1 四月
「はい、パス!」
「オッケー」
「こっち、こっち!」
「はいっ!」
「シュート、シュート!」
「やったあ!!」
ネットに挟まったバスケットボールがゴロンゴロンと音を立てながら、床へ落ちて行く。
その様子をぼんやり見つめながら、ただ一人制服姿で体育館の隅に座っている私は、昨日の診察のことを思い出していた。
昨日は年一回の定期検診の日だった。普段は月一回簡単な診察と薬をもらいに行くだけなのだが、定期検診はかなり大規模に時間をかけて行う。
私は生まれつき、ある心臓病を患っている。手術を何回かしてだいぶ症状は軽くなったが、この病気は治らない。
小学校、中学校に進学する時、普通の学校か特別支援学校かで、随分迷わなくてはならなかった。結局、主治医の中村先生が条件付きで普通の学校に入学しても良いと言われたので、普通の学校に入学した。
中村先生の言う条件はこうだ。
●走らない。
●体育の授業はすべて見学
●部活も運動系はダメ
●規則正しい生活をすること
●特に睡眠不足にならないようにすること
こうして私は、生まれてから一度も体育の授業に参加したことはない。体を動かすのが嫌いじゃないから、体育の見学はすごくもどかしい。私が目の前にあるバスケットボールのコートにいたら・・・・。こうやってドリブルして、誰それにパスして・・・・と想像してしまう。想像するのは楽しいけれど、後で「所詮、想像するしか私には出来ないんだ」と空しくなってしまう。
昨日の診察は、高校生になって初めての診察だった。病院ぐらい一人で行けると何度も言ったのに、母が心配だからとついて来た。
「結穂ちゃん、高校入学おめでとう」
と中村先生は最初に満面の笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございます」
ちょっと恥ずかしげに笑って私は言った。横から母が言う。
「ありがとうございます。おかげさまでK高校に入学できました」
私は、余計なこと言わないでと母を軽く睨む。その私の視線を先生はしっかりキャッチして微笑んだ。
「K高か。なかなかやるじゃないの。もう大人ね。結穂ちゃんのことは小さい時から診てるけど、もう高校生だなんて。私が老けてゆくのも当然のことね」
と先生は笑って言った。
定期検診は毎年受けているので、滞りなく進んだ。検査が全て終了すると、私はまた先生に呼ばれた。
「今のところ、去年と同じ結果です。結穂ちゃんは、ちゃんと約束を守ってくれているのね。走らないことと体育は見学すること、運動部には入らないこと、ね。高校生でもそれは変わらないからね」
先生は軽いテンポで物事を言うけれど、先生の言うことは私の心にまた重くのしかかった。
走らないこと。これが、一番難しい。日常生活の中でどうしても走りたくなることはある。バスに乗り遅れそうになる時。遅刻しそうな時。友達との約束の時間に遅れそうな時。青信号が点滅している時。嬉しいことがあって思わず駆けだしたい時。そういう時に走ってしまうと、後で胸が痛くなり、呼吸が苦しくなる。そして、そんなどうしようもない自分が情けなくなってしまう。
「結穂、授業終わったよ」
とバスケットボールを抱えた三品冴子に声をかけられ、私ははっと我に帰った。
「どうしたの?体調、悪いの?」
と冴子は少し心配そうに言う。
「ううん。大丈夫。ちょっと妄想してただけ」
妄想、という言葉に冴子は笑った。
「そっか。でも、いいなあ、妄想できるなんて。私もたまに体育を見学して妄想してみたい」
冴子の言葉には嫌味を感じない。
「そう?むなしいだけよ。だって妄想なんて所詮、本当のことじゃないもん。冴子みたいに一度でもバスケしたいよ」
「そうだろうね。病気、早く良くなればいいね。」
良くならないの、という言葉を飲み込んで言う。
「ありがとう。頑張るよ」
中学生の時、私が毎回体育の授業を見学しているのを見て、うらやましがる子達がいた。その子達の言うことは冴子とは違って、なんだか嫌味っぽかった。
「いいよねー、毎回休めて」
「ぼーっとしとけばいいだけだし」
「私も病気にならないかなー。体育、見学できる病気」
私の病気が欲しいなら、いくらでも代わってあげるわという言葉をあえて言わずに、私はそういう子達とは、黙って距離を置いた。でも、ただ体育館やグランドの隅で見学するだけではその子達の視線がいたたまれなくて、先生に許可をもらって教室へ帰った。
そこで私は勉強をした。がらんとした教室で一人、窓から聞こえてくる元気な声を遠くに聞きながら、真剣に勉強した。
体育がダメでも勉強はできるようになりたい。たとえ、がり勉だと言われてもいい。何か得意なものが欲しい。私に出来ることが欲しい。
真剣に勉強した成果が実って、成績は良かった。両親はそれをすごく喜んだ。
「結穂がこんなに良い点を取るなんて、想像もできなかったわ」
と母が笑みを浮かべて言う。
「それって、かなり失礼じゃない?」
と私は苦笑いしながら言う。
そこへ、妹の若葉が鋭い口調で言った。
