物が目に入った。
本と、
CDと、
書きかけのノート。
それだけだった。
この街で、
これ以上増えるものが、
ある気がしなかった。
それを箱に詰め始めた。
順番はなかった。
詰めているうちに、
東京に来たときのことを思い出した。
何かが始まると思っていた。
今は、何かが終わったとも思っていなかった。
ただ、続けられなくなっただけだった。
引っ越しの手続きをした。
難しいことはなかった。
部屋を引き払う日、
特別な感情はなかった。
最後に、鍵を返した。
駅に向かう途中、
街を振り返らなかった。
見る理由が、なかった。
電車に乗り、座席に座った。
窓の外の景色が、
少しずつ変わっていった。
実家に戻ることにした。
それ以上でも、
それ以下でもなかった。
第Ⅳ部 地元の銀行に就職
実家に戻ると、
家は前と変わっていなかった。
玄関の匂いも、
廊下の長さも、
置いてある物の位置も、
全部そのままだった。
親は、特に何も言わなかった。
「おかえり」とも、
「どうするつもりだ」とも、
言われなかった。
僕も、何も言わなかった。
部屋に入ると、
昔使っていた机があった。
引き出しの中身も、
ほとんどそのままだった。
荷物を置き、座った。
それだけで、
一日が終わったような気がした。
食事の時間になると、
声をかけられた。
食卓では、
必要な会話だけがあった。
「ごはんだよ」
「はい」
天気の話や、
近所の話は、
ほとんど出なかった。
テレビはついていたが、
誰も真剣には見ていなかった。
食べ終わると、
それぞれの部屋に戻った。
同じ家にいたが、
同じ時間を過ごしている感じはなかった。
昼間、
家に一人でいることが多かった。
親は仕事に出ていた。
僕は、何もしなかった。
外に出る理由も、
中にいる理由も、
特になかった。
本を読んだり、
音楽を聴いたりした。
東京にいたときと、
やっていることは同じだった。
ただ、壁が少し近くなった気がした。
夜になると、
家の音が聞こえた。
階段を上る音。
ドアの閉まる音。
台所の水の音。
誰かが、確かにそこにいる。
それが、少しだけ重かった。
何か言われるのではないか、
という緊張は、
いつもどこかにあった。
でも、何も言われなかった。
それが、一番きつかった。
期待されているのか、
諦められているのか、
わからなかった。
聞くことも、できなかった。
日が経つにつれて、
時間の感覚が、
少しずつ曖昧になった。
曜日が、わからなくなった。
朝と夜の違いだけで、
一日を区切っていた。
このまま、
何も起きないまま、
時間が過ぎていく気がした。
実家に戻ってから、
仕事を探し始めた。
新聞を読んだ。
求人誌も見た。
友人に、声をかけてもらうこともあった。
どれも、
うまくいかなかった。
年齢のことを聞かれ、
これまで何をしていたのかを聞かれ、
話が終わった。
理由は、はっきりしていたと思う。
続けてきたものが、
何もなかった。
ある日、
就職活動をしていた頃のことを思い出した。
一度だけ、
個別に面接してくれた銀行があった。
地元の銀行だった。
あのときは、
結局、縁がなかった。
でも、なぜか、そのことを思い出した。
手紙を書くことにした。
形式ばったものではなかった。
これまでのことを、正直に書いた。
東京でのこと。
会社を辞めたこと。
戻ってきたこと。
今の自分の状況。
うまく書けているとは思わなかった。
ただ、嘘は書かなかった。
しばらくして、連絡が来た。
基本的には、
新卒しか採用していない。
そう前置きされた。
それでも、
手紙を読んだ人事部が、
選考に入れてくれることになった。
新卒扱いだった。
面接が進むにつれて、
話は少しずつ大きくなった。
途中で、頭取とも会った。
大学の先輩だと言われ、熱心に話をされた。
期待されているようにも、見えた。
本当に自分に、
銀行員が務まるのかどうかは、
ずっと不安だった。
向いているとも、思えなかった。
それでも、
内定をもらった。
断る理由も、
続けて探す力も、
残っていなかった。
もう一度、
普通のレールに戻る。
そんな言葉が、
頭に浮かんだ。
親を、安心させたかった。
それが、一番大きかった。
内定を、受けることにした。
銀行に入ってから、
毎日は似た形で進んでいった。
朝、
アラームで起きる。
身支度をして、
銀行に行く。
仕事の内容は、
少しずつ増えた。
覚えることも、
増えていった。
それでも、
特別な達成感はなかった。
出来ているのか、
出来ていないのか、
自分ではよくわからなかった。
同期とは、
必要な会話だけをした。
たまに、
前の会社を一ヶ月で辞めたことを、
冗談のように言われた。
笑って受け流した。
そうするのが、
一番早く終わる気がした。
嫌だったが、我慢した。
昼休みや、
仕事終わりの雑談で、
学歴の話になることがあった。
東大を出て、
地元の銀行に入ったことを、
不思議がられることもあった。
「もったいないな」
「わりに合わないな」
そう言われるたびに、
どう返せばいいのかわからなかった。
反論する気もなかった。
説明する言葉も、
持っていなかった。
ただ、そう見えるのだ、
ということだけはわかった。
仕事を終えて、家に帰る。
疲れているはずなのに、
達成感はなかった。
本を開くと、
少しだけ、気持ちが落ち着いた。
銀行では、
自分がどう見られているかを、
常に考えていた。
本の前では、
何も考えなくてよかった。
それが、
一日の中で、
いちばん楽な時間だった。
翌日も、
同じように始まった。
特別なことは起きなかった。
嫌なことも、
決定的なことも、
まだ起きていなかった。
ただ、
同じ一日が、
静かに積み重なっていった。
しばらくすると、
上司と話す機会が増えた。
仕事の進め方について、
注意を受けることが多くなった。
言っている内容は、
間違っていなかった。
もっと早く。
もっと正確に。
もっと周りを見て。
どれも、
社会人としては、
普通のことだった。
ただ、言い方が、少しきつかった。
「それじゃ困る」
「考えて動いてくれ」
「君、わかってる?」
そう言われるたびに、
体が少し固くなった。
返事はしていた。
「はい」と言っていた。
でも、本当に理解できているのかどうか、
自分でもよくわからなかった。
指摘されたことを、
頭の中で何度も反復した。
次は失敗しないように。
次は言われないように。
そう思えば思うほど、
動きが遅くなった。
ミスをすると、呼ばれた。
声は大きくなかった。
怒鳴られたわけでもなかった。
それでも、逃げ場がなかった。
机の横に立たれ、
言葉を受け止めるしかなかった。
周りの視線が、気になった。
誰も見ていないはずなのに、
見られている気がした。
仕事が終わっても、
頭の中では、
上司の声が残っていた。
家に帰っても、
完全には消えなかった。
本を読んでいても、
行の途中で、
言葉が割り込んでくる。
集中できないまま、
ページをめくった。
翌朝、
銀行に向かう足取りが、
