空の色
――空が青いなんて言ったら怒られるぞ
隣の席の、黒い髪の男の子はそう言った。
どうして? と返すと、彼は神妙な面持ちで言った。
知るか、と。
水曜日、3時間目の授業でそのときのやり取りを思い出していた。
視線の先では、先生が黒板と教科書を使ってみんなに理科を教えている。開けと言われた教科書のページには、様々な色に変化するアルコールランプに灯る炎がプリントされていた。
隣の席では、相変わらずつまらなさそうに頬杖をつく、そのときの男の子が座っている。
ふと、思いつきで男の子と反対側の窓の外に目をやると、まるで示し合わせたように、雲ひとつない青々とした空が広がっていた。
素直に綺麗だと思ったことも、言えば怒られるのだろうか?
わからない。怒られるかもしれないし、怒られないかもしれない。なんにせよ、授業が終わったら先生に訊いてみよう。
そう決めた瞬間、終了のチャイムが鳴った。男の子は突っ伏して眠っていた。
「空が青い?」
四角い眼鏡の若い男の先生は、空って青いですよねと質問のような、確認のような言葉を聞いて眉をひそめた。
背後ではざわざわと、同級生たちが騒いでいた。先生は貧相な丸イスに腰を落とし、じっと見返してくる。なにやらあまり歓迎されている様子ではない。
やはり怒られるのだろうか?
「お前はどう思う?」
たっぷりと間を空けて、先生はそう口にした。
「青いと思います」
「なら、なんで夕方になったら茜色に染まるんだ?」
なぜだろう。
答えに窮していると、先生はどこか安心したように、
「細かいことを省くとな、昼間に空が青く見えているのは、ただ人間にはそう見えているだけなんだ。だから、空は青い、なんて断言はできないんだよ。ほら、夜になれば黒くもなるだろう? 明確な色はないんだ」
なるほど。
先生は自分が納得したことを確認すると、柔らかい笑みでもっと詳しいことが聞きたかったら、職員室に来なさいと言い残して去った。
「ほら、怒られただろ」
席に戻ると、仏頂面の男の子がそう言った。
言葉の意味がよくわからず、首をかしげていると、彼は不満そうに
「さっきお前が質問したら、あの先生怒っただろ?」
怒ったのだろうか?
「もういい」
男の子はそっぽを向くと、ランドセルを探って次の授業の準備を始めた。その姿を眺めながら、考えた。
ひょっとしたら、彼はくどくどと説明されることが、怒られたのだと解釈しているのかもしれない。父親や母親に叱られるとき、説明されるようにして怒られるのかもしれない。
怒られてないよ。
ちょうど男の子に聞こえるように小さく言った。
「怒られただろ」
先生は説明してくれたんだよ。
「うるさい」
先生に質問してきてくれるような生徒を、先生が怒るわけないよ。
「うるさい」
そのときだった。
隣の男の子に、少し感じの悪い別の男の子が話しかけた。
「よお、約束通りアレ貸してくれよ。持ってきたんだろ?」
「……」
「なに、もしかして持ってきてないの?」
「……ああ」
「じゃあ、違約金くれよ」
「は?」
「“は?”じゃないだろ。約束を破ったのはそっちだろ?」
「そんなこと聞いてねえ」
「そりゃ言ってないからな。まさか約束破るようなやつだとは思わなくてさ。敗者が勝者の言いなりになるのは当たり前だろ?」
「ちょっとした賭けだろ」
「賭けは賭けだろ」
もしかして、“空が青い”ことと、関係ある?
そう口を挟むと、感じの悪い男の子が、調子よく返した。
「そうそう、こいつが空は青いだろって聞かないからさ、じゃあ先生に訊いてみようってことになったんだよ。そのとき、青くなかったらマンガ貸してくれよって言ってたんだよ」
この男の子は、あまり評判も良くない。貸したものが帰ってこないとも聞く。
「まあ、いいよ。明日また持ってきてくれよ。言ってなかったこっちも悪いしさ。ただし明日持ってこなかったら違約金もらうから」
そう言って立ち去った。
悪態をつく隣の男の子に、話しかける。
このあと、先生のところに行こう? とりあえず詳しい仕組みを訊いてみようよ。
「訊いてどうなるんだよ、どうせ理解できねえし」
まあ、いいから。行ってみよう?
しつこく誘われることに飽きたのか、その後しぶしぶと承諾した。
レイリー散乱:固体液体気体中で光が散乱することを言う。昼間、空が青いのは青が散乱しやすいためであり、夕方になると空が赤くなるのは、通過する大気層が長くなるため、散乱しやすい青は散乱しきってしまい、逆に散乱しにくい赤が空に現れる。
「要するにだ、空はどんな色である可能性もあるというわけだ。だから空は青いとは言い切れない」
やはり、と顔を歪ませる男の子を見て、先生に話しかける。
でも先生、空は青いですよ?
「ん?」
ほら、昼間の空は青いじゃないですか。
「あ、ああ。青いな」
なら先生、こう言えるんじゃないんですか? どの色の可能性もあるなら、どの色でもある。
「どういうことだ?」
空は赤であり、青であり、紫であり黄色である。こうは言えないですか?
「言えるな」
ほら、そう言いながら笑みを男の子に向ける。彼はドッキリでも受けたように、目を丸くしていた。
「……な、なら先生、空は青いと、言えますか?」
「ああ、言える。すまん、私の負けだ」
ほらほらほら。
そこまで言うと、男の子の顔にも笑みが浮かんでいた。
「屁理屈だ!」
翌日、あの感じの悪い男の子に、隣の男の子が伝えると、彼は叫んだ。
「でも、先生がそう言ったんだ。賭けの基準はお前じゃなくて先生だろ?」
「……くそ、くそ、くそっ」
そう言ったきり、彼は逃げるように立ち去った。
隣の男の子が、こちらに笑みを向けたので、目一杯の笑顔とウィンクで返した。すると彼が、ランドセルを探ったかと思うと、一冊のマンガを取り出した。
「これ、貸してあげる」
「いいよ、あんまりマンガ読まないし」
「気持ちだよ、まさか菓子折りなんか持って来るわけにもいかないし」
「……わかった、ありがとう」
表紙には剣をかつぐ主人公の絵がある。いかにもな少年漫画だ。
表紙を一枚めくると、そこには作者のものらしきサインがあった。そしてその脇に、同じペンで勢いよく書かれた一言があった。
“ありがとう!”と。