影より這い出るもの
路地の奥は、昼なのになお暗い。
街のざわめきが遠のき、ひとたび足を踏み入れると――湿った空気と、土と血が混じったような匂いが鼻を突いた。
「……嫌な感じ」
ルミナスが小声で呟き、指先に赤い火を灯す。その光が周囲を照らすと、壁一面に黒い紋様が浮かび上がった。
「これって……」
リンカが矢を構えながら息を呑む。
「血で描かれた紋章……呪術の一種だな」
アテンさんが剣を抜き、険しい目で紋様を見据える。
「間違いない。これは召喚陣だ。……だが既に発動した後のようだな」
次の瞬間――。
瞳は真っ黒に塗り潰され、口からは呻き声とも悲鳴ともつかぬ声が漏れている。
「に、人間……?」
セレスが目を見開き、両手を胸に当てる。
「いえ……これは、人を喰らい、影に呑まれた存在。魂を鎖で縛られています」
闇が蠢く。人の形を取ったそれは、皮だけが薄く残る“残骸”のようだった。瞳は黒く塗り潰され、口は呻くような声を漏らす。
セレスが息を詰めて顔を伏せる。
「いえ……これは、人を喰らい、影に呑まれた存在です。魂が鎖で繋がれている」
胸がぎゅっとなる。――間に合わなかった。だが、そのとき、僕の視線はふと一つの細部に吸い寄せられた。黒く覆われた顔の奥に、微かに人の表情が残っている個体がいる。唇に、一瞬だけ言葉のかけらが滲んだ。
(まだ……人の名残がある)――直感だった。
「セージ様、あの者――まだ、取り戻せるかもしれません」
セレスの声は震えていたが、そこには確信も混ざっている。僕は彼女の眼差しを受け止めた。
「無理はするな」とアテンさんが低く言う。だが彼の目は、セレスを信頼している。
僕らが防御陣を構える間に、セレスはゆっくりと両手を組んだ。白い袖が乱れ、彼女の掌に淡い光が宿る。祈りのような低い詠唱が、路地の空気を震わせる。
「ホーリー・……リストレーション」
言葉が放たれた瞬間、光が伸びる。セレスの前に立った影のひとりが、その暖かな光に触れた。黒の覆いがゆらりと揺れ、朧げだった顔の輪郭が少しずつ戻ってゆく。まるで夜明けの霧が溶けていくように。
僕は目を奪われた。光はその者の胸へと入り、喉から出そうとしていた呻きが、ついに人の声に変わる。
「……あ、あの……」
かすれた声。崩れかけた表情の中に、うっすらと涙が滲んだ。目の奥には、僕たちと同じ“生”の驚きがあった。
セレスは額に手を当て、さらに祈りを重ねる。だがその頬は蒼く、呼吸は浅く乱れている。術は確かに働いた。だがその代償は明白だった。セレスの掌から流れ出た光の一部が、ゆっくりと消えかかっている。
僕は一歩前に出て、そっとその元冒険者の肩に手を添えた。彼は涙混じりに僕の手を握り、震える声で言った。
「助かった……ありがとう、あんた達……」
「大丈夫だ。ここは安全だ」
僕は力なく笑いながら言う。だが背後では、地面に浮かぶ赤黒い線が脈打ち続けているのが見える。術は個を救えても、呪紋の核まで一掃する力はない。
アテンさんが厳しい表情で地面を指差した。
「見ろ。ここに描かれた血の紋様が残っている。個体の浄化は出来ても、これが残る限り、同じことが繰り返される」
フェンネルさんが杖を軽く叩いた。
「そうね。こうした術式は核があって、それを破壊しない限り、場の呪いは消えないわ。けれど……命が戻る姿を見られたのは、救いよ」
セレスは膝をつき、額に冷たい手を当てている。力が抜けた体をザークさんが支えた。彼女の顔は青白く、唇がほんの少し震えている。
(ホーリー・リストレーションは、個体を「戻す」ことが出来る――だが、場そのものを消すには別の対処が必要だ)
考えがまとまる。術の特性がはっきりと見えたことで、僕らの作戦は変わる。個を救う救援班と、呪術核を探して断つ班に分かれる必要がある。
ルミナスが、いつもの小声でぽつりと言った。
「セージ。……セレス、重い」
僕はすぐにフィーリングリンクを起動し、セレスの疲弊を共有する。温かな鼓動が僕の胸に流れ込み、彼女の呼吸がやや安定するのを感じた。リンクで分かち合うことで、彼女の回復を助けられる――が、それにも限界がある。
元の冒険者は薄く目を開け、僕らを見上げた。瞳にはまだ微かな恐怖が残るが、確かに「生」が戻っている。彼は震える声で呟いた。
「呪術……奴らが、町を……気をつけてください」
その言葉に、僕ら全員の顔が硬くなる。路地の奥で、別の影がずるりと形を取ろうとしている。
アテンさんが剣を引き、静かに言った。
「いいだろう。まずはこの一人を避難させよう。だが、呪紋の根源は放置できない。追う」
僕は剣に手を添え、セレスの手を軽く握った。彼女は僕の指先を一瞬だけ強く握り返す。小さなやり取りに、胸が詰まる。
(……セレスがいてくれて、本当に良かった。だが、これで安心は出来ない)
路地に残る赤い紋様を見つめながら、僕は静かに誓った。個を救う祈りを守りつつ、呪いを根絶するために――僕らは一歩、また一歩、暗へと進むのだ。




