山羊の頭と宝人
夕日が差し掛かった草原を、一人の青年が歩いていた。二十代ほどで中肉中背、腰ほどまである赤銅色の髪を後ろで束ね、大きな荷袋を背負っている青年だった。青年はとぼとぼと歩いていたが、やがて立ち止まると荷袋から地図を取り出す。
「今この辺りだから、ハネマ村にはもう少しで着きそうだな」
ボソッと呟く青年。やがてゴソゴソと地図を袋にしまうと、また歩き始めた。草原は穏やかな風が流れ、とても心地いい気温を保っている。日没は近かった。
地図を取り出してから数十分後。青年は予定通りにハネマ村に到着した。二人の門番に自分は旅人であること、一夜の宿が欲しいことと、村長に挨拶をしたいということを話すと、門番達は快く通してくれた。すっかり日も暮れて、家々からは光がこぼれ出ている。たまに楽しそうな話し声や笑い声も聞こえ、青年も思わず笑みがこぼれる。しかし、大きな道を村長宅に行こうと右に曲がったその時。
「……なんだ? お前は」
目の前に一人ぽつんと立っていた少年に、青年は少し驚いた。村の中なら子供がいること自体は当たり前なのだが、驚いたのはそこではなく。少年の頭の部分が人間のそれではなく、山羊の頭部だったのだ。頭は山羊、体は人間という奇怪な姿を見て、青年は思わず一歩下がる。
「……」
しかし少年は何も言うことはなく、青年の横を通り走り去ってしまった。瞬間、青年は後ろを振り返るが山羊頭の少年の姿はすでに居らず、首を傾げる。
「何だったんだ、一体」
少しもやっとした感情を抱きながらも、青年は村長の家に到着した。木造ではあったがさすがは村長の家と言ったところで、敷地の広さは十分にある。家のドアを二、三度軽くノックをすると。
「はい、どちら様でしょうか?」
出てきたのは壮年の女性だった。白髪交じりの髪の毛とほうれい線が少し目立つその女は、訝し気に青年を見つめる。
「初めまして。私、この国を旅してまわっているニタライという者です。これを見てもらえば、私がどんな人物かは大体わかると思いますが」
それだけ言うと青年、いやニタライは懐から鎖付きのペンダントを取り出した。金色の枠組みに赤い宝石が入っているペンダントで、宝石の中に竜の意匠が施されている。それを見た女は、驚きのあまり声を震わせ、叫んだ。
「た、宝人の証!? この国に十人といないと言われている、あの!? そ、村長!!」
慌てて中に入って村長を呼ぶ女。そう、ニタライが取り出したのはそれほど重要なペンダントだった。
「宝人の証」というのは、この国において特別な偉業を成し遂げた、数人の人物にのみ授けられている証のことである。例えばこの国の軍を統括する騎士団長や、国外に潜んでいた竜を討伐し莫大な財宝を持ち帰った勇者などが持つものだった。純金の枠に「レストライト」と呼ばれる、角度によっては虹色に見える赤い宝石を入れたもので、この証と同価値の金で城も建てられるほどだと言われている。
「た、宝人様でございますか!? よ、よくぞわしらの村へ来てくださりました! 村の総力を挙げて歓迎いたしますぞ!!」
ドタバタとした音を立てながら、腰が少し曲がりかけた老人が現れ、女と同じく慌てふためきながら言う。あまりの驚きぶりに、ニタライは少し苦笑した。
「いえ、私は一夜の宿を求めてこの村に立ち寄っただけなので、豪華な出迎えは結構ですよ。どこか泊まれるところはありませんか?」
「こ、この村の中ではわしの家が一番広く綺麗です。それでも宝人様を泊めるには粗末なボロ屋ですが、どうぞごゆっくりしていってくだされ」
「そうですか? わざわざすみません。明日の朝には出ていくので、それまでよろしくお願いします」
こうして、ニタライは村長の家へ通された。家の中はこざっぱりとしていて、家具も少な目ではあったが、寝泊りするには十分すぎる広さだった。長テーブルに案内され、座るとすぐ温かい茶が運ばれてくる。気遣いを断るわけにもいかず、ありがたく茶を頂戴するニタライ。
