焔へ行く前 2
絹の擦れは、あまり心地よいものではなかった。またそれが長時間となれば尚のことだ。自身の肌の不快感に思わず首を左右に振ってしまう。
「ひゃっ!」
短い悲鳴に似た嬌声がすると、一定だった心臓の音が少し大きく聞こえた。
「どうされましたか?」
快活な声が衣服越しに聞こえた。声色から中年の男だと分かる。また声に筋の様なものを感じた。
「へっ!? あ、いえ、あの・・・景色を見ていまして」
「景色? ああ、ノア様は機関車に乗るのは初めてでしたか?」
「えっと、そうですね。色々なものがとても速く流れていきます。追いつかなくて目が回りそう」
ノアは、ぎこちない言葉だったが「よければ水を用意しましょう」と相席の男は特に怪しむことなく、立ち上がり離れていったようだ。
真上から光が広がったと思うと、ノアに掴まれて久しぶりに外の景色を見ることができた。
「ごめんね。フェニ、窮屈だけどもう少しで着くからね」
城を出る前、ノアは服の中に隠れているように言った。そして、その時もノアは私に謝っていた。
『フェニ、私ね、・・・きっとガールディアに行ったら、もう私は私ではなくなってしまうと思うの。だから、あなただけは私の傍にいて。それなら、私は、堪えられると思うから。・・・ごめんね』
肯定も否定も示せない私は、それでもノアに「傍にいる」と伝えたくて、指を羽で撫でたのだ。
それから、数人に囲まれながらもノアに隠れて共に城を出て、『機関車』という乗り物に乗り、ガールディアへ向かった。
機関車とは、見たことも聞いたこともないが、とてつもなく速く進む物体に運ばれている感覚はあって、馬車とは比較しようがない。ただ、この一定に落ちる雷のような音が耳に障る。
「ほら、凄いよね。街と、・・あっ! ほら見て。森に入ったみたい」
窓の視界を埋め尽くすほどの深緑が立ち並び、流れていく。
あと、どれくらいで着くのだろうか。
そう思うのと同じく、今、私はノアと同じものを見ているのだと思った。
「あっ、今度はトンネルに入るよ」
ゴオっと低い音が川のように流れているようだった。黒く錆び濡れた地獄の釜を開ける時、こんな音がするのだろう。
ーーーーーーー
ガールディアという街は、随分と賑やかな所なのだろうか。色々な声音が重ね合うように流れていて、人間の体温か気配かが圧力になって感じた。
機関車での移動を終え、そこから馬車に乗り換えた。蹄鉄の音と車輪の回転に人の活気ある声が割り込む。
そうか
知らない所へとやってきたのだな
車輪が石を乗り越えた気がした。
しかし、それは気のせいだった。揺れてもいなかった。
それなのに、既視感のように感じたのは、私が処刑された日のあの荷台の上を思い出したからだった。
そう一度認識してしまうと断片なグラスを並べたみたいに、あの乾いた血の染みやズタズタの切株や血が花になったこと花が羽に・・・。
そういえば、赤かったな
肌が泡立ったみたいになって、急いで腕を擦り払いたくなった。それが、私の頭に湧いた断片を振り払いたい自己防衛だった。
【お前は穢いな】
だ、誰だ?
【・・・クカカ】
頭に響く聞いたことのない声。
寒気が走り、体を振ってしまった。すぐにノアの手で服越しに押さえられた。
なんだ?
今の声は、ただの気のせいなのか、過去のほの暗い幻聴なのか・・・
馬車が停まった。不意に声が飛び出しそうになったが、ノアの顔が浮かび喉をグッと堪えた。
「ノア・フィーンデルテ様。ご足労頂き御礼申し上げます」
「いいえ。本日はお招き頂きありがとうございます。初めて見られたものも多かったですし、とても有意義でした。あちこち
と窓からゆっくり眺められるのは、とても贅沢な経験でした」
「ははっ! それはよかったです。では、ご案内致しますのでこちらへ」
馬車を降り、そのまま案内をされて、どうやら城内のどこかの部屋へとやってきたようだ。服越しに聞こえた会話から、夕刻に会食となるらしい。
服の中に留まり続けることに辛抱ができなくなっていたが、ノアが「お手洗いに・・・」と言ってくれたおかげで、私はようやく解放された。
厠の個室に入ると、すぐにノアの懐から取り出された。久しぶりに空気を吸った気がする。
翼を扇がせて、さながら背伸びのように羽を伸ばした。
「疲れたでしょう? フェニ、ご苦労様ね。よしよし」
私は頭を撫でられ、やっと落ち着いた気がした。
「あとでご飯も用意しなきゃ。ねえ? フェニ?」
いや、腹は減ってはいないよ
今度は、ノアの頬が羽に触れた。
どうした?
手が、小刻みに震えていた。
ノア?
擦り合わせたノアの頬と私の羽は、ノアが甘えているようで、私が慰めているようでもあった。
少しして、ノアは私を見て、微笑んでいた。
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「あとでご飯を持って迎えにくるからね。それまでここに隠れて、良い子にしていてね」
そう言い残すと部屋を出ていった。
私は来客間の柱時計の隙間から、窓を見た。茜色の陽射しから暗くなり始めていた。
扉の閉まる音がして、私は今一人なのだと判を押されたような心地になる。
鳥籠が恋しいと、不服にもそう思った。