「お姉ちゃんの成績がいいのは、体育サボって勉強しているからよ」
「サボってなんかいないよ。見学してるんじゃない」
「見学ってちゃんと、体育の授業で何しているか見てるんでしょ。お姉ちゃんは、見学なんかしてない。教室にいるんだもん。お姉ちゃんの学年の先輩達がそう言ってたよ」
若葉は私をにらみつけた。
「ただ見学しているだけだと時間がもったいないわね。先生が良いとおっしゃるなら、教室で勉強してもいいんじゃない」
と母がのんびりと言う。
「ほら、お母さんはお姉ちゃんをそうやっていつも甘やかしてる。病気だからって甘いのよ」
と若葉は言って、くるりと向きを変え、自分の部屋の方向へ歩き出した。
小さい時は、とても仲の良い姉妹だったのに、最近の若葉はいつも私を敵視しているかのような態度をとる。
「若葉もそろそろ思春期ねえ」
などと母は暢気に微笑んで言う。
「病院でさえ一人で行けないなんて、まるで小さい子供みたい!!」
と若葉は自分の部屋の前で私に向かって叫ぶと、バタンとドアを閉めた。私は大きなため息を一つついて、それから母に言った。
「お母さん、見てよ。若葉だって、私の通院にお母さんが毎度毎度付き添うのがおかしいって思っているじゃない。これからは病院、一人で行くからね」
母はその頃、月一回の診察にも付き添っていた。
「でも・・・」
と母。その母の言葉を遮って私は言った。
「でも、じゃないの。もう何百回も行っている病院なのよ。何か相当悪いことがない限り、ついて来ないで。一人で行かせてよ」
「あなたの病院に付き添うのは私の役割なのよ」
と悲しそうに母は言う。母の言う意味など知らずに私は言った。
「そういうところが、私を甘やかしているって思われるのよ。若葉をこれ以上怒らせないで。まあ、あの子は私のやることはすべて批判的だけどね。あの子と私、どんどん仲が悪くなっていくの、見てて分からない?」
「そうねえ・・・」
母はますます悲しそうになって言った。
「若葉と話さなければね。結穂の通院に付き添うのは結穂を甘やかしている訳じゃないってことを」
「違う、違う!」
私は段々怒りがこみ上げて来るのを感じた。母は一体どうして付き添いを止めてほしいという私の気持ちを尊重してくれないのだろう。どうしてこんなにも頑なに私に付き添おうとするのだろう。
「病院の付き添いは要らないって言ってるの!」
と私が強く言うと
「そう・・・・それなら仕方ないわね」
母はやはり悲しそうに言って、そのまま黙ってしまった。何だか、気持ち悪い空気が流れる。私は居心地の悪さを感じて立ち上がり、自分の部屋へ入って静かに戸を閉めた。
高校生になった今、母は毎月の診察に付き添うのは止めることにすると言ったが、年一回の定期検診には付いて来る。そして、若葉と私との仲はますます悪くなっていた。定期検診の前日にふと母が言った。
「明日は、結穂の定期検診だから、一緒に行くわね。一日がかりよ。お昼ご飯、適当に自分で何とかしてね」
「えー、そうなの!?ついて来るの?」と私が言う前に、若葉が冷たく言い放った。
「その年でまだお母さんに病院について来てもらうの?高校生にもなって、まるで子供じゃない」
「子供のあんたに言われたくないわ」
と私は思わず言い返してしまった。すると若葉は言った。
「私はあんたと違って、何にだってお母さんについて来てもらったりしないわ」
若葉は私のことをもはや「お姉ちゃん」とは呼ばなくなっていた。
「この前のインフルエンザの時も自分で行った。目の手術の時もお母さんは来なかった。捻挫した時もあんたみたいに車に乗せてもらったりしないで必死で歩いて外科まで行ったわよ。あんたが検査入院した時も、私は自分で毎日晩御飯とお弁当を作ったのよ、お母さんがあんたにつきっきりだから。」
若葉は一気に喋った。私も母も言葉を失った。
私だって好きで病気になったわけではない。でも、若葉にとってはそんなことはどうでもいいのだ。私のせいで若葉は母なしで頑張って来なければならなかった。こんな風に責められても私にはどうしようもないが、今まで、胸の内を明かしたことのない若葉の心が少し分かって、私は逆にほっとした。
「若葉、ごめん・・・」
と私が言うと、若葉にとってはそれが思わぬ反応だったのだろう。
「・・え!」
と言ったまま黙ってしまった。そして、くるりと向きを変えて、自分の部屋に入っていってしまった。私はその若葉の背中に向かって大きな声で言った。
「ごめんね、病気で!」
ごめんね、病気で。私だってこんな病気になりたくなかった。だけど、そういう運命なのよ。私だって、友達と駆け回って遊びたかった。だけど、大人しく部屋の中でばかり遊ぶしかなかった。体育の授業だって見学じゃなくて、ちゃんとみんなと体を動かしたい。お母さんを独占したいなんて思ったことはないけれど知らず知らずに若葉の言うとおり、お母さんが常に付き添うようになってしまった。悲しくて、悔しいけど、この悲しみと怒りをぶつけるところがない。誰も悪くないから。でも、若葉。私をあんまり嫌わないでね。私にとって若葉はたった一人の大事な妹だから。