「後で食事も運ばせてきますので、今しばらくお待ちくだされ」
「いえいえそんな。ありがとうございます。……それにしても疑問なのですが、私が持っている証が偽物だとは思わなかったのですか? 失礼ながら、証を持つような人物はこの辺りにはあまり来ないでしょう」
「いや、わしには宝石商の友人がいましてな。レストライトを見る機会に二、三度恵まれたことがあるのです。慌てて玄関に行ったときはまだ半信半疑でしたが、証を見た時に本物じゃと確信いたしました。いやはや、宝人様を迎え入れるなどわが家系にとって最大の名誉です。改めて、心から歓迎いたしますぞ。おい、ラナミ。早く夕食を持ってきなさい」
ラナミ、と呼ばれた先程の壮年の女は、その言葉と共に急いで台所に向かう。ニタライは遠慮しようとしたが、これ以上何か言うとより丁寧なもてなしをされそうなので黙っておくことにした。
― ― ― ― ―
「なるほど。この辺り一帯は最近、魔物の出現が頻発しているんですね」
「そうなのです。若い衆たちがなんとか討伐してくれているものの、日に日に増える一方で。それもこれも、魔物と同時に出てくる霧に何かあると睨んでるんじゃが……」
夕食を済ませた後、暖炉の前で団らんしながらニタライと村長は話し込んでいた。ニタライの簡単な旅の経路などの話を経て、この地域に頻発する魔物の出現の話になったのだ。ニタライは眉間にしわを寄せる。
「ふむ。私に何かできることがあればいいのですが。その霧は私も怪しいと思います」
「そうですじゃろう? わしも何人か頭の切れる者を霧の調査にやってるのですが、誰も謎を解明できないままなのです」
「実は私、魔術師でして。その霧に魔術的な因果がないかくらいなら調べられるかもしれません」
魔術師。この世界における不思議な力、総じて「魔術」と呼ばれるものを操る者たちのことである。ある者は動植物の心の声を聴き、ある者は雷鳴とどろく雨を降らすことができ、またある者は悪霊を追い払えたりと、その技術は多種多様だった。
「おぉ、魔術師様でしたか! それならもしかすると、この霧の謎も解いていただけるかもしれませぬな」
「明日になったらここを発つつもりでしたが、しばらくとどまって原因の究明をしてみましょう。……そういえば、霧以外にももう一つ気になることがあるのですが」
「なんですかのう?」
「先ほどこの家に来る前に、村の中で山羊の頭の被り物をした少年を見かけましたが、この村にはそんな変わった少年がいるのですか?」
ずっと考えていたことを口に出すニタライ。地方独特の風習があの山羊の頭だと言われたらそれまでの話だったので、それを願っていたが、しかし。
「山羊の頭の被り物をした子供? いや、わしらの村にそんな子供はいないはずじゃが……大方子供たちの誰かがふざけてそんなことをしたんじゃないですかのう? 少し気味が悪いが」
村長も、全く覚えがない様子でそう答える。いたずらで山羊の頭を被るのはいささか猟奇的すぎるだろう、魔術的な何かがもしかしたらあるのやも、とニタライは言いかけるが寸前で思いとどまる。
「もしかしたら私の見間違いかもしれませんね。長い間旅が続いていたので、少し疲れているのかもしれません。そろそろ横になりたいと思います」
もしあの山羊頭の子供に魔術的な何かが絡んでいるとしたら、ここで迂闊に村長に話すことで村長が魔術の標的になってしまってはいけない、と思いとどまりそれ以上は何も言わなかった。立ち上がると軽く村長に挨拶をしてから、先ほど案内された客用の寝室に向かった。
― ― ― ― ―
「ん……」
翌日、ニタライは朝早く目を覚ました。ベッドから起き上がり窓を見てみると、外は真っ白な霧に覆われている。
「おぉ、起きられましたか。おはようございます、ニタライ様」
「おはようございます、村長。これが昨日言われていた霧ですか」
寝室を出て居間に行くと、既に村長も起きており互いに挨拶を交わす。
「そうなのです。今日の霧はまた一段と濃い。どうにかして晴れればいいんじゃが」
