炎をまとう影
「……あり得ん。こんな馬鹿げた話があってたまるか」
その低く轟く声は、まるで大地そのものが呻き、地鳴りをあげているかのようであった。
振動は岩壁を伝い、わずかな瓦礫すら小刻みに跳ね上がる。生き物の鼓膜を圧する重低音は、ただ一言を発しただけで聴く者の心臓を鷲掴みにし、恐怖の鼓動を強制する。
ここは既に冒険者たちによって踏破されたはずのダンジョン最深部――朽ちた祭壇と封印の残滓しか残らぬ静寂の領域だった。
だが今やその空気は一変している。重く淀んだ熱気が漂い、石造りの壁は灼け、赤黒く変色し、まるで地獄の口が再び開いたかのようであった。息を吸い込むだけで肺が焼かれる。酸素が炎と血の匂いに混じり合い、生命を拒む瘴気に変じている。
その中心に立つのは――漆黒の巨躯。
煤けた黒鉄の甲冑は全身を覆い、その継ぎ目からは赤熱した溶鉱炉の光が脈打つように漏れ出す。鎧は単なる鉄ではなく、かつて竜の骨を喰わせた魔界の炉で鍛え上げられたと噂され、千の刃に斬られようとも傷一つ残さない。
背に流れる炎のマントは絶え間なく揺らぎ、轟々たる炎の奔流が意思を持つかのように蠢く。視界に収めるだけで網膜を焼きつけられるその輝きは、炎熱の化身を見ているようで、直視に耐えられる者などいない。
巨躯の男が一歩、石床を踏み鳴らす。
その響きは、打ち込まれた巨大な鉄槌のように大地を揺らし、壁に刻まれた古代文字すら震え落ちて砕け散る。
わずかな身じろぎすら、錆びついた鉄鎖の悲鳴のような音を伴い、辺りを圧迫する。彼が存在するという事実だけで、空間は歪み、呼吸は奪われ、意識は屈服へと追い込まれる。
そして――深紅の双眸が開かれる。
灼熱の炉火を思わせるその瞳は、怒りと驚愕とを同時に宿し、見る者を心の底から焼き尽くす。
そこに映るものはただ一つ。すなわち、焼き滅ぼすべき獲物への飢えと、破壊を望む渇望であった。
その名は《烈火の魔将》イグニス。
魔将七柱のひとりにして、最前線を血と炎で塗り潰す災厄の権化。
豪腕ひと振りで大地を裂き、剣を振るえば堅牢な城壁すら紙片のように両断される。
その剣閃に焼かれた者は苦悶の叫びをあげる間もなく灰燼と化し、跡形すら残さない。
過去にはひとつの国を丸ごと火葬にしたと語られ、百年経った今なお、その土地は草一本生えぬ焦土のまま。
彼が進軍すれば、夜空は常に紅蓮に染まり、風は灰を運び、大地は数十年もの間冷えぬと伝えられている。
人の想像を超えたその威容は、もはや生きた戦士ではなく、破壊そのもの。
イグニスの存在こそが「災害」として語られ、神殿においても災厄神の眷属として記されている。
――そして今、その災厄が、再び歩み始めた。
「実験用に放棄された個体とはいえ……ツインヘッド・ダークドラゴンが討たれた、だと?」
赤黒い髪を逆立て、灼熱の吐息を荒々しく洩らす。
常人が目にすることすらなく一生を終えるであろう巨獣。鋼鉄より硬き鱗、二つ首から吐き出される呪炎は街ひとつを焼き尽くす。冒険者の国一つを滅ぼすに足る怪物――その存在を“訓練用”と呼ぶ魔将たちの異常さ。
だが、その怪物が倒されたなど、神話でもなければ有り得ぬ。
「……残滓がほとんど無い。完全に討伐され、魔結晶にまで還ったか」
イグニスの拳に巻かれた鋼鉄の籠手が悲鳴を上げるほど握り込まれる。
もしこれを単独で為した人間がいるとすれば――それは脅威という言葉すら生温い。もはや災害と呼ぶべき存在。
「その通りだ、イグニス」
不意に闇がざわめいた。壁一面に、天井に、床に――無数の瞳が爛々と浮かび上がる。
《千眼のヴァルナ》。魔将七柱のひとり、情報と監視を担う異貌の男である。
全身を覆う眼球は一つ一つが意思を宿し、不気味に瞬きを繰り返すたび、見ている者の心を削り取る。
「監視に置いた我が眷属から報告があった。事実――ただ一人の少年が、一刀の下に葬った」
「馬鹿な……! 人間風情が、あの巨躯を一撃で……?」
「だからこそ、脅威だ」
ヴァルナの眼のひとつが赤光を帯び、岩壁に像を結ぶ。
そこに映し出されたのは剣を掲げる青年の姿。巨竜の双首が切り裂かれ、なお残光のように輝く剣閃が空気を裂いている。
その眼差しは未熟な若者のものでありながら、底知れぬ可能性を孕み、見る者の胸に言い知れぬ不安を植え付ける。
「……面白い。まだ若い。だが育てば必ず、我らの前に立ちはだかる」
「居城へ戻り、主に報告せねば――」
「その必要は無い。既に我が配下を走らせてある」
「さすがは千眼のヴァルナ……だが俺はこの男を狩る。芽のうちに折らねば、やがて災厄と化す。我が主のためならば、叱責など甘んじて受けよう」
燃え立つマントを烈しく翻し、イグニスは踵を返した。炎の残滓が空気を灼き、残る者の肌を焦がす。
ヴァルナは残された千の瞳でぎょろぎょろと笑い、吐き捨てる。
「忠義の猛将よ……だが直感が当たるか否かは、私が確かめる。闇ギルドで丁度良い駒を手に入れた。例の魔道具の実験台にしてみるとしよう」
不気味な笑い声がダンジョンに反響し、石壁が不吉に震えた。
――烈火の災厄が動き出し、千の眼を持つ陰謀家が牙を研ぐ。
大いなる組織は、確かに世界へと影を伸ばし始めていた。
その影が迫り来ることを、セージたちはまだ知る由もない。
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