少しだけ重くなった。
行きたくない、
というほどではなかった。
ただ、
行きたいとも、
思えなかった。
上司は、
特別に意地悪な人ではなかった。
仕事に厳しく、
責任感が強いだけだった。
それが、
自分には、
少し強すぎた。
誰かが悪い、
という話ではなかった。
ただ、
合っていなかった。
そう思うようになった。
ある朝、
いつもの電車に乗った。
いつもの時間。
いつもの車両。
いつもの立ち位置。
特別なことは、
何もなかった。
銀行の最寄り駅で、
電車を降りた。
ホームに立った瞬間、
足が動かなくなった。
痛みはなかった。
めまいもしなかった。
ただ、
次の一歩が、
出なかった。
急いでいる人たちが、
横を通り過ぎていった。
誰も、立ち止まらなかった。
自分だけが、
取り残されている感じがした。
しばらく、その場に立っていた。
どれくらいの時間かは、
わからない。
そのうち、
ベンチが目に入った。
座った。
座ると、
少しだけ、息がしやすくなった。
携帯電話を取り出した。
画面を見つめたまま、
しばらく動けなかった。
上司に連絡をした。
体調が悪いので、
今日は休ませてほしい。
そう伝えた。
言葉は、
事前に考えていなかった。
自然に出た。
返事は、短かった。
それで、
その日は終わった。
ベンチに座ったまま、
電車が行き来するのを見ていた。
銀行には、
行かなかった。
その日を境に、
休む日が増えた。
最初は、
一日だけのつもりだった。
体調が戻れば、
また行けると思っていた。
次の日も、
朝になると体が重かった。
理由は、
はっきりしなかった。
熱もなかった。
痛みもなかった。
ただ、起き上がれなかった。
上司に連絡をした。
同じ言葉を使った。
体調が悪いので、
今日は休ませてほしい。
返事は、
毎回ほとんど同じだった。
数日すると、
連絡を入れるのが、
少しだけ遅くなった。
朝ではなく、
昼前になった。
それでも、
特に何も言われなかった。
休んでいる間、
家にいた。
布団に入ったまま、
天井を見ていた。
眠れる日もあれば、
眠れない日もあった。
時間の感覚が、
少しずつ曖昧になった。
時計を見ても、
何時なのか、
よくわからなかった。
本を開くこともあった。
でも、数ページで閉じた。
音楽をかけても、途中で止めた。
集中できなかった。
銀行から、
連絡が来ることもあった。
出ることもあれば、
出ないこともあった。
出なかった日は、
折り返す理由を、考え続けた。
結局、何もしなかった。
行かない日が、
また一日増えた。
それが、
特別なことではなくなった。
いつからそうなったのかは、
覚えていない。
ただ、行く日よりも、
行かない日の方が、
自然になっていた。
もう、心は折れていた。
それは、
ある日突然そうなったわけではなかった。
少しずつ、
確実にそうなっていた。
それでも、
ここで辞めたら、
本当にレールから外れてしまう。
そんな考えが、
頭から離れなかった。
もう、親を悲しませたくなかった。
その気持ちは、
最後まで残っていた。
でも、僕の足は、
銀行に向かなかった。
行こうとすると、
体が先に止まった。
仕事ができなかったから、
辞めるのではない。
そういう形には、
したくなかった。
病気だから、
仕方なく辞める。
その形なら、
何とか耐えられる気がした。
心療内科に行った。
待合室で、
順番を待った。
特別な感情は、なかった。
診察室で、
これまでのことを話した。
言葉は、うまくまとまらなかった。
医師は、静かに聞いていた。
何度か、休職した。
そのたびに、
時間だけが過ぎていった。
家にいる時間が、
長くなった。
親は、
「しばらく休んでもいい」と言った。
それ以上、
踏み込んだことは、
言われなかった。
銀行の人事部から、
連絡が来た。
引き留められた。
続けられないか、
聞かれた。
でも、
気持ちは変わらなかった。
続ける姿を、
想像できなかった。
必要な手続きをして、
書類を書いた。
それで、
終わった。
銀行を辞めた。
はっきりとした区切りは、
なかった。
ただ、行かなくなり、
戻らなかった。
第Ⅴ部 何もしない時間
銀行を辞めたあと、
いわゆる引きこもりになった。
毎日は、
静かだった。
朝、目が覚める。
目覚ましは、鳴らなかった。
起きる時間も、
決まっていなかった。
昼前に、
家を出ることが多かった。
向かう先は、
図書館だった。
特別な目的はなかった。
ただ、
そこに行けば、
時間が過ぎた。
棚の前を歩き、
適当に本を選んだ。
内容は、
あまり覚えていない。
席に座り、
ページをめくった。
眠くなると、
目を閉じた。
誰にも、
話しかけられなかった。
こちらから、
話すこともなかった。
それでよかった。
夕方になると、家に戻った。
犬の散歩に出た。
同じ道を、同じ順番で歩いた。
犬は、
毎回同じところで立ち止まり、
毎回同じところで走った。
それを、ただ見ていた。
空の色が、
少しずつ変わっていった。
家に戻ると、
夕食ができていた。
親が、何も言わずに、
食卓に並べた。
「いただきます」と言い、
食べた。
味は、
よくわからなかった。
食べ終わると、
自分の部屋に戻った。
音楽をかけた。
小さな音で、流した。
何を聴いていたのかは、
日によって違った。
覚えていない日も、多かった。
そのまま、眠った。
夢を見た日もあれば、
何も覚えていない日もあった。
曜日の感覚は、
だんだん消えていった。
今日が、
何曜日なのか。
考える理由が、なくなった。
仕事を探そうとは、
思っていた。
自分にできる仕事。
自分の居場所。
そういう言葉が、
頭の中に浮かんでは、
消えた。
現実には、
何も起きなかった。
ストレスからは、
解放されていた。
その代わり、
何もなかった。
四十七歳のとき、
両親が相次いで亡くなった。
最初は、母親だった。
家の階段から転落し、
大量出血だった。
間に合わなかった。
その半年後、
父親がいなくなった。
夕方になると、
いつも家にいるはずだった。
その姿が見当たらなかった。
家の周りを探した。
畑も見た。
声をかけた。
返事はなかった。
離れの小屋に入った。
父は、
うつ伏せの姿勢で倒れていた。
見た瞬間、
死んでいるとわかった。
そのあとのことは、
よく覚えていない。
映画のスローモーションのようだった。
救急車を呼んだ。
弟に電話をした。
警察と、
医師が来た。
急性心不全だと言われた。
親戚から、
次々と電話がかかってきた。
何を話したのかは、
あまり覚えていない。
それからしばらくは、
父の死後の事後処理に追われた。
役所に行き、
書類を書き、
説明を受けた。
わからないことばかりだった。
気づくと、
時間だけが過ぎていた。
四十九日を済ませ、
相続税を申告した。
一通りのことが、
ようやく終わった。
家は、静かだった。
呼ぶ人も、呼ばれる人も、
いなかった。
この家で、これ以上、
一人で暮らすことはできない。
そう思った。