「私は昔、霧払いの術を習得した覚えがあります。この霧に通じるかどうかはわかりませんが、試してみる価値はあるでしょう。外でやってみます」
「おぉ、そんな便利な術があるのですか! ありがたいことです、よろしくお願いいたします」
「魔物が現れてはいけないので、念のために村長達は家の中で待機していてください。では、行ってきます」
ニタライは寝室に置いてあった荷袋から、身長の七分の一ほどの小さな杖を取り出し、右手に持つと家を出る。朝のハネマ村は、霧が出ているからなのかひんやりとした心地よい涼しさだった。
「さて、と。これくらいの濃さの霧だったら何とか払えるかな?」
杖で地面に複雑な紋様を書き始めるニタライ。三角、四角、そして星形など、たくさんの図形を組み合わせて独自の紋様を作り出す。魔術における、「術印」と呼ばれる重要な紋様だった。そして書き終わると、かがんだまま杖を紋様の中心に刺し込み、低い声で呟く。
「晴嵐星、地の集いにて行われリ。霧払いの陣」
瞬間、術印の周りからじわじわと霧が晴れていく。一息ついて汗を拭うニタライだったが、しかし。霧が晴れた後に目の前に現れたものを見て、驚愕する。
「お前は……山羊頭」
そこには昨日と同じく、山羊頭の少年の姿があった。すっと立ち上がり、杖を少年に向けるニタライ。少年が魔術的な何か、もしくは魔物だとしたら、防御をするには杖の力に頼るしかなかったからだった。
「お、おにい、さん」
しかし、そんなニタライの警戒態勢とは別に、山羊頭の少年は山羊の口を開けてか細い声でしゃべりだす。
「なんだ、もしかしてお前、喋れるのか?」
魔物が人語を話すのはとても珍しいことであり、発見例が数例しかない貴重なものだった。まだこの少年が魔物と決まったわけではなかったが、少なくとも話を聞いてみる価値はあると思い、ニタライは杖を下ろして少年の目線にまでかがみこむ。
「……少年、話してみろ。聞くだけ聞いてみよう」
「ぼ、くは。ぼくは」
霧が晴れた早朝の村で、山羊頭の少年の話を聞くという奇妙な空間が生まれる。そして少年が喋った内容は、ニタライが言葉を失うようなものだった。
― ― ― ― ―
「おぉ、おかえりなさいませ。窓から霧が晴れていくのを、わしとラナミも見まし……」
少年の話をニタライが聞き始めてから、およそ十五分後。玄関の扉を開け帰ってきたニタライを見て、村長は出迎えに立ち上がる。しかし、ニタライの顔を見て村長は口をつぐんだ。傍から見てもはっきりわかるくらい、険しい顔をしていたからだった。思わず、村長の横に立っていたラナミがニタライに声をかける。
「ど、どうされました? 何か霧払いをした上でよくないことでも起こったのでしょうか?」
「……いや、そういうわけではないです。しかし村長、あんな事件がつい最近起こっていながら、何故私に話さなかったのですか? 絶対話すべきことでしょう」
その言葉で何があったかを察した村長とラナミは、思わず冷や汗を流す。
「いや……いや、その。わしらにとっても話しにくい内容だったのです。しかし、また一体ニタライ様がどうしてそのことをお知りになったのですか?」
「昨日言った山羊頭の少年がさっき現れたので、話を聞いてみたんですよ。まさか、こんなのどかな村で魔術騒動が起こってるなんて考えもしなかったですがね」
それを皮切りに、ニタライは事の顛末を村長達に確認するため、今一度話し始めた。
数か月前まで、ハネマ村には天才と謳われた少年がいた。少年の名前はマク。マクは知識欲が旺盛で、村にいた魔術師からもらった魔導書を一週間で読み終え、あっという間に魔術を習得したらしい。魔術師もまさか習得できるとは思っておらず大変驚いていたが、少年の知識の吸収速度に大変喜び、様々な魔導書を与えていた。
