見えぬ未来の先へ
朝靄の中を歩くたび、森の湿った空気が肺にまとわりつく。
靴底に残る冷たい露の感触さえ、やけに鮮明に感じられた。
(確証はない……だが行くしかない。ヴァルナが未来を縛るなら、俺たちがその未来を切り裂くしかない)
剣の柄を強く握り込む。母の墓前で誓った言葉が、胸の奥で静かに熱を帯びていた。
「誰も、もう奪わせない」――その誓いだけが、足を前へと進ませる。
林の影で、リンカが耳を震わせた。
「……気配がする。すぐそこだよ」
彼女の弓に矢が番えられ、緊張が張り詰める。
ルミナスが鼻で笑うように肩を揺らした。
「隠れても無駄。ルミナスたちの敵、もう見つかった」
セレスは胸の前で小さく祈りを重ねる。
「神よ……どうか、この一歩が人々を救う力となりますように」
薄暗い木々の奥、視界に蠢く影がひとつ。
それは霧のように輪郭をぼかしながら、こちらを待ち受けていた。
(……来る……!)
僕は剣を引き抜き、構えを取った。仲間たちも同時に武器を掲げる。
森に、風ではない震えが走った。
その影の奥から、無数の眼が――ぞっとするほどの数が、ゆっくりと開いていった。
ぞわり、と背筋を這い上がる悪寒。
闇に浮かんだ無数の眼は、まるで一斉に僕らを覗き込んでいるかのようだった。
(……数が多すぎる……! 人間の眼じゃない。あれが……ヴァルナの本体……!)
老人のように痩せ細った影が、ゆらりと歩み出る。
その顔にも、腕にも、胸にも――眼、眼、眼。無数の瞳が瞬きを繰り返し、不気味に蠢いていた。
「……未来は、すでに視えている……」
かすれた声が木々を震わせ、森全体にこだました。
リンカが矢を引き絞るが、すでにその狙いは逸らされる。
「えっ……!? 放つ前に……避けられた……!?」
ルミナスが苛立ちを隠さずに火球を掲げる。
「なら、まとめて焼き尽くす!」
だが火球が生まれるより前に、ヴァルナの眼がぎょろりと動き――爆炎は空しく虚空を焼くだけだった。
「無駄だ。お前たちが思う前に、すでに視ている」
老人の声は淡々としているのに、ぞっとするほど冷たい。
セレスが祈りを重ね、光の盾を展開する。
「神よ、どうか――」
しかしその言葉すら途中で断ち切られるように、黒い瘴気が盾の輪郭を侵食していった。
僕は奥歯を噛み締める。
(やっぱり……すべて読まれてる……! 一手先、いや数秒先の未来を……!)
だが――諦めるわけにはいかない。
剣を握り直し、仲間の方へと声を投げた。
「……恐れるな! 奴が未来を視るなら――その未来を、俺たちで壊すんだ!」
無数の眼が、僕を嘲笑うかのように蠢いた。
次の瞬間、森そのものが牙を剥いたように、影が襲いかかってきた。
闇から這い出た影が、牙を剥いて僕らへ飛びかかってくる。
形は獣に似ているのに、頭部にも胴にも眼が散りばめられ、まるで一体ごとに“監視塔”の役割を果たしているようだった。
「くっ……!」
僕は剣を振るい、迫る影を両断した。
だが切り裂いた瞬間――別の方向から突き上げる爪が迫る。
避けたつもりが、ほんの一瞬遅れた。肩をかすめた爪痕が熱く焼ける。
(……攻撃が来るのを読まれてる……! 全部……!)
「セージ君っ!」
リンカが矢を放つ。だが、矢は敵に届く前に不自然に逸れ、木の幹へ突き刺さった。
「そんな……狙いを外された……!?」
ルミナスが両手をかざし、炎を纏った狼を呼び出そうとする。
だが詠唱が終わるよりも早く、ヴァルナの眼がぎょろりと動き――召喚の陣は掻き消される。
「なっ……! ルミナスの魔法まで……!」
セレスは必死に祈りを紡ぎ、僕の肩の傷を癒そうとする。
しかし、輝きかけた癒しの光は黒い靄に覆われ、跡形もなく掻き消された。
「……っ、回復も……通じません!」
老人の声が森全体に響いた。
「無駄だ……お前たちの“未来”は、すべて我が眼に刻まれている。剣も、魔法も、祈りすらも……」
不気味なほどに淡々とした声。
それがかえって心臓を締め上げ、僕らの動きを鈍らせていく。
敵は止まらない。
眼を持つ異形が次々と這い出し、僕らを取り囲む。
剣を振れば空振り、矢を射れば弾かれ、魔法も祈りも消される――。
(このままじゃ……本当に……!)
焦燥で胸が焼ける。だが、諦めるわけにはいかなかった。
僕は再び剣を握り直し、歯を食いしばった。
「……負けるもんか……! 未来なんて、俺たちの手で変えてみせる!」
その声に応えるように、仲間たちの瞳にも再び光が宿った。
けれど、ヴァルナの眼はなお蠢き続け、未来を絡め取ろうとしていた――。
リンカが深く息を吸い込み、矢を番えた。だが、狙いをつけるのではなく、わざと空に向かって放つ。
「えっ……!? リンカ、何を――」
矢は枝葉を切り裂き、空に消えていく。意味のない行為に見えたが――ヴァルナの眼が一瞬、そちらへ向いた。
(……効いてる! 無意味な行動……奴の未来視を揺らがせる!)
ルミナスがにやりと笑い、炎を掴んで地面に叩きつける。
「爆発! ……しない」
派手な動作のあと、炎は何も生み出さず消えた。
それでも、ヴァルナの眼がぎょろりと動き、未来を乱されたのか一瞬硬直する。
「……馬鹿な、なぜ……無駄な動きに、未来が……乱れる……!」
セレスは両手を胸に当て、祈りを紡ぐ。だが癒しの光は生まれない。
代わりに、彼女は小さく笑った。
「……祈りは届かなくても、心は奪えません」
その静かな言葉に、ヴァルナの眼がざわめく。
僕は剣を握り、あえて大きく空を斬った。
風を切るだけの無意味な一撃。だが、ヴァルナの顔が歪む。
「……読めぬ……! なぜだ……未来は確定していたはず……!」
無数の眼が蠢き、映像が揺らぎ始める。
血に倒れる仲間の姿も、折れた剣の未来も、すべて靄のようにぼやけ、崩れていく。
(そうだ……! 未来は決して決まってなんかいない! 俺たちの一手一手で、いくらでも変えられる!)
僕は大きく踏み込み、眼の揺らぎの狭間へ切り込んだ。
――その瞬間、ヴァルナの声が森を震わせた。
「……愚か者ども……だが……ここからが真の試練よ……!」
無数の眼が一斉に輝き、森が異様な気配に包まれていった。




