サッカス湿原戦・前夜
夜の帳が降りる頃、王都はようやく静けさを取り戻していた。
戦の焦げ跡を洗い流すように、街路の灯がゆらめく。
人々の笑い声が戻りつつある――その音が、何よりの救いだった。
王城のテラスで、僕は深呼吸をした。
乾いた空気の中に、微かに湿った風が混ざっている。
遠く――西の方角から。
「……湿原の匂いだ」
呟くと、背後から軽い足音が聞こえた。
「セージ君、また気配を感じたの?」
リンカがワイン色のマントを翻して現れた。
月光を受けた銀狐の耳が、かすかに揺れる。
「ああ。……でも、悪意はまだ遠い。
ただ、何かが“目覚めた”ような感じがする」
リンカは黙って頷き、空を見上げた。
その眼差しは静かで、どこか凛としていた。
「……サッカス湿原。魔素の流れが乱れてる。
普通なら感知できない距離だけど、これははっきり分かる」
「ギルド長の報告と一致してるな」
「うん。明日にははっきりするはず」
彼女がそう言った瞬間――テラスの扉が開いた。
聖衣の裾をたたみながら、セレスが現れる。
その隣には、淡い蒼衣をまとった少女がいた。
……ザハル王国の王女、リシェル=ザハル。
ベロク戦のあと、僕たちが地下神殿で救出した少女だ。
白金の髪が夜風に揺れ、瞳の奥に澄んだ光を宿している。
「セージ殿」
彼女が丁寧に頭を下げた。
「ルインハルド国王陛下より、正式な謝辞が伝えられました。
我が国ザハルの避難民も、今夜よりこの王都で受け入れが始まります」
「そうか……よかった」
思わず胸をなでおろした。
メルダナで瓦礫の下から祈りを紡いでいた彼らの姿が、脳裏に浮かぶ。
その命が繋がったというだけで、救われた気がした。
セレスが静かに頷く。
「祈りは確かに届いていたのです。
この地に新しい“黎明”が芽生えようとしています」
リシェルはその言葉に微笑み、両手を胸の前で組んだ。
「黎明の聖樹……。聖女セレス様、そしてセージ殿。
この身に宿る祈りも、どうかお二人に託させてください」
「祈りを託す?」
僕が問い返すと、彼女は小さく頷いた。
「滅びゆく国々で、まだ多くの声が眠っています。
それを……“形”に変えられるのは、あなたしかいない」
その目に、確かな決意があった。
幼い印象とは裏腹に、彼女の言葉は芯を持っていた。
僕は静かに応じた。
「分かった。――その祈り、ためさせてもらう」
そう言うと、胸の奥で微かな光が灯った。
〈祈りストック:+200〉
〈共鳴率:安定〉
リシェルの祈りが、確かに僕の中に流れ込んでくる。
柔らかい、けれど揺るぎない想い。
その瞬間、世界のノイズが少し遠ざかった。
「……あたたかいですね」
セレスが微笑む。
「魂の温度が伝わってくる……これが祈りの共鳴」
「セージ君」
リンカが口を開く。
「今の波形、妙だよ。
“祈りの共鳴”と同時に、湿原の魔素がほんの少し――震えた」
「え?」
僕は息を呑む。
つまり、祈りをためた瞬間、遠く離れた湿原が反応したということか。
「もしかして……奴らも感じ取ってる?」
「ええ。祈りは光。闇はそれを嫌います。
光が届けば、闇も必ず動く」
セレスの声が、夜風に溶けていった。
空を見上げると、月が雲に隠れかけていた。
静寂が戻る――けれど、その静けさの下で、確かに“戦の鼓動”が動き始めている。
明日、僕たちはサッカス湿原へ向かう。
そこで待つのは、三体の魔将。
祈りと絶望が交わる地で、また新たな光をためるために。
翌朝――僕たちは、王都を発った。
行き先は西方、サッカス湿原。
ギルドからの正式依頼には、こう記されていた。
『サッカス湿原周辺における異常魔素の観測。
反転祈祷の残滓と見られる現象あり。要調査。』
……要調査、か。
言葉は軽いが、あの黒砂の“主”が関わっているなら、間違いなく危険だ。
朝霧を切り裂くように、ルミナスが前方で転移陣を展開する。
「――リ・テレポ、起動」
彼女の指先が光り、空間が歪む。
