目を覆いたくなる春
人はなぜ涙を流すのか
私にはわからない
右腕に巻かれた包帯が目についた。
いや、右の羽だった。
気にしないようにしても、やはり居心地は悪い。無意識に嘴でつついてしまう。
「あっ、こら。いじってはダメよフェニ。ほつれてしまう」
ノアは言うと、絵筆を置いてやってきた。私に優しい声音で叱責すると、目を細めながら鳥籠を開けて私の頭を人差し指で撫でた。
すまない
ただ少し気になっただけだ
「あとで、サラに新しい包帯を貰わないとね」
チラリとベッドの側にある棚が目についた。
サラとは侍女のことだ。
先日のことが思い出された。何をしていたのかは、わからなかったが、怪しい挙動はその後ずっと引っかかっていた。
すると、その懸念に割り込むように部屋の外から気配があった。
ノックの音が、体を勝手に身構えさせる。
「えっ!? ・・・お父様、戻られて、いたのですか? おかえりなさい」
それは、聞いたことのない革靴の音だった。そして、見たことのないノアの横顔があった。
「ああ、今しがた戻った。・・・それは?」
ノアの父は、鳥籠を軽く視線を向けた。
「はい。この子はフェニです。あの、森で拾いまして、育てています。
お父様、その、お仕事の方はよろしいのでしょうか。暫くはお家にいらっしゃるの?」
「うむ、隣国のガールディアとの話は無事に進められた。・・・それで、これを受け取りなさい。ゴート王からだ」
ほんの少し、息をのむ音がノアから聞こえた。
また、見たことのない顔だ。
そして見たくない顔だった。
苦味が瞬時に胸を駆けた。
ノアは短く「はい」とだけ答え、父の前へ行く。
「本来であれば王が直接渡せれば良いのだが、あっちも国政がある。・・・わざわざここへ来る時間もない」
まただ
小さくて短い言葉だけだ
ノアの手に腕輪? があった。
特に装飾はない、見栄えを語りにくい無地な銀色の腕輪だった。
「七日後、ガールディアへ行く。ゴート王との大切な会になる。腕輪、必ず着けるのだぞ」
「あっ、・・・えと」
しかし、父はこれ以上話すことがないと言うみたいに、そのまま部屋を出ていった。
扉が閉まると、ノアは取り残されたみたいになった。
取り残された小さな背中。
私は思い出したかのように、気がついた。
そうではないか。この少女は、ノアは、まだ子どもなのだ。
教えてほしい
ノアの背に語りかけた。
ノアはベッドへと駆けて、そのまま倒れ込むようにうつ伏せになる。
力なく、腕輪が手から零れる。
教えてくれ
なぜ泣いているのかを教えてくれ
私にはわからないのだ
君のことを教えてくれ
- 翌日 -
日課の絵をノアは描かなかった。
その代わりなのか「外にでようか」と言い、鳥籠ごと抱えられ一緒に中庭へとやってきた。
綺麗に揃えられた芝が、陽光に反射して波のように煌めいている。
ノアは、裸足で芝の上を歩き、木椅子に鳥籠を置くとその場に座り足を崩す。
遠くの方で管楽器の高い音が微かに聞こえた。土と芝の緑の香りが風に舞う。色と音と香りが綺麗に調和をとっている。
とても気持ちの良い日だ。
・・・もしも昨日がなければ、今日はもっと良い日だったであろう。
昨日、ノアと、ノアの父とのやりとりは、親子とは言い難い。あれでは隊長と兵士、命令をする者と命令を受ける者、本来、家族にはないはずの力の枠組みに嵌められた関係に見えた。
「ねえ、フェニ。・・・久しぶりに練習、しましょうか」
ここへやってきてから静かに、虚ろな目で空を見ていたノアは、鳥籠を開けて、私を左手に乗せた。逆光で暗くなったノアの顔は、はっきりと見えていないのに、寂しそうに感じた。
お椀にした手の平に私を収めて、少しだけ空が近くなるように持ち上げた。
「フェニ見えるかしら。あの鳥たち。
あのように飛ぶのよ。
ふふ、大丈夫。きっと飛べるようになるからね。
・・・ああ、私も飛べたら、フェニに教えてあげられるのに」
初めて、飛びたいと思った。
何度か練習を勧められた時には考えたこともなかったのに。
私のなかで、空は飛ぶものではないから。例え鳥の姿になったとしても、羽ばたく先が存在しないように思えたから。
だけど・・・。
私は思い切り翼を広げた。
ノアの手から飛び出し、不恰好なバタつきと一瞬の静止の後に落下した。