呼び方を変えた日
咲季たちが小学生の時のお話。
小学校に入学して三ヶ月ほど。咲季は学校生活に慣れていた。
家に帰って早々に宿題を終わらせ、今はA4サイズの画用紙と向き合っている。リビングのテーブルの上に置いた真っさらな紙に、色鉛筆で大好きな友達の姿を描く。
「あら、天夏ちゃんを描いてるの?」
隣でテレビドラマの再放送を観ていた母が問うてきた。
咲季は満面の笑みで顔を上げる。
「うん! 明日は天夏ちゃんのお誕生日だから渡すの!」
「喜んでもらえるといいね」
「うん!」
大きく頷き、再び絵と向き合う。
そうする咲季には、もう一つ楽しみにしていることがあった。絵を描きながら、学校で話していたことを思い返す。
「ねぇ、天夏ちゃん」
「何?」
「あたしね、明日から天夏ちゃんのこと、ちゃん付けしないで呼ぶからね!」
咲季は、少し前から決めていたことを言葉にした。
天夏の瞳が、不思議そうにしている。
「いいけど、何で明日なの? 私も〝咲季〟って呼んでるんだから今からでもいいのに」
「明日は天夏ちゃんの誕生日でしょ?」
「うん」
「あたしね、誰かのことを名前だけで呼んだことがないんだ。だからそれを大切にしたくて、誕生日に呼び方を変えたいの」
素直に理由を伝えると、天夏が優しく微笑んだ。
「そう。楽しみにしてるわ」
笑った顔を見た咲季は「今の天夏ちゃんの顔を絵にして明日渡そう」と思いついた。
そして今、それを描いている。
明日が待ち遠しかった。
翌日。
登校した咲季は教室の自分の席に着くと、ランドセルの中身を机の中に移した。クリアファイルに入れた一枚の絵を除いて。
「それ、誕生日プレゼント?」
右斜め前の席に座って体ごとこちらを向いている稜秩が聞いてきた。
咲季は得意げな笑顔を見せる。
「うん! 昨日描いたの! 天夏ちゃんが来たら渡すんだ」
「ちゃん付けも今日で終わりなんだっけ」
「そうだよー。今日から名前だけで呼ぶの!」
明るく話す咲季は、落ち着きなくドアの方をチラチラ見る。
その様子を稜秩が静かに見守っていた。
しばらくして、天夏が教室にやってきた。
「おはよう!」
「おはよう」
咲季の声はいつもより弾んでいる。挨拶を返してくれた天夏が、自分の前の席に座った。
ランドセルから取り出した教科書やノートを机の中にしまっている後ろ姿を、じっと見つめる。
どのタイミングで声をかけようか。考えつつ、今日からちゃん付けをしないで名前を呼ぶんだと思うと、どきどきした。
「天夏」
優しく名前を呼ぶ。言葉では表現ができない、不思議な感覚だった。でも、違和感はない。
反応して振り返った顔は嬉しそうに笑っている。天夏との距離が、さらに縮まった気がした。
咲季も、あふれんばかりの笑顔を見せる。
机の上に置いてある画用紙をクリアファイルから出し、天夏に差し出した。
「お誕生日、おめでとう!」
「ありがとう」
画用紙を両手で受け取った天夏が、絵を見つめる。
「これ、私?」
「うん! 天夏にプレゼント!」
「すっごく嬉しい」
二人は目を合わせ、微笑む。
今日は天夏の誕生日で、咲季が名前の呼び方を変えた日。
彼女たちにとって、七月七日は特別な日となった。