一瞬で景色が変わった。
砂混じりの風が頬を打つ。
そこはもう、湿原の入口――サッカス西端。
「……着いたな」
「相変わらず、転移の精度がすごいね」
リンカが軽く笑う。
彼女は背中の弓を下ろし、矢筒を確認した。
「矢のストックはOK。ストレージ残量、二百立方メートル。
……って、あたしの矢だけでこの数字ってどうなの?」
「僕の方は、装備と補給品合わせて八百㎥くらいかな」
僕は苦笑しながらストレージウィンドウを確認した。
食料も回復薬も、時間停止ストレージ内で鮮度そのまま。
魔素ストックを圧縮していけば、街ひとつだって格納できる。
「ふふ、ほんと規格外だね」
リンカが呆れたように笑う。
けれど、その目には頼もしさが宿っていた。
セレスが静かに歩み寄る。
「湿原特有の魔素反応……感じます。
空気が、少しだけ“祈り”を拒んでいる」
「拒んでる?」
「ええ。まるで、反転陣の残滓がまだ息をしているようです」
僕は地面に手をついた。
ぬかるんだ土が、低く脈打つ。
感触だけで分かる――これは自然じゃない。
「……生きてる。いや、“何かをためてる”」
「また、ためる系か」
リンカが顔をしかめた。
「反転祈祷の残骸が“ためて”るって、ちょっと嫌な予感しかしないんだけど」
「分析を頼む、リンカ」
「了解」
彼女の瞳が銀に輝き、【分析】の魔法陣が展開する。
数秒の静寂のあと、息を呑む声が上がった。
「セージ君……この魔素、ベロクのものだ」
「ベロクの……?」
「うん。たぶん、第二形態のときに放出した“暴食神核”の残滓。
まだこの大地に染み込んでる」
ルミナスが一歩前に出た。
「暴食……魔素の循環、止まってない。
この湿原そのものが、喰われかけてる」
「じゃあ――浄化が先だな」
僕は腰の剣を抜き、刃先に祈りの光を纏わせた。
金属音が空気を裂く。
セレスが隣で聖句を唱える。
「――ルミナリエ・サンクトゥス」
白い光が円を描き、湿原の一帯を包み込む。
空気が揺らめき、黒い霧が浮かび上がった。
まるで、何かが“目を覚ます”前の息遣いのように。
「……見える?」
「ええ。輪郭が浮かんでます」
リンカが弓を構える。
矢先が光を帯びる。
ルミナスは掌を開き、魔力を集束。
「セージ、反応三つ。……でかい」
「やっぱり、来たか」
湿原の奥から、黒い泡のような魔素が吹き上がる。
泥の海が沸騰し、巨大な影が姿を現した。
六本の腕を持つ影。裂けた口から、残響のような笑い声が漏れた。
「……ベロクの“亡骸”……?」
セレスが息を呑む。
だが、その声に答えるように――湿原の奥から別の声が響いた。
「“亡骸”じゃないわ。あれは“継承体”。」
氷のように冷たい声。
霧の向こう、白銀のドレスが揺れる。
その姿を見た瞬間、空気が一気に凍りついた。
「……セレーネ」
僕は剣を握り直した。
氷刃の魔将――七魔将のひとりが、そこにいた。
「ベロクの愚鈍な暴食を引き継ぎ、この地に残した残滓。
それを処理するのも、私たちの“管理”のうちよ」
冷たい瞳がこちらを射抜く。
「もっとも――あなたたちがそれを浄化しようとしているのなら、
話は別だけれど」
ルミナスが前に出た。
「……冷たい。あなた、炎を嫌ってる顔」
「当然よ。氷は、全てを静止させるためにある。
燃やすための力など、不要」
「へえ。じゃあ――燃やされる覚悟はある?」
ルミナスの瞳が金に染まり、掌に光炎が灯る。
「セージ君」
リンカの声が鋭く飛ぶ。
「解析完了。セレーネの魔素波、通常の三倍――戦闘形態だ!」
「……来るか」
氷刃が閃き、空気が切り裂かれる。
湿原の水面が瞬時に凍り、僕たちの足元まで氷が迫った。
「全員、広がれ!」
僕は叫び、剣を構え直す。
〈加速ストック:4000/4000〉
〈祈りストック:8000/8000〉
〈共鳴率:上昇〉
白と赤の光がぶつかる――
炎と氷が混じり合い、世界が軋む音を立てた。




