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そもそも「天気の子」におけるヒロインはかなりアイドル的な描かれ方をしていると思っていて、「千と千尋」においては白というよりはむしろ千尋が(子ども、鏡、人形としての)アイドルだったわけですが、「天気の子」の主人公とヒロインの関係は「WAKE UP GIRLS!」シリーズにおけるオタクとアイドルの関係性に近いなと感じました。つまり神としてのアイドルを信仰するオタク(アイドルファン)とそれによって輝きを増すアイドルの関係です(これは同監督がアニメ化を手掛けた「かんなぎ」にも共通するイメージです)。アイドルとして多くの人に輝きを与えながら、消費され尽くすと使い捨てられてしまう。「天気の子」におけるヒロインにはそのようなイメージが重ねられていると考えられます。そして劇中のクライマックス、主人公が「お前ら全員分かってて、見て見ぬ振りしてたんだろう」と突きつける銃口は劇中の誰かしらではなく、劇を見ている観客、消費社会に生活する私たちを糾弾する言葉として機能しています。新海誠監督が「批判されるような映画を作りたかった(正確な引用ではないかもです)」みたいなことを仰っているのはこのような構図、ウーマンラッシュアワーがネタの最後で「お前らのことだからな」と客席に問うような構図を指して言っているのではないかと思われます。
ただ「天気の子」には別のベクトルの批判もあるらしく、個人的にはこの作品は好きだと思ったので正確にその批判される理由について述べることは難しいのですが、なんとなくこういった点において批判されているのではないかと思うところを最後に挙げます。
ツイッターである方が「天気の子」について「寓話的」という言葉を用いて評されていて、その「寓話的」という言葉についてかなり攻撃的ですが意見を述べている「くたばれインターネット」という小説をたまたま読んでいたのですが、そこには「寓話とは(中略)平均以上とされている小説たちの目に見える傷が、実はむしろ美点なのだと仄めかしたいような場合に採用される。たとえば語り口が寓意に富むという時、つまりそれはこの語り口の象徴性はあえて薄っぺらくしてあるのだということになる。一見考えが浅いようにも見える語り口には隠された意味があるというのだ。」(ジャレット・コベック 著・浅倉卓弥 訳)と定義、というか批判? というか風刺でいいのか(コミカルな文章なので真剣にそう定義されているわけではないのですが)、とにかくそう書かれていて、これをそのまま「天気の子」に当てはめるなら、「天気の子」には曖昧に誤魔化されてしまったという印象を抱いてしまうところがなきにしもあらずなのです。
個人的に、特に気になるのは、ヒロインの少女が救われなければならない理由が劇中では「可哀そう」という同情の心理以上のものが描かれないという点です。あたかもヒロインが一人犠牲になったとしても世界は正常に機能したのだが、可哀そうだから助けた、とでも言うように。この作品において「新海誠の伝えたかったたことは個人のためなら全体が不幸になっても構わないってことなんだ」みたいな、それこそ個人的にはどうでもいいような感想を大量に生み出した要因の一つはここにあるのでしょう。確かに「天気の子」における働くという要素に引っ掛けて言うなら、ある会社で全然仕事ができない人が可哀そう他に行き場がないからという理由で残留し続けるという現象は大いにありますし、それで社会が回っているのだという側面も間違いなくあるでしょう。しかしある種の極限状態において、というのも最近「楢山節考」という映画を見たのですが、古い東北地方の習俗で働けなくなった老人を山に捨てに行く「姥捨て」を題材に描かれた作品なのですが、そのように生きるという事自体が困難であるような状況においては個人的な「可哀そう」や「情愛」は集団の中で打ち消されてしまいます(「ユリ熊嵐」でいうところの排除の儀がそれに相当するでしょう)。