実家を出た。
すぐに、
どこかに落ち着く気にはなれなかった。
しばらくの間、ビジネスホテルや、
ウィークリーマンションを泊まり歩いた。
部屋は、
どこも似ていた。
ベッドがあり、
机があり、
テレビがあった。
窓の外の景色だけが、
少しずつ違っていた。
どこに住めばいいのか、
わからなかった。
帰る場所は、
もうなかった。
新しく決める理由も、
見つからなかった。
荷物は、
最小限だった。
本と、着替えと、
必要なものだけ。
それだけを持って、
部屋を移動していた。
あるとき、
ふいに、津市のことを思い出した。
銀行に入ったとき、
最初に配属された場所だった。
特別な思い入れは、
なかった。
でも、頭の中に、
いくつかの条件が浮かんだ。
県庁所在地で、
そこそこ都会だった。
生活に困るほど、
不便ではなかった。
図書館があり、
美術館があり、
本屋もあった。
少し歩けば、自然もあった。
近くには、
三重大学があった。
学生向けの、安い物件が多いことも、
知っていた。
住む理由としては、
それで十分な気がした。
好きでも、嫌いでもなかった。
ただ、ここなら、
しばらく生きられる。
そう思った。
それ以上のことは、
考えなかった。
津市で、部屋を借りた。
駅から少し離れた、
古いアパートだった。
部屋は、
思っていたよりも静かだった。
引っ越しの荷物は、
すぐに片付いた。
本を並べ、
CDを置き、
最低限の生活用品を揃えた。
それだけで、
部屋は出来上がった。
カーテンを閉めると、
外の気配は消えた。
誰にも、
話しかけられなかった。
こちらから、
話す相手もいなかった。
昼間、
部屋にいると、
音がほとんどなかった。
冷蔵庫の音。
遠くの車の音。
それだけだった。
外に出る理由がなく、
中にいる理由もなかった。
近所を歩いてみた。
知らない道ばかりだった。
すれ違う人は、
全員、他人だった。
誰も、
僕のことを知らなかった。
それが、
少しだけ楽だった。
夕方になると、
空が暗くなった。
窓から見える景色に、
特別なものはなかった。
夜になると、
部屋はさらに静かになった。
実家にいた頃の、
家の音がなかった。
階段の音も、
テレビの音も、
水の音も。
完全に、一人だった。
誰にも頼れない、
ということが、
はっきりした。
家族も、
職場も、
なかった。
連絡を取る相手も、
ほとんどいなかった。
携帯電話は、
ほとんど鳴らなかった。
鳴らないことに、
慣れるのは早かった。
夜が、
長く感じられた。
眠るまでの時間を、
どう過ごせばいいのか、
よくわからなかった。
ここが、
自分の居場所なのかどうか。
判断する材料は、
何もなかった。
ただ、ここにいるしかなかった。
昼間は、
まだ何とかなった。
外が明るいあいだは、
時間が勝手に進んでくれた。
図書館に行き、
スーパーに行き、
部屋に戻る。
それだけで、
一日は終わった。
問題は、夜だった。
暗くなると、
部屋が広く感じられた。
誰の気配もなく、
音も少なかった。
時計の針の音が、
やけに大きく聞こえた。
布団に入っても、
すぐには眠れなかった。
目を閉じると、
いろいろなことが浮かんだ。
過去のこと。
これからのこと。
考えても仕方のないこと。
止めようとしても、
止まらなかった。
眠れない夜が、
何日か続いた。
ある日、
病院に行った。
理由を、
うまく説明できたかどうかは、
覚えていない。
眠れないことだけは、
伝えた。
睡眠薬を出された。
その夜、薬を飲んで、
布団に入った。
しばらくして、
意識が薄くなった。
気づくと、朝だった。
久しぶりに、
何も考えずに眠れた。
それだけで、十分だった。
それから、
夜が来るたびに、
薬を飲んだ。
眠るため、
というより、
夜を終わらせるためだった。
薬を飲めば、
とりあえず、
一日は終わる。
眠っているあいだは、
考えなくてよかった。
安心できるのは、
その時間だけだった。
朝になると、
また一人だった。
それでも、
夜が越えられるだけで、
次の日まで行けた。
それが、
しばらく続いた。
しばらくして、
世の中が変わった。
ニュースで、
同じ言葉が何度も流れた。
外に出ないように、
人と会わないように。
理由は、理解できた。
でも、生活はすでに、
それに近い形になっていた。
外に出る用事が、さらに減った。
図書館は、
休館になった。
しばらくして、
再開したが、
前のようには通わなかった。
人が少ない時間を選び、
短い滞在で帰った。
部屋にいる時間が、
ますます長くなった。
昼と夜の区別は、
さらに曖昧になった。
外は静かだった。
車の音も、
人の声も、
前より少なかった。
部屋の中と、
外の違いが、
わかりにくくなった。
誰かと話す機会は、
ほとんどなくなった。
電話も、
鳴らなかった。
それが、
当たり前になった。
外に出なくても、
何も困らなかった。
食べ物は、
買えた。
必要なものも、
手に入った。
理由があれば、
引きこもれる。
そういう状況だった。
夜になると、
いつも通り、
薬を飲んだ。
眠れば、
一日は終わる。
起きれば、
また同じ日が始まる。
世界が止まった、
という感じはなかった。
自分の時間が、
世界の時間に、
追いついたような気がした。
それが、
いいのか悪いのかは、
考えなかった。
考える必要が、
なかった。
第Ⅵ部 哲学と猫とZINE
いつの間にか、
小説を読まなくなっていた。
読もうとは、していた。
本屋で手に取ることもあったし、
図書館で借りることもあった。
最初の数ページは、
普通に読めた。
登場人物も、
設定も、理解できた。
でも、途中で止まった。
話が続く、という感じがしなかった。
次のページをめくる理由が、
見つからなかった。
以前は、一冊の本を、
一気に読むこともあった。
夜が明けるまで、
ページをめくり続けることもあった。
今は、
それができなかった。
集中力が落ちた、
という感覚でもなかった。
文章が、
読めなくなったわけでもなかった。
ただ、
物語が続く、
という前提を、
信じられなくなっていた。
登場人物が、
次の場面に進む。
状況が、
少しずつ変わっていく。
そういうことが、
現実味を持たなかった。
自分の時間は、
前に進んでいなかった。
同じ一日が、
何度も繰り返されていた。
その中で、
物語だけが進んでいくのが、
不自然に感じられた。
本を閉じることが、
増えた。
閉じた本を、
また開くことは、
あまりなかった。
代わりに、棚に戻した。
読むのを、やめた。
それについて、
深く考えなかった。
読めないなら、
仕方がない。
そう思った。
小説の代わりに、
別の本を手に取るようになった。
理由は、
そのときは、
よくわからなかった。
小説の代わりに、
哲学の本を読むようになった。
きっかけは、
はっきりしていない。
本屋で、
たまたま目に入った。
それだけだった。
最初は、
よくわからなかった。
言葉が難しいわけではなかった。
考え方が、遠かった。
