セレスの葛藤
翌朝、王都を出る準備が始まった。
武具の整備、物資の調達、情報の収集――旅路に必要なすべてを整えなければならない。
広間では、エリスが帳簿と地図を広げて、きびきびと指示を飛ばしていた。
「保存食は最低一か月分。さらに、メイドたち総出で腕によりを掛けた料理を詰め込みました。ストレージなら劣化もこぼれもありませんから、安心ですわ。……それと、リンカお姉様の特製フラムシープのミートスープも、たっぷりと」
その言葉に、リンカが頬を赤らめて視線を逸らす。
「セージ君が……いつも一番おいしそうに食べてくれるから……。たくさん作っちゃったの」
僕は思わず笑みを浮かべ、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……ありがとう、リンカ。あのスープがあるだけで、どんな旅でも乗り越えられる気がするよ」
その一言に、仲間たちの空気が和み、ミレイユが小さく微笑んで頷き、レイシスは「主様の活力の源でございますね」と静かに言葉を添えた。
そんな温かなやり取りをよそに――無表情のまま、アンナが口を開く。
「ご主人様。夜伽の支度も滞りなく整えております」
広間の空気がぴしりと止まる。
すでに誰もが共有している事実を、あまりにさらりと口にされたため、妻たちの頬が一斉に染まった。
「な、ななっ……っ! こ、ここで言うことではありませんでしょう!」
エリスが慌てて声を上げ、リンカも耳まで真っ赤にしながら必死に手を振る。
ルミナスはなぜか得意げに、「問題ない。ルミナス、いつでもバッチこーい」と鼻息荒く呟き、ミレイユやレイシスも咳払いをして誤魔化す。
一方、シャミーだけは屈託なく首を傾げ、「でもセージ様、ほんとに毎回アンナが用意してくれてるじゃん?」と爆弾を投下し、場をさらなる混乱へと陥れた。
僕は額を押さえて、ため息をひとつ。
「……アンナ。そういうことは、僕にだけこっそり伝えてくれ」
「かしこまりました、ご主人様」
相変わらず無表情のアンナの返答に、誰も追及できず、広間は赤面と笑いに包まれる。
しかし、エリスが調達した物資やリンカの特製スープを僕が【ストレージ】に収めていくと、空気は一変して引き締まった。
干し肉やパン、水、そして愛情のこもった手料理が光に包まれ、次々と亜空間へ吸い込まれていく。
「……これで、どんな状況でも皆の力になる。旅の支えは万全だな」
仲間たちは頷き合い、それぞれの胸に決意を固める。
――緊張と笑い、そして温かな絆を抱きながら、僕たちの旅立ちは目前に迫っていた。
◇◇◇
王都を発つ前夜。
仲間たちは準備を終え、それぞれの部屋で休息を取っていた。
静まり返った廊下を歩いていると、月明かりに照らされた窓辺に、ひとり佇む影を見つける。
「……セレス」
呼びかけると、彼女は小さく振り返り、かすかな笑みを浮かべた。
「眠れなくて……。こうして夜風に当たっていると、心が落ち着くのです」
その声には、どこか影が差していた。
僕は隣に立ち、しばし無言で夜空を仰ぐ。
瓦礫が残る王都の街並み、その向こうに広がる暗い大地。――僕たちがこれから向かうのは、あの先だ。
やがて、セレスがぽつりと口を開いた。
「……私がこの旅に加わること、本当に正しいのでしょうか。聖女としての私は、人々に希望を与える存在。けれど……同時に、混乱を呼ぶ存在でもあります。領地に着けば、きっと人々は『聖女だ』と騒ぎ立てるでしょう。それで秩序が乱れるのではと……」
彼女の手が胸元で強く組まれる。
その姿は、誰よりも人の心に寄り添おうとするがゆえに、自分を縛ってしまう姿だった。
いかに腕輪で正体を隠していても、彼女の慈愛の光は人々の心に明るさと希望をもたらす。
その心の美しさは隠しても隠しきれるものじゃない。
「もし私の存在が、領地の人々を苦しめるのなら……。私は――」
「それは違うよ、セレス」
僕は彼女の言葉を遮った。
その瞳を正面から見つめ、真っ直ぐに言葉を放つ。
「君がいるから守れる命がある。君がいなければ救えない人がいる。僕はそう信じている」
彼女の瞳がわずかに揺れた。
月光に照らされ、涙の粒がきらめく。
「……本当に、そう思ってくださるのですか?」
「もちろんだ。僕たちは、ただ力で押し切るだけの存在じゃない。人々に希望を与える存在でもあるんだ。君が隣にいるから、その希望はもっと大きくなる」
沈黙。
やがて、セレスは小さく微笑んだ。
その微笑みはどこか儚げで、それでも確かな強さを秘めていた。
「……ありがとうございます、セージ様。あなたにそう言っていただけるなら……。私は、胸を張って共に歩めます」
組んでいた両手を解き、そっと目元を拭う。
そしてまるで祈るように、胸に手を当てて言葉を結んだ。
「どうか、この旅で……私の力が本当に誰かの救いになりますように」
僕は頷き、彼女の肩に軽く手を置いた。
その温もりが、彼女の震えをわずかに和らげるのを感じながら。
――こうして、セレスは迷いを胸に抱きながらも、一歩を踏み出す覚悟を固めたのだった。