とある曇りの日のことだった。魔術師は体調を崩し、家で床に臥せていた。いつの間にか少年が家に来ていたのだが、それにも気づかず魔術師は深い眠りに落ちていた。少年はフラフラと書斎の方に入る。書斎には沢山の魔導書が本棚に収納されており、少年は一番上に置いてあった、革紐で厳重に閉じられた魔導書を手に取った。その魔導書は、いつも魔術師から絶対に触ってはいけないと禁じられていた魔導書だった。
最初は単なる興味だった、と少年はどもりながら話していた。何十冊もある魔導書のほぼ全てを見せてもらえたのに、その一冊だけはどう頼んでも見せてもらえなかったからだった。何の本か聞いても、魔術師は頑なに口を閉ざすばかり。きっと、口に出すのもおぞましい何かが書かれてあったのだろう。しかし少年の知識欲は暴走し、禁じられていた書物にまで手を伸ばしてしまっていた。
そして事件は起きる。革紐を取り払い魔導書を開いた少年は、その魔導書が持つ魔力に取り憑かれてしまった。魔導書は、魔術師が秘境の地で見つけた魔物の封印書だったのだ。恐ろしい速度で少年は魔導書を読み終え、術印を書斎の床に書いた。書いてしまった。瞬間、蘇ったのは山羊の頭、二対のコウモリのような翼、ライオンのような体、蛇の尻尾を持った魔物だった。魔物はすさまじい速さで少年を捕まえると、食べてしまう。そして、寝起きの運動をするように暴れ始めると、魔術師の家を瞬く間に壊してしまったのだった。
驚いて目が覚めた魔術師の決死の攻防によって、魔術師は深手を負いながらもなんとか魔物はまた魔導書に封印され、魔術師の手元に戻った。しかし村長や少年の両親、村人たちが駆け付けた頃には、既に魔術師は出血多量で虫の息だった。最期の時に魔術師は村長に魔導書を託し、厳重に保管しておくよう頼んでから息絶える。魔術師の遺志を受け継いだ村長は、家の地下室にそれを厳重に保管した。
というのが大まかな内容だったが、一つだけ大事なことを、村長に言えないまま魔術師は事切れてしまった。それは。
「山羊頭の少年、いや、こう言った方がいいでしょうか。少年の亡霊は言ってました。『魔術師が魔導書に封印できたのは、魔物の存在の半分だけだった』と」
「な、何ですと!? 半分だけ、そうしたら残りの半分はどこに……まさか」
村長が何かを察し、苦しげに目を伏せる。
「恐らく村長が思っている通りでしょう。魔物の存在の半分は少年の死体と混合し、亡霊として蘇ったようです」
魔物の魂が死体を乗っ取り蘇ることは、よくある話だった。亡くなってしまった少年も例外ではなく、魔物に乗っ取られたのだ。ラナミが恐ろし気にしながらも口を開く。
「そんな、そんな……それでは私たちは少年、いや魔物の亡霊から村を守らなければならないのですか!? 一体どうやって」
「本当じゃ。一体このようなことどうすれば。あの子もあの子で不憫なことになってしまった」
頭を抱える村長に対し、ニタライは進言する。
「そこは私が何とかしてみましょう。しかし村長。このようなことが起こった時は、国への報告を怠らないようにしてください。魔術師でもない一般人が禁じられた魔導書を保管するのも危険だし、今回のような亡霊が出てくることもあります。大方村外からの魔物の襲撃で暇があまりなかったという理由でしょうが、このような特殊例は何が起こるかわかりません。いいですか?」
「申し訳ありませんでした。まさかこんなことになってしまうとは。魔導書じゃが、ニタライ様に処分をお願いしてもよろしいですかのう?」
「ええ、それしかないでしょう。処分しておきます。しかし、その前に」
再びニタライは玄関の扉を開ける。
「私があの亡霊を鎮魂させてきます。外には出ないようにしてください。他の村人には私から言って周ります」
「お願いします。どうか、どうかあの子を邪悪な魔物から救ってやってくだされ!」
村長の願いを聞き届け、ニタライは外へ出た。
― ― ― ― ―
村長の家を出て、村にある家々に声をかけて回ること数十分。ニタライは村長の家の前に陣取っていた。
「ここで少年を迎え撃つか」