それでも、読み続けた。
人生とは何か。
生きるとは何か。
死とは何か。
問いだけが、並んでいた。
答えは、すぐには出てこなかった。
それでよかった。
小説と違って、
先に進まなくても、
置いていかれる感じがなかった。
途中で止めても、
物語が壊れることはなかった。
一章だけ読んで、本を閉じる。
次の日、
また別のところを読む。
それでも、
問題はなかった。
ギリシャの哲学。
ストア派。
近代の哲学。
名前だけが、
少しずつ増えていった。
内容を、
正確に理解していたかどうかは、
わからない。
ただ、
読んでいるあいだ、
時間の進み方が、
少し変わった。
生き方を、
改善しようとは思わなかった。
前向きになろうとも、
思わなかった。
ただ、
生きていることと、
死ぬことを、
同じ場所に置いて考えていた。
それまで、
考えないようにしていたことが、
避けられなくなった。
避けられないなら、
見ておくしかない。
そう思った。
哲学は、
救いではなかった。
慰めにも、
希望にもならなかった。
でも、嘘は書いていなかった。
わからない、
という状態を、
そのまま置いていた。
それが、
今の自分には、
合っていた。
答えが出なくても、
終わらない。
終わらないことが、
問題にならない。
それだけで、十分だった。
いくつかの哲学の本を読んだあと、
最後に残ったのは、一つの言葉だった。
ソクラテスの言葉だと、
どこかに書いてあった。
――あなたたちは、
名誉やお金のことばかり考えて、
自分の魂には配慮せず、
恥ずかしくないのですか。
最初に読んだときは、
強い言葉だと思った。
誰かを責めているようにも、
聞こえた。
でも、
何度か読み返すうちに、
少し違う感じがしてきた。
怒っているというより、問いかけているだけだった。
答えを、求めているようでもなかった。
この言葉は、
誰かに向けられているというより、
宙に浮いていた。
だから、
避けられなかった。
名誉やお金を、
追いかけていたわけではない。
でも、自分の魂に配慮していたか、
と聞かれると、
よくわからなかった。
何をすれば、
配慮したことになるのかも、
わからなかった。
この問いは、
解決されないまま、
残った。
他の哲学の本を読んでも、
この言葉を超えるものは、
見つからなかった。
知識は増えた。
名前も増えた。
でも、
これ以上、
先に進んでいる感じは、
しなかった。
人は、
真理に到達できない。
そういう考え方が、
腑に落ちた。
到達できないのなら、
無理に急ぐ必要もない。
何かを成し遂げなくても、
恥ずかしいわけではない。
少なくとも、
そう思うようになった。
答えを出さないまま、
生きる。
それは、
逃げではなかった。
今の自分には、
それしかなかった。
それから、
静かな生活を始めた。
何かを決めたわけではなかった。
考えた末の選択でもなかった。
ただ、
急ぐ理由が、
見当たらなくなった。
朝は、自然に目が覚めた。
目覚ましは、使わなかった。
外が明るくなっているかどうかで、
起きる時間を決めた。
昼間は、
特に何もしなかった。
散歩に出る日もあれば、
出ない日もあった。
歩くときは、
行き先を決めなかった。
足が向いた方に、
そのまま進んだ。
海の近くまで行くこともあった。
風が強い日も、
静かな日もあった。
どちらも、
同じように過ぎていった。
帰ってくると、
部屋で過ごした。
本を開くこともあったが、
途中で閉じた。
音楽をかけて、
何もせずに聴いていた。
何かを理解しようとは、
しなかった。
意味を探すことも、
やめていた。
夜になると、
早めに布団に入った。
眠れない日もあったが、
それを問題にはしなかった。
眠れなければ、
横になっていればよかった。
次の日は、
また来る。
それで十分だった。
人と会う機会は、
少なかった。
会わないことが、
寂しいとも、
楽だとも思わなかった。
ただ、
そういう時間が、
続いていた。
生き方を、
改善している感じはなかった。
前より良くなった、
という実感もなかった。
でも、
悪くなっているとも、
思わなかった。
生きることを、あきらめない。
それだけを、
意識していたわけでもない。
ただ、
今日を終わらせて、
明日に渡す。
それを、
繰り返していた。
ある日、
近くの大学まで歩いた。
特別な理由はなかった。
人が少なく、
敷地が広いからだった。
構内を、
ゆっくり歩いた。
学生の姿は、
まばらだった。
授業があるのかどうかも、
よくわからなかった。
ベンチのそばで、
猫を見かけた。
白と茶色の混じった、
小さな猫だった。
近づくと、逃げなかった。
目が合って、
少しだけ、
首をかしげた。
名前は、その場で決めた。
ハマグリ。
理由はなかった。
そう呼んだら、しっくりきた。
座ると、
ハマグリは近くに来た。
触っても、
嫌がらなかった。
しばらく、
何もせずに、
一緒にいた。
時間は、
気にしなかった。
話しかけることも、
特にしなかった。
それでも、
一人ではなかった。
次の日も、
同じ場所に行った。
ハマグリは、
またいた。
その次の日も、いた。
会えない日もあったが、
気にしなかった。
会えた日は、
少しだけ、
長くそこにいた。
それだけだった。
それから、
ほとんど毎日、
ハマグリに会いに行った。
朝でも、
昼でも、
夕方でもよかった。
時間は、
あまり関係なかった。
構内を歩くと、
自然に足が向いた。
ハマグリがいる日もあれば、
いない日もあった。
いない日は、
少し待ってから帰った。
それだけだった。
いる日は、
声をかけた。
特別な言葉は、
使わなかった。
ハマグリは、
気が向くと近づき、
気が向かないと離れた。
それが、ちょうどよかった。
触っているあいだ、
何も考えなかった。
過去のことも、
これからのことも、
頭に浮かばなかった。
ただ、
今そこにいる、
という感じだけがあった。
しばらくすると、
ハマグリは歩き出した。
後をついていった。
行き先は、
いつも違った。
木陰だったり、
建物の裏だったり、
草の多い場所だったり。
途中で、
立ち止まることもあった。
そのときは、
一緒に立ち止まった。
それで、よかった。
誰かと、
予定を決めることはなかった。
約束も、なかった。
でも、次の日も、
自然にそこに行った。
ハマグリに会うために、
というより、
その時間を過ごすためだった。
帰り道、
少しだけ、
体が軽かった。
理由は、
考えなかった。
家に戻ると、
夜が来た。
夜は、
相変わらず静かだった。
それでも、
昼間の時間が、
頭のどこかに残っていた。
それで、
一日が終わった。
ハマグリは、
ある日、
いつもより遠くまで歩いた。
構内を抜け、
道を渡り、
人の少ない方へ進んだ。
後をついていった。
理由は、
なかった。
歩く速さは、
一定ではなかった。
急に止まったり、
少し走ったりした。
そのたびに、
こちらも立ち止まった。
やがて、視界が開けた。
