2 夢破れて
五月のある夜、私は夢を見た。クラスメートの男子の一人と楽しそうに自転車に乗りながらおしゃべりしている夢。風がなんて爽やかで、楽しいんだろう。
その男子の顔を見ると、佐々木くん!私は少々驚いた。クラスには目立つ子と目立たない子がいつもいる。目立つ子は大概、顔が良いとか運動神経抜群だとか話が面白いだとか何か心をつかむものがある。
佐々木くんは陸上部に入っているが、まだ一年生だから分からないとはいえ、あまり陸上の成績がぱっとしない。どちらかと言えば大人しくて、明らかに目立つ方ではない。
どうして佐々木くんが夢に出て来たのだろうと思ったところで、目が覚めた。
その日は席替えがあった。くじ引きで新しい席を決める。その席替えで、私は何と佐々木くんの隣になってしまった。私は昨晩の夢を思い出した。
「佐藤さん、だよな?」
と佐々木くんの方から声をかけて来た。
「うん」
と私は教科書を机の中に押し込みながら答えた。
「佐藤さんの下の名前、何て読むの?」
「ゆうほ、だけど・・・」
「UFO!?」
佐々木くんは本気でびっくりした顔をした。完全に天然だ。私はげらげら笑って言った。
「ゆうほ。UFOじゃないわよ。宇宙人でもないし」
「ゆうほ?そっか。うん、覚えた」
「ありがと」
たったそれだけの会話だったけれど、私の中の何かがはじけるには十分だった。
その日から学校へ行くのが倍ほど楽しくなった。私たちはよくしゃべった。そして急速に仲良くなった。佐々木くんといる時だけは、私は自分が病気であることを忘れることができた。次の席替えがないことを祈った。
「おはよう、UFO」
佐々木くんは親しみを込めて、私のことをそう呼ぶようになった。
「UFOじゃないってば!」
と言い返しながらも思わず微笑んでしまう。
これって恋?初めて感じた思いに私は戸惑いつつも楽しんでいた。小さい頃は「UFO」とからかわれることが多くてあんまり好きな名前じゃなかったが、佐々木くんにそう呼ばれるのは嫌じゃない。
「結穂。恋してるね」
とわざと厳しい顔をして冴子が言った。
「え?」
と私はびっくりして素っ頓狂な声をあげた。
「佐々木くんに恋してる」
と冴子は言う。
「やっぱりそうなのかなあ・・・」
ぼんやりしながら言う私に冴子は言った。
「恋愛って難しいのよ。分かってる?覚悟はできてるの?」
「何の覚悟?」
「告白に決まってるじゃない」
「え?」
と私。佐々木くんに「好きだ」なんて伝えようとは思ってもみなかった。ただ、佐々木くんと毎日会える、そのことだけが幸せだっただけなのだ。
「え?って・・・。告白しないの?」
「するものなの?」
「結穂ってほんとぼんやりしているね。好きな人と付き合いたいと思ったら、告白しなきゃ、でしょ?」
「佐々木くんと付き合うの?」
「付き合うのって、それが結穂の希望じゃないの?」
「そうなの?普通はそうなの?」
「なんか、何話してるのか、訳わかんなくなっちゃったじゃない」
冴子はちょっと怒った顔をしてみせてから、急に笑い出した。
「結穂の気持ち次第だもんね。いつでも相談に乗るから。」
「ありがと」
と返事をしながら、思わず窓からグランドを駆ける佐々木くんを目で追っている自分に気がついた。恋だ。私、恋をしているんだ。
私のこの「結穂」という名前。
中学生の時、母に名前の由来を聞いた。
「あなた、秋生まれでしょ。秋は色んな作物の実る時期。生まれつき心臓病を持ってるあなたにも、稲穂のおしべとめしべが結ばれるように、人生でたくさんの実りがありますようにっていう願いをこめてつけた名前なのよ」
私は思わず笑顔になった。
「へえ、良い名前じゃない」
「若葉は初夏に生まれたから、そのまま名付けたんだけどね」
