焔へ行く前 1
ノアは、朗らかで純粋な子で、些細なことで過剰に心配をする。私のなかでその印象が強い。
私が怪我をした時や少しものを食べないだけで医師まで呼んでしまう。
そこまでしなくて良いと、思うと同時に、どこか居心地の良さを感じていた。
「ね? もう一度、やってみよう?」
優しく微笑むノアは、落下した私を掬い上げて言った。それは、見慣れた優しさにも関わらず、私は浸みるような痛みを覚えた。それはとても小さな痛みなのに、それを無視することはできなかった。
「私が絶対にフェニを空に返してあげるからね。じゃあ、いくよ。・・せーのっ!」
それから、私は何度も繰り返したが、飛ぶことはできなかった。
部屋に戻った後、羽を繕っているとノアが包帯を持ってきた。
「ごめんね。痛かったよね」
解れた包帯をゆっくりと外す。羽を支え持ち、小さくため息を吐く。
気にしなくても良いと思うが、それがノアに伝わることはなく、また、伝わったとしてもきっと、ノアは気に病むのだろうな。
ああ、綺麗だな
窓からの西陽が、鳥籠の影をすっと伸ばし、泥濘のような温かみが室内にぼんやりと灯した。流星の瞬きが瞳から頬を伝わって、その雫を見ながら、綺麗だと言った自分を恥じた。
扉からノックの音がして、ノアは急いで服の袖で拭い返事をした。
「入るぞ」の言葉だけで扉が開いた。そこにはノアの父がいた。
「手短に話すぞ。急な公務が入った。私はヒドバス候に会った後にそのままガールディアに行く。お前は予定通りので来なさい」
「・・・わかりました」
「うむ。・・・私はもう出る。・・・頼むぞ」
「あっ! あの、お父様、その、・・・フェニも、この子も一緒にガールディアに連れてもよいですか?」
父は、手にかけていた扉から少し離れ、鳥籠を、いや私を一瞥した。すぐにノアへと向き直ると、短く「駄目だ」と言った。
「でも、・・・私は既に覚悟をしています。国の為にと決めました。で、ですから、どうか」
「分かりなさい。いいか、国とは、たった一つの傾きで全てが崩れる。些細なことで崩壊するのだ。お前ももう18歳だ。・・学びなさい」
鳥籠の影が少し傾いたか。
床に染まった西陽の橙色は、どうしても冷たく見えた。
父が部屋を出た後、俯いて口も開かないノアは、慣れた手つきで包帯を再び巻き直す。
ゆっくりと、包帯を巻く。
ゆっくりとだ。
そして、ノアはポツリと語り始めた。
「庭師のね、ノベロさんは、私と同い年の時に弟子入りしたんだって。そして25歳で結婚して、30歳で独り立ちして、その次の年には子どもが産まれたの。
子どもは男の子で、ノベロさんは庭師を継いでほしかったみたい。だから小さい頃はよく仕事場に連れたりしていて。
・・・けどね。息子さんは昆虫の方に興味をもったらしくて、今は私と同い年で、昆虫の研究学者になるために学術院に通っているの。
ふふ、ノベロさん。せっかく綺麗な庭を見せてきたのに、あいつときたら庭じゃなく虫ばっか見ていやがるって言って。・・・でも、嬉しそうな顔してた」
そうか
「・・・私は、いつになったら選べるのかな? 今18歳の人は、昔そうだった人は、これからなる人も、きっと色々な生き方をしている人がいて、私の・・・って」
詰まる喉に阻まれた言葉。
涙を拭ってあげたくて、咄嗟に伸ばした羽がノアの手の平を撫でていた。
「フェニは、賢い子よ。とっても賢くて、美しくて、自由なの。だからね、私の分まで空を飛んでね」
そして、ノアが、ガールディアへ行く日となった。
ノアは囁くように言った。
「フェニ、怖いかもしれないけれど、隠れていてね」
懐にそっと私を入れた。