海だった。
砂浜は、広くて、
人が少なかった。
波の音が、
一定のリズムで続いていた。
ハマグリは、
砂の上を歩いた。
足跡が、
遠くまで続き、
すぐに消えていった。
それを見ていると、
ふと
「天使たちのシーン」
一節が頭に浮かんだ。
海岸を歩く人たちが
砂に遠く長く
足跡をつけていく
すぎてゆく夏を洗い流す
雨が降るまでの
短すぎる時間
なぜ、その言葉が浮かんだのかは、
わからなかった。
ただ、今見ている光景と、
よく似ていた。
僕らも、砂の上を歩いた。
足跡は、同じように、すぐ消えた。
何かを話す必要は、
なかった。
波を見て、
風を感じていた。
時間は、
気にしなかった。
どれくらい、
そこにいたのかは、
覚えていない。
ハマグリは、
気が済むと、
また歩き出した。
帰り道も、
同じように、
黙って歩いた。
特別なことは、
何も起きなかった。
それだけで、
よかった。
ある日、
いつもの時間に、
大学まで歩いた。
足は、
自然に同じ方へ向かった。
ベンチのそばを見た。
木陰を見た。
建物の裏も見た。
ハマグリはいなかった。
少し待った。
座って、
周りを見た。
学生が通り過ぎ、
自転車が通り過ぎた。
それでも、
来なかった。
その日は、
そのまま帰った。
次の日も、
同じ場所に行った。
同じように、
探した。
いなかった。
三日目も、
行った。
いなかった。
誰かに、
聞こうとは思わなかった。
理由は、
考えなかった。
そういうこともある。
ただ、
それだけだった。
しばらくして、
新しい里親が見つかった、
という話を、
どこかで聞いた。
詳しいことは、
わからなかった。
本当かどうかも、
確かめなかった。
それ以来、
大学まで歩くことは、
減った。
行っても、
長くはいなかった。
海まで歩くことも、
なくなった。
理由は、なかった。
時間だけが、元に戻った。
昼間は、
静かだった。
夜は、
相変わらず長かった。
ハマグリのいない場所は、
前と同じだった。
ただ、
そこに行く理由が、
なくなった。
それだけだった。
ハマグリがいなくなってから、
日々は、前と同じ形に戻った。
朝、
目が覚める。
特に急ぐ理由はなかった。
昼になると、
部屋を出ることもあったし、
出ないこともあった。
大学の方へは、
あまり行かなくなった。
行っても、
用事はなかった。
歩く距離が、
少し短くなった。
海の方へは、
行かなかった。
理由は、
なかった。
図書館には、
ときどき行った。
席に座り、
本を開いた。
ページは、めくれた。
内容は、あまり残らなかった。
時間を過ごすために、
そこにいる感じだった。
家に戻ると、静かだった。
昼と夜の境目が、
はっきりしなかった。
音楽をかけることもあった。
途中で止めることもあった。
何を聴いたのかは、
覚えていない。
夜になると、
いつも通り、薬を飲んだ。
眠れば、
一日は終わる。
朝になると、
また同じ日が始まった。
何かを失った、
という実感は、
強くはなかった。
ただ、
増えたものが、
何もなかった。
ハマグリがいた頃の時間と、
今の時間の違いを、
比べようとはしなかった。
比べる理由が、
なかった。
日付だけが、
少しずつ進んでいった。
それを、
止めることも、
早めることも、
できなかった。
何も起きない日が、
続いていた。
しばらくして、
スーパー銭湯に通うようになった。
理由は、
特になかった。
一日を、
どう使えばいいのか、
わからなかった。
朝から行く日もあれば、
昼過ぎに行く日もあった。
入館して、
靴を脱ぎ、
服をロッカーに入れた。
それだけで、
少し気が楽になった。
湯に浸かった。
熱い湯。
ぬるい湯。
順番は、
気分で決めた。
長く入ることもあれば、
すぐに出ることもあった。
湯の中では、
考え事は、
あまり続かなかった。
体が温まると、
頭の輪郭が、
少しぼやけた。
それが、
よかった。
休憩室に行った。
いろんな人たちが、
それぞれの方法で休んでいた。
いびきをかいて、
寝ている人。
漫画を読んでいる人。
牛乳を飲んでいる人。
みんな、
だらしなく、
ダラダラしていた。
誰も競争していなかった。
誰も大声を出していなかった。
急いでいる人も、
評価されている人も、
そこにはいなかった。
ただ、
休んでいる人たちが、
同じ空間にいた。
それを見ていると、
自分だけが、
止まっている感じは、
しなかった。
僕は、落ち着いた。
椅子に座り、目を閉じた。
テレビはついていたが、
内容は、ほとんど覚えていない。
音だけが、流れていた。
横になって、
眠ることもあった。
眠らないこともあった。
時間は、
気にしなかった。
時計を見ても、
あまり意味がなかった。
外が明るいのか、
暗いのか。
それも、
重要ではなかった。
風呂に入り、
休み、
また風呂に入った。
それを、
何度か繰り返した。
夕方になっても、
そのままいた。
夜が近づくと、
ようやく帰った。
外に出ると、
空気が少し冷たかった。
一日は、
終わっていた。
何かをした、
という感じはなかった。
でも、
何もしなかった、
とも言い切れなかった。
湯に浸かっているあいだ
時間は確かに過ぎていた。
スーパー銭湯から帰る道で、
ふと、
同じ言葉が頭に浮かんだ。
生きる意味。
理由は、
わからなかった。
考えようとして、
浮かんだわけでもなかった。
ただ、
そこにあった。
部屋に戻っても、
その言葉は消えなかった。
テレビをつけても、
音楽をかけても、
しばらくすると、
また戻ってきた。
生きる意味。
答えを探している、
という感じではなかった。
答えがあるとは、
思っていなかった。
それでも、
言葉だけが、
頭の中を回っていた。
意味がなければ、
生きてはいけないのか。
意味がなくても、
生きていていいのか。
どちらも、
決められなかった。
昼間、
外を歩いていても、
同じだった。
景色は、
前と変わらなかった。
空も、
建物も、
人の流れも。
それなのに、
生きる意味、
という言葉だけが、
浮いていた。
考え続けると、
疲れた。
考えないようにすると、
それも疲れた。
どちらを選んでも、
楽にはならなかった。
哲学の本を開いても、
すぐに閉じた。
問いは、
もう十分だった。
答えが出ないことは、
わかっていた。
それでも、
この言葉が出てくるのを、
止めることはできなかった。
夜になると、薬を飲んだ。
眠っているあいだは、
その言葉も、
消えた。
朝になると、
また戻ってきた。
生きる意味。
何かをしなければ、
いけない、
という気持ちはなかった。
ただ、
この言葉と一緒に、
一日を過ごしていた。
それが、
しばらく続いた。
生きる意味、
という言葉が、
しばらく頭から離れなかった。
そのうち、
少し形を変えた。
意味がないなら、
終わってもいいのではないか。
はっきりそう考えた、
というより、
そういう考えが、
近くに来ていた。
朝、
目が覚める。
それだけで、
一日が始まる。