「うん。お母さん、ちょっとこんなこと考えるの早いけど、『おしべとめしべが結ばれる』ってことは、私がちゃんと結婚できるようにっていう意味もあるのかなあ」
母はなぜか顔色を一瞬変えたが、すぐにまた元通りになって笑った。
「うーん。結婚までは考えてなかったなあ。目の前にいるのは小さい赤ん坊だったもの」
「そうかー」
あの時はそれで、その会話は終わった。それにしても、母の顔色が変わったのはなぜだったのだろう。私には結婚できない何かがあるのだろうか。私が病気だからだろうか。それなら中村先生に聞いてみるほうが良い。私は次の診察の時、先生に質問してみることにした。
「先生、私、結婚できますか」
私の唐突な質問に先生はびっくりしたようだ。
「なあに、いきなり。好きな人でもできたの?」
「そんなところです」
「へえー、結穂ちゃんも恋する年齢になったのね」
「結婚できますか」
「今?それはいくら何でも無理でしょう」
「もちろん今でなくて将来です。結婚して、子供がいて楽しい家庭ができたらいいなって、なんとなく」
「あなた、まだ十五歳でしょう。そこまで考えなくてもいいんじゃない?」
「夢なんです。全然具体的に考えているわけじゃないけど。」
「でも、まだ早いわ」
「そんなことありません。他の女の子達も、みんな結婚するならこんな人がいいとか話しています。もう彼氏と付き合って『結婚の約束した』とか言っている人もいるし。誰も信じてませんけど」
私は笑った。
「結穂ちゃんはもうちょっとゆっくり考えたらいいと思うわ。その好きな人とはどういう関係なの?」
「まだ何も。仲良い友達です」
「じゃあ、焦る必要ないじゃない?」
「私は先生のご意見が知りたいんです」
先生はしばらくの間、黙っていた。どうして黙るのだろう。
母も先生も、結婚の話になると、変な反応をする。
「先生?」
と私。
「あの、私、結婚できな・・・」
「結婚はもちろんできるわ」
と先生は私の言葉を遮って言った。そして真剣なまなざしで私を見た。
「あなた、十五歳よね。まだ早いと思っていたけれど、この機会にお話しします。良く聞いて」
私は黙ってうなずいた。先生はゆっくりと言った。
「結婚はね、できると思うわ。あなたの病気に理解を示してくれる人となら。でも、妊娠、出産はあなたの今の病状では難しいの。あなたの心臓に負担がかかりすぎるから。結穂ちゃんは本当に頑張って小さい頃から治療に積極的だったけれど、これ以上良くなる見込みはほとんどないの。だから、子供を産むことは難しい。先生の力不足ね。ごめんなさい」
いつの間にか、涙がひとしずく私の頬をつたった。
私には子供を産めない。産めない私と結婚してくれる人もいないかも知れない。まだ十五歳の私にはあまりにも重い現実だった。
「こんなもの!」
と突然、怒りがこみ上げて来た。私は自分の心臓の辺りをこぶしで叩いた。
「こんなもの!今すぐ止まっちゃえばいい!」
「結穂ちゃん、だめよ、叩いたら」
中村先生が私の腕をつかんだ。それを振り払って、こぶしで私は叩き続けた。
看護師さんが慌てて診察室に入って来て、私の手を押さえた。私はハアハアと苦しい呼吸をしばらくして、ようやく静まった。
「つらいわよね。結穂ちゃんに話すの、早すぎたわね。ごめんなさい」
と中村先生。私は言った。
「いえ、これで叶わない夢もなくなったからいいんです。後で知った方がずっとつらいかも知れないし」
先生は私の手を包んでくれた。温かな手だ。
「結婚はできる。合う人さえ見つかれば。その夢はわすれないで」
私は先生の手をそっと離した。
「本当のことを教えて下さってありがとうございました。一生一人で生きて行く道、探します」
私はそう言い残して診察室をあとにした。
病院を出てから私は真っ直ぐ家に帰った。自分の部屋にこもり、ベッドで布団にくるまった。今日の診察のやり取りが耳に残っている。