地面にむしろを敷き、その周りにニタライと同じほどの高さある棒を、四方に一本ずつそれぞれ立てる。そしてさらに四方の棒の先端に布を貼っていき、簡易的なテントを形成した。むしろの上に、術印を書いた板を置く。背筋を正すと、ニタライは低く呟いた。
「曇天航路に未知を見出し、蒼天白馬は鎖を解きたり。姿現しの陣」
「う、あ……あ」
姿現しの陣。先ほどニタライが書いた術印はそう呼ばれるものだった。制限はあるが、呼び出したい者を目の前に呼び出し位置を固定させる術印で、少年を鎮魂するためにはうってつけの術印だった。ニタライの目の前に、先ほどからずっといたかのように少年が姿を現す。
「ぼくは……一体。ダメだ、頭が霞む、霞む、あ、あ」
「最初も二度目に会った時も、魔物と人間が混ざった存在だと気づいてやれなくてすまなかった、少年。辛かっただろう、今楽にしてやる」
「う、ああ、や、めろ、ヤメロ! ヤメロ!! ああああああああああ!!」
少年の頭に手を伸ばそうとするニタライ。しかし魔物の性質が出てきたのか、それを振り払い暴れる少年。だが、姿現しの陣で固定された少年は無力だった。手足が痺れ、だんだん動くかなくなっていく。
「魔物にとって鎮魂は一番嫌悪する行為だからな。すまない少年、苦しまないよう、せめて一瞬で終わらせる」
暴れる少年の山羊頭に、右手の人差し指と中指を押し付け、左手で拝む形を取ったニタライは祈りを込めて叫ぶ。
「滲む朝日越え行く夕日、昇りゆく者たちよ! 宮廷魔術師ニタライが務め、治める! あるべきもの、あるべきところへ戻りたまへ! 鎮魂の儀!!」
「あ、あ、いや、だ、いやだいやだいやだいやだ!!」
叫んだ途端、熱を持ったようにドロドロと溶けていく、山羊の頭。山羊頭の咆哮も虚しく、異形の顔面は完全に喪失した。そして、その代りに。
「あ、あれ、僕は一体……?」
「やっと正気に戻ったか、少年。おかえり」
山羊の頭の中から、本物の人間の頭部が出てくる。それは、魔物に喰われた少年の頭だった。
「中々骨の折れる作業だったよ。姿現しの術印も鎮魂の儀も、体が数日まともに動かなくなるんだ。こりゃしばらくこの村に留まることになるなぁ」
「お、お兄さんが僕を魔物から解放してくれたの?」
「あぁ、そうだよ。せいぜい感謝してくれ。もっとも、霧払いをした時にお前が喰われた話をしてくれなかったら、どうしようもなかったけどな。ダルイなぁ体……しかし、一つだけ聞きたいことがあったんだ。少年よ」
「な、何?」
「魔物と混合する時、お前まだ意識があったろ」
何か核心を突くように、ニタライは聞く。基本、魔物が人間の死体と混合する時は、人間側の死体が完全に死んでいる状態でなければいけない。でなければ、魔物側の意識を前面に押し出すことができないからだ。少年がニタライに事の顛末を話した時、ニタライは少年の意識があることを感じ取っていた。しかし、意識がある時に混合したということは、少年が望んで魔物と混合したということだった。それは一体何故か。そのことを聞くために、ニタライは魔物の部分だけを先に鎮魂させたのだった。
「なんで魔物との混合を受け入れたんだ? そうまでして生きたかったのか? 魔物との混合は想像を絶するような不快感があると聞いたことがあるが、お前も魔導書を読みこなしていたのならそれくらい知っていたはずだろう。なんでそうまでして」
「そ、そんなのきまってるじゃない。お父さんやお母さんともっといたかったからだよ!」
少年は叫ぶ。魔物から解放されたというのに、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「家族愛、か。わからないなぁ、その気持ちは。私は物心ついた時から両親がいなかったからね」
話をしているうちに、少年の体は段々と薄れてきていた。魔物を鎮魂させ解放させたとはいえ、混合していた、肉体の半分ともいえるところが天に昇ってしまったのだ。その半分がこれからどうなるのかは、想像に難くない。