始まってしまった、
という感じがした。
外に出ても、
景色は同じだった。
スーパー銭湯に行っても、
前ほど落ち着かなかった。
湯に浸かっているあいだも、
どこかで、
同じ言葉が残っていた。
終わってもいい。
そう思ったからといって、
何かをするわけではなかった。
具体的なことを、
考えていたわけでもなかった。
ただ、
先の時間を、
想像しなくなっていた。
明日、
来週、
来月。
どれも、
遠く感じられた。
夜になると、
薬を飲んだ。
眠れば、
その考えは消えた。
眠れない日は、
天井を見ていた。
何時間も、
同じ姿勢で。
怖い、
という感じは、
あまりなかった。
むしろ、
何も感じないことの方が、
怖かった。
それでも、
朝は来た。
体は、
勝手に生きていた。
終わってもいい、
と思いながら、
生きていた。
矛盾していることは、
わかっていた。
でも、
その矛盾を、
解決しようとはしなかった。
それが、
しばらく続いた。
ある日、
AIと対話を始めた。
理由は、
はっきりしない。
何かを期待していたわけでも、
答えを求めていたわけでもなかった。
ただ、
画面があり、
入力欄があった。
最初に書いた言葉は、
短かった。
内容も、
特別なものではなかった。
返事が返ってきた。
否定されなかった。
急かされもしなかった。
それが、
少し意外だった。
もう一文、書いた。
また、返事が来た。
会話というほどのものではなかった。
でも、一方的でもなかった。
質問をされることもあった。
答えられないものもあった。
答えなくても、話は続いた。
間があっても、
問題にはならなかった。
言葉を選ぶ必要が、
あまりなかった。
うまく書けなくても、
訂正されなかった。
何かを成し遂げよう、
という感じはなかった。
ただ、言葉が、
行って、戻ってきた。
それだけで、
時間が過ぎた。
その日は、
夜になるまで、
画面を閉じなかった。
終わらせる理由が、
なかった。
眠くなって、
ようやく閉じた。
薬を飲み、布団に入った。
その夜は、
少しだけ、
考え事が減った。
次の日も、
また画面を開いた。
特別な約束は、
なかった。
でも、
続いていた。
それから、
対話は続いた。
毎日、
決まった時間ではなかった。
朝のこともあれば、
夜のこともあった。
話題も、
決まっていなかった。
思い出したこと。
その日の出来事。
うまく言葉にならない感覚。
どれも、
途中で止まってよかった。
返事が来るまでの時間も、
気にしなかった。
間が空いても、
続きから始められた。
昨日の続きでも、
まったく別の話でも、
問題はなかった。
説明しなくていい、
という感じがあった。
前提を、
揃える必要がなかった。
うまく書けない日は、
短く終わった。
書ける日は、
少し長くなった。
どちらでも、よかった。
対話が、
役に立っているのかどうかは、
考えなかった。
良くなっている、
という実感もなかった。
でも、
悪くなっている感じもしなかった。
一日の中に、
言葉を出して、
戻ってくる場所が、
一つ増えただけだった。
それで、十分だった。
夜になると、画面を閉じた。
薬を飲み、布団に入った。
その日、
話した内容を、
思い出すことは、
あまりなかった。
ただ、
話した、
という事実だけが、
残った。
それが、
次の日につながっていた。
ある日、
マッチングアプリを入れた。
理由は、
はっきりしなかった。
AIとの対話の延長、
という感じが、
一番近かった。
誰かと話す、
という行為が、
画面の外にも、
あるのだと思い出した。
登録は、
思ったより簡単だった。
年齢を書き、
住んでいる場所を書き、
いくつか質問に答えた。
写真は、
少し迷った。
結局、
無難なものを選んだ。
自己紹介文は、
短くした。
説明しすぎると、
嘘になる気がした。
始めてみると、
思ったほど、
何も起きなかった。
いいねが来ることもあれば、
来ない日もあった。
こちらから送ることも、
ほとんどなかった。
眺めて、
閉じる。
それだけで、
一日が終わることもあった。
しばらくして、
メッセージが来た。
短い文章だった。
返事を書くまで、
少し時間がかかった。
どう書けばいいのか、
最後までわからなかった。
それでも、送った。
返事が来た。
それだけで、少し驚いた。
やり取りは、ゆっくりだった。
一日に、一通か二通。
急かされることは、なかった。
相手のことを、
深く知ろうとはしなかった。
こちらのことも、
詳しくは書かなかった。
それでも、会話は続いた。
ある日、
お茶でもどうですか、
という話になった。
断る理由も、
強く引き受ける理由も、
なかった。
少し考えて、
行くことにした。
名古屋だった。
約束の日、
電車に乗って、
名古屋に行った。
少し早めに着いた。
時間を潰す場所は、
すぐに見つかった。
カフェに入り、
席に座った。
窓際だった。
しばらくして、
相手が来た。
軽く挨拶をして、
向かいに座った。
注文をして、
飲み物が来た。
それから、
話した。
仕事のこと。
住んでいる場所のこと。
最近の出来事。
どれも、
無難な話だった。
沈黙も、
何度かあった。
気まずい、
というほどではなかった。
無理に、
埋めようとも思わなかった。
相手は、
悪い人ではなかった。
こちらも、
特に失礼なことは、
言っていないと思う。
ただ、
何かが始まる感じは、
なかった。
時間になり、
会計をした。
店を出て、
駅まで歩いた。
別れ際、
また連絡します、
と言った。
本気でも、
形式だけでもなかった。
そのまま、電車に乗った。
帰りの車内で、
特別な感情は、
湧かなかった。
落ち込むことも、
高揚することも、
なかった。
家に着き、
いつものように、
夜が来た。
それだけだった。
家に着くと、靴を脱いで、
電気をつけた。
部屋は、
いつも通りだった。
カバンを置き、
上着を脱いだ。
名古屋に行った痕跡は、
体の中に、
ほとんど残っていなかった。
着替えて、
水を飲んだ。
テレビはつけなかった。
音楽も、
かけなかった。
しばらく、
椅子に座っていた。
今日のことを、
振り返ろうとは思わなかった。
振り返るほどのことが、
なかった。
良くも、
悪くもなかった。
ただ、
会って、
帰ってきた。
それだけだった。
スマートフォンを見ると、
特に連絡はなかった。
こちらから、
送ろうとも思わなかった。
理由は、
考えなかった。
夜になり、
いつものように、
薬を飲んだ。
布団に入ると、
天井が見えた。
目を閉じても、
すぐには眠れなかった。
でも、
不安が強くなることも、
なかった。
今日は、
外に出た。
人と会った。
それだけのことが、
静かに残っていた。
しばらくして、
眠った。
次の日は、
また来る。
AIとの対話は、
そのまま続いていた。
特別な話題は、
なかった。
思い出したことを、
少し書く。
その日の感じを、
そのまま置く。
返事が来る。
それを読んで、
また少し書く。