「結穂ちゃんも恋する年齢になったのね」
「夢なんです・・・結婚できますか」
「出産はあなたの病状では難しいの」
「結婚はできる。その夢は忘れないで」
涙がどっと出て来た。
佐々木くんの笑顔が浮かんだ。何も知らない佐々木くんは、今頃、グランドを駆け回っているはずだ。
「一生一人で生きていく」
佐々木くんはもう要らない。要らない自分にならなければ・・・・。佐々木くんへの恋も断ち切らなきゃ。強く生きて行こう。そうだ、一人で生きるには強くなくちゃ・・・・。
母がノックして部屋に入って来た。私は涙をぬぐうと、母に作り笑いをして言った。
「お母さん、知ってたんでしょ?」
「何が?」
と母。
「私が赤ちゃんを産めないこと」
母はびっくりして目を見開いて言った。
「・・・・知っていたわ」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?私、今日、中村先生から聞いたのよ」
「それは・・・それは・・・言えなかったわ」
「どうして」
「だって・・・」
と母は口ごもった。
「どうして」
と少し強い調子で私は尋ねる。
「だってね、あなたにとっては残酷じゃない。そんなこと、私の口から・・」
「どっちみち分かることじゃない!」
私はわっと泣き出した。
「もっと早く聞いていたら、夢なんか見ずに済んだかも知れないのに。いつ聞いたって残酷なものは残酷よ。私が今まで頑張って治療してきたのは何なの?!夢を壊すためなの?」
「ごめんなさい」
と母。
「謝ってなんか要らないよ。お母さんが悪いんじゃない。私の心臓が悪いのよ」
「いいえ、悪いのは私です。結穂、本当にごめんなさい」
母は真顔で謝っている。何だか変な雰囲気だ。
「だからお母さんが悪いんじゃないってば。私の心臓がおかしいの、お母さんのせいじゃないでしょ」
「私のせいです。本当にごめんなさい」
母は深々と私に頭を下げた。一体どういうこと?私は泣きやんで、母の方を見た。
「お母さんが悪いの?どういうこと?」
「あなたを妊娠中に、薬を飲んだの。お医者さんから出された薬。その薬のせいであなたの心臓に影響したかも知れないと思って・・・」
初耳だった。
「でも、大丈夫だからお医者さんが処方したんでしょ」
「当時は大丈夫だと言われていたけど、後から色んな副作用が見つかったの。薬のことは調べたわ。その副作用の中に特に胎児の心臓に影響するとは書いていなかったけど、でも、未だによく分からない薬だから、あなたの心臓ももしかしたらその薬のせいかも知れないと思っているの。ごめんね、結穂。あなたを産んで、すぐに心臓病だとわかった時、私は一生つぐないきれない罪を犯したと思ったわ」
「お母さん・・・」
「病気を持って成長していくあなたを見ながら、私はこの子の面倒を一生見るんだと思ったわ。病院への付き添いもそう。そんなことで罪滅ぼしなんてできないから馬鹿げてると思うかもしれないけど、私にはそれぐらいしかできないから」
そうだったのかと私は思った。頑なに病院の付き添いをしていた頃の母の目と今こうして話をしている母の目が重なった。私は母の手を握った。
「お母さんには何の罪もないよ。だってお医者さんに言われた通りにその薬を飲んだだけでしょ。それより、お母さんは私と若葉を一人で育ててくれた。私の高い医療費もお母さんが払ってるんじゃない。お母さんは十分なことしてくれてるよ」
私と若葉の父は、若葉が生まれた次の年に病気で亡くなっていた。病気の子供とまだよちよち歩きの子供を抱えて、母は働いて私達を育ててくれた。私は母に言った。
「お母さんは悪くないよ。もう自分を責めるのはやめて。お願いします」
母はうるんだ目で何も答えず、くるりと後ろを向いて、部屋から出て行った。