「お前はもうすぐ消える。いくら生きたかったとはいえ、魔物との混合という禁断の方法を取ったんだ。その罰は受けなければならない」
「そ、そんな……結局僕はお父さんにもお母さんにももう一度会えず……ただ死んでいくだけだなんて、そんな、そんなあまりにも、うわああああ!!」
大粒の涙を流しながら慟哭する少年。すでに少年の向こう側の景色まで見えるくらいまでに、姿は薄れてしまっていた。そんな少年を見て、ニタライはため息をつく。
「まぁ、さっき俺は、家族を想う気持ちはよくわからないって言ったけどな」
そんなやり取りをしている少年とニタライへ、小走りで駆け寄ってくる影が二つ。それは。
「わからないが、わからないなりに思いやることはできる」
「マク!! ああ、マク!!」
「本当にマクだ、心配させやがって!!」
駆け寄ってきた少年……いや、マクの両親はもう消えかけの息子を強く、強く抱きしめた。
「え、お母、さん、お父さん?」
「ええ、そうよ、あなたのお母さんですよ!」
「喰われたときはもう二度と会えないものだと思ってたが、まさかこんな土壇場で会えるなんて、うぅ」
「お母さん、お父さん……うわああああああ!!」
マクは心の底から絞り出したような声で泣いていた。もう二度と会えないと思っていた、両親の顔。それを見られただけで、マクの心の壁は崩れ去っていった。
「全く。予めお二人だけ近くに呼んでおいてよかったですよ。まぁこれくらいの手間なら、安いもんです」
「ああ、ああ、ありがとうございます、ニタライ様……! 息子ともう一回会えるとは思ってもみませんでした!」
「俺からも礼を言わせていただきますぜ、胸につかえていた唯一のしこりが取れた気分だ」
「ありがとう、ニタライさん。ああ、本当に、本当に」
三人から同時に礼を言われ、少し困ったように笑うニタライ。そして、もうほとんど見えなくなってしまったマクを見ながら、ニタライは最後の言葉を投げかける。
「死んだ者が生き返るのは自然の摂理に反する。絶対に許されないことだ。けど、だからこそ……死ぬ時くらいは快く送り出してやりたいじゃないか。ゆっくりお休み、マク」
瞬間、両親が掴んでいたマクの体がすっと消える。完全にマクはこの世から消え去った。鎮魂が完了した証だった。
― ― ― ― ―
数日後。
「本当にいいのですか?わしの家に保管していたこの魔導書が報酬で。むしろこちら側がお願いすべきことなのに」
「いやいや、いいんですよ。魔術的に自分もこの本は興味があるので」
姿現しの陣と鎮魂の儀からくる、体の反動を治したニタライはハネマ村を出ていくことになった。村長宅前で、荷物の確認をしながら村長とそんな会話を交わす。
「本当にお世話になりましたぞ。マクの両親も、感謝してもしきれないと言っておりました。……しかしまさか宮廷魔術師様だったとは」
「旅先で身分を明かした時によく言われます。まぁこちらも慣れましたがね」
ニタライは苦笑しながら荷物を背負い直す。
「それでは、そろそろ行きます。お世話になりました、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそですじゃ。最期に一つだけ聞いても良いですかのう?」
言うべきか言わざるべきかと迷った顔をしながら、村長は聞く。
「宮廷魔術師とは普通、王宮で重要な仕事をこなす役職のはず。それなのに王宮を離れ、こうやって辺境の地までなぜかお一人で来られている。あなたは一体何を求めて旅をしているのです?」
一瞬真顔になるニタライ。村長の想像が及ばないようなことを、これまで沢山経験してきた。それを全て話した方が、村長にもよくわかってもらえるだろう。しかしニタライにとってそれを話すのは、あまりにも酷なことだった。
「浮世に疲れてしまった、ただの凡骨です。求めているのではなく、逃避しているだけですよ」
少し寂しそうな笑みを浮かべたニタライは、それだけ言うと村を出ていった。