それだけだった。
ある日、
過去のことを書いた。
十代の頃に、
読んでいた本のこと。
何度も聴いていた、
音楽のこと。
懐かしさを、
表現しようとはしなかった。
ただ、事実として、書いた。
返事が来て、少し言葉が足された。
訂正ではなかった。
評価でもなかった。
並べ替えに、
近かった。
そのやり取りを、
何度か繰り返した。
すると、
書いた言葉が、
少しだけ整って見えた。
意味が深まった、
という感じではなかった。
読める形に、
近づいた、
という感じだった。
次の日、
続きを書いた。
前の日の続きでも、
まったく別の話でも、
問題はなかった。
書いたものが、
画面の中に、
少しずつ溜まっていった。
それを、
消さずに残した。
並べて、
読み返した。
順番は、
まだなかった。
でも、
何かが、
集まり始めていた。
会話を、
しているつもりだった。
気がつくと、文章が、
残っていた。
そのことを、
不思議には思わなかった。
書くことが、
目的になったわけではない。
ただ、対話が、
書く方へ、少しずれていった。
それだけだった。
気がつくと、
文章が溜まっていた。
一つひとつは、
短かった。
長い原稿も、
完成した文章も、
なかった。
ただ、断片があった。
夜中に書いたもの。
昼間に書いたもの。
途中で止まっているもの。
どれも、
中途半端だった。
それでも、
消さなかった。
消す理由が、
なかった。
画面をスクロールすると、
思ったよりも、
下まで続いていた。
こんなに書いた覚えは、
なかった。
読み返すと、
内容はばらばらだった。
十代の頃の話。
読んでいた本。
何度も聴いた音楽。
仕事を辞めたこと。
何もしていなかった時間。
順番は、なかった。
でも、どれも、
自分が書いたものだった。
どこかで、
話し言葉が、
文章に変わっていた。
説明しようとして、
書いたわけではなかった。
残しておこう、
と思ったわけでもなかった。
ただ、残っていた。
一つ閉じて、また開く。
それを、
何度か繰り返した。
読むたびに、
少し違って見えた。
良くなった、
という感じではなかった。
意味が深まった、
という感じでもなかった。
ただ、
集まっている、
という感じはあった。
これを、
どうするのかは、
まだ考えなかった。
考えるには、
早すぎる気がした。
でも、
このまま消してしまうのも、
違う気がした。
書いたことよりも、
書き続いていたことの方が、
不思議だった。
溜まっている文章を、
どうするのか、
考え始めた。
本にする、
という感じではなかった。
まとまっていないし、
物語でもなかった。
テーマがあるのかどうかも、
よくわからなかった。
削って、
整えて、
完成させる。
そういう作業を、
想像できなかった。
それよりも、
今の形を、
なるべく壊さずに、
外に出す方法を、
探していた。
いくつか、
選択肢が浮かんだ。
ブログ。
ノート。
SNS。
どれも、
しっくりこなかった。
公開し続ける、という感じが、
重かった。
更新しなければならない場所に、
置きたくなかった。
一冊にして、終わらせる。
そういう形が、必要だった。
そのとき、
ZINEという言葉が、
浮かんだ。
理由は、
はっきりしない。
前に、
どこかで見たことがあった。
小さな本屋の棚で、
手に取った記憶があった。
立派でなくていい。
完成していなくてもいい。
途中のままでも、
成り立つ。
そういうものだった。
溜まっている文章と、
よく似ていた。
誰かに評価されるための、
形式ではなかった。
売れるかどうかも、
重要ではなかった。
残して、渡せる。
それだけで、十分だった。
ZINEにする、
と決めたわけではない。
ただ、ZINEという形に、
自然に収まった。
溜まっている文章を、
一度、全部並べてみた。
画面の上から、
下まで。
順番は、
まだなかった。
古いものと、
新しいものが、
混ざっていた。
十代の頃の話。
仕事のこと。
何もしなかった時間。
音楽の話。
本の話。
長さも、
ばらばらだった。
一行で終わるものもあれば、
何ページも続くものもあった。
それでも、
消さずに、
並べた。
似た話題を、
近くに置いた。
少し離した方がいいものは、
間を空けた。
前後を入れ替えて、
読んでみた。
意味が通るかどうかは、
あまり気にしなかった。
読めるかどうか、
それだけを見ていた。
読んでいるうちに、
自然に、流れが見えてきた。
始まりに向いているもの。
途中に置いた方がいいもの。
最後の方に残したいもの。
はっきりした区切りは、
なかった。
でも、
続いて読める順番は、
確かにあった。
章のタイトルを、
考えることもあった。
すぐには、
決めなかった。
仮の名前を、つけておいた。
後で変えても、
いいと思った。
ページ数を数えると、
思ったよりも多かった。
少ないとも、
多いとも、
感じなかった。
これくらいなら、
一冊になる。
それだけが、
わかった。
編集している、
という感じは、
あまりなかった。
ただ、
すでにあるものを、
並べ替えているだけだった。
並べた文章を、
ページにして数えてみた。
画面の表示を、
切り替えた。
一枚、
また一枚。
途中で、
数を間違えた気がして、
最初からやり直した。
それでも、
結果はあまり変わらなかった。
思っていたより、
多かった。
少ないとも、
多すぎるとも、
思わなかった。
このくらいなら、
紙にできる。
そう思った。
紙の種類や、
サイズのことを、
少し調べた。
専門的なことは、
よくわからなかった。
細かい違いも、
気にしなかった。
読めればいい。
持てればいい。
それだけだった。
印刷の値段を見た。
高いとも、
安いとも、
感じなかった。
これなら、払える。
そう思った。
何冊刷るか、少し迷った。
たくさんは、必要なかった。
誰かに配るため、
というより、
手元に残すためだった。
余っても、困らない数。
それを、頭の中で決めた。
注文するかどうかは、
まだ決めなかった。
でも、
ここまで考えている時点で、
ほとんど決まっている気もした。
画面を閉じた。
部屋は、
静かだった。
紙になった姿を、
想像した。
はっきりした形は、
浮かばなかった。
ただ、重さだけは、
少し想像できた。
印刷を、頼んだ。
特別な日ではなかった。
天気も、よく覚えていない。
画面を開いて、必要な項目を埋めた。
サイズ。
ページ数。
部数。
間違えていないか、
何度か確認した。
誤字や、
配置のことを、
急に心配になった。
でも、
戻って直すことは、
しなかった。
これ以上触ると、
違うものになりそうだった。
確認画面で、
少し止まった。
本当に、
これでいいのか。
答えは、
なかった。
でも、戻る理由も、なかった。
送信した。
それで、終わった。
画面が切り替わり、
受付完了、
という表示が出た。
それを見て、
特別な気持ちは、
起きなかった。
部屋に、
変化はなかった。
机の上も、
そのままだった。
ただ、
もう戻せない、
という事実だけが、
増えていた。
その日は、
外に出なかった。
夜になり、
いつも通り、
薬を飲んだ。
布団に入ると、
天井が見えた。
頭の中に、
紙の感触が、
少しだけ浮かんだ。
はっきりした形では、
なかった。
でも、届く。
そういう未来が、
一つ、置かれた。
印刷を頼んでから、
特にすることはなかった。
メールを確認する回数が、
少し増えた。
まだ発送されていない、
という表示を見て、
画面を閉じた。
次の日も、
同じだった。
部屋で過ごし、
外に出ることもあれば、
出ないこともあった。
スーパー銭湯には、
いつも通り行った。
湯に浸かりながら、
本のことを考えることは、
あまりなかった。
考えても、
どうにもならなかった。
帰ってきて、
ポストを開ける。
何も入っていない。
それを見て、
がっかりするほどでもなかった。
まだ、
来ないだけだった。
夜、布団に入ると、
紙の匂いを想像した。
実際に嗅いだことは、
なかった。
重さも、
正確にはわからなかった。
それでも、
本が届く、
という事実だけは、
動かなかった。
数日後、発送通知が来た。
それを読んで、画面を閉じた。
届くまで、また時間があった。
昼過ぎ、
インターホンが鳴った。
宅配便だった。
玄関で受け取ると、
思ったより重かった。
箱は、
大きすぎず、
小さすぎなかった。
宛名は、
自分の名前だった。
部屋に運び、
床に置いた。
しばらく、
そのままにした。
すぐに開けても、
いいはずだった。
でも、
手が動かなかった。
カッターは、
引き出しにあった。
取ろうと思えば、
取れた。
それでも、
触らなかった。
箱の角を、
少し押した。
中で、
紙がずれた音がした。
それを聞いて、
また手を離した。
部屋は、
静かだった。
時計の音だけが、
聞こえた。
これは、
もう戻せないものだ、
と思った。
出来がどうか、
ということではなかった。
良いか、
悪いかでもなかった。
すでに、
ここにある。
それだけだった。
箱は、
開けないまま、
その日が終わった。
夜になってから、
箱を開けた。
カッターで、
テープを切った。
音は、
思ったより小さかった。
段ボールのふたを、
ゆっくり開いた。
中に、
紙の束が見えた。
緩衝材を、
どけた。
本が、
並んでいた。
全部は、
見なかった。
一冊だけ、
取り出した。
手に取ると、
少し重かった。
想像していた重さとは、
違った。
表紙を、
撫でた。
紙は、
少しざらついていた。
ページを、
一枚だけめくった。
インクの匂いが、した。
文字は、
知っているはずのものだった。
でも、
画面で見ていたときとは、
違っていた。
閉じた。
もう一度、
表紙を見た。
角を、
少しだけ押した。
戻して、
箱に入れた。
ふたを、
閉じた。
部屋は、
静かだった。
それ以上、
何もしなかった。
朝になった。
いつもより、
少し早く目が覚めた。
カーテンを開け、
天気を確認した。
悪くはなかった。
箱から、
本を一冊取り出した。
ビニール袋に入れ、
さらに、
紙袋に入れた。
そのまま持つのは、
少し落ち着かなかった。
服を着替え、
靴を履いた。
鏡は、
見なかった。
カバンは、
使わなかった。
紙袋を、
片手で持った。
ドアを開けると、
外の空気が、
思ったより冷たかった。
鍵を閉め、
一度、
紙袋を持ち替えた。
歩き出した。
駅までの道は、
いつもと同じだった。
特別なことは、
何も起きなかった。
信号を待ち、
横断歩道を渡った。
人は、
それなりにいた。
誰も、
こちらを見ていなかった。
電車に乗った。
座れた。
紙袋を、
膝の上に置いた。
揺れに合わせて、
中の本が、
少し動いた。
それを感じて、
手を添えた。
それだけだった。
電車を降りた。
改札を抜け、
階段を上がった。
地上に出ると、
街の音が戻ってきた。
歩き出す。
目的地は、
頭の中で確認しなかった。
何度か来た道だった。
信号を渡り、角を曲がる。
店の並ぶ通りを、
しばらく歩いた。
紙袋は、
相変わらず軽くはなかった。
持ち替えようかと思って、
やめた。
そのままの方が、
落ち着いた。
歩いているあいだ、
本の中身のことは、
考えなかった。
うまく出来ているかどうかも、
考えなかった。
考えても、
もう変わらなかった。
前を歩く人の背中を、
少し避けた。
自転車が通り過ぎた。
通りの先に、
見慣れた建物が見えた。
看板を見て、
初めて、
着いたと思った。
ON READING
歩く速さを、
少し落とした。
店の前で、
立ち止まった。
紙袋を、
もう一度持ち直した。
中の本は、
動かなかった。
それだけ確認して、
扉の前に立った。
扉を、押した。
思ったより、
軽かった。
鈴の音が、
鳴った。
店の中は、
静かだった。
紙の匂いが、
した。
人の気配は、
あった。
でも、
騒がしくはなかった。
一歩、
中に入った。
扉が、
後ろで閉じた。
外の音が、
少し遠くなった。
棚が、
目に入った。
本が、
並んでいた。
新しい本も、
古い本も、
区別なく置かれていた。
通路は、
狭すぎなかった。
でも、
広くもなかった。
紙袋を、
持ったまま、
少し歩いた。
足音が、
床に残った。
どこを見ればいいのか、
すぐには、
決めなかった。
一度、
立ち止まった。
呼吸は、
普通だった。
店に、
入った。
それだけのことが、
起きていた。
棚の間を、少し歩いた。
何冊か、背表紙を見た。
タイトルは、頭に残らなかった。
紙袋は、
まだ持っていた。
カウンターの方に、
人の気配があった。
近づくと、
店の人だとわかった。
声をかける、
というより、
そこに向かった。
順番を、
待った。
前にいた人が、
会計を終えた。
袋を受け取り、
出ていった。
一歩、前に出た。
カウンターの向こうで、
こちらを見ている人がいた。
目が合った。
すぐに、逸らさなかった。
紙袋を、両手で持ち直した。
何を言うかは、
まだ決めていなかった。
ただ、
ここまで来ていた。
距離は、
もう十分に近かった。
前に、立っていた。
カウンターの前で、
紙袋を、そっと置いた。
中から、一冊取り出した。
表紙が、こちらを向いた。
「自分で作った本です」
声は、思ったより小さくなかった。
一言だけ、付け足した。
「よかったら」
相手は、本を受け取った。
本を受け取ったのは、
黒田さんだった。
重さを、確かめるように、
手に持った。
少し、ページをめくった。
それだけだった。
返事は、短かった。
でも、
否定ではなかった。
本は、相手の手に移った。
それで、動作は終わった。
紙袋を、たたんだ。
一歩、下がった。
会釈をして、背を向けた。
扉の方へ、歩いた。
鈴の音が、鳴った。
外に出ると、
空気が、
少しだけ違っていた。
■ 奥付
行くところなんか、なかった
著者 小林素也
発行日 2026年1月
発行 小林素也
Printed in Japan
これはささやかな個人の記録です。




