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その間に何があったかというと、若い男ばかりが、かなえの入ったレジにわざわざ並んで長蛇の列ができた。それでもまじめなかなえは、(いつもより忙しいな)と思った程度で、ただ黙々とレジを打ちこなしていたのだから、何一つ胸キュンな展開はなかったけれど。
次郎丸とミユキがそろそろ退屈し始めた夕方ごろ、唐突にラブ・チャンスは訪れた。
「所沢さん」
チュールの入った小さなビニール袋を片手に資材館を訪れたのは、あの生体売り場主任の平塚という男である。カシャカシャと音を立てるビニール袋を高く掲げた彼は、かなえに向かって親しげに笑いかけた。
「ちょうどメーカーの人が来てね、これ、新商品だそうです」
かなえのほうはレジの中で飛び上がるほど背筋を伸ばし、ピシッと直立不動の姿勢をとった。
「お疲れ様です!」
平塚が困ったように眉根を寄せて苦笑いする。目じりによった優しい皺が、年の割に澄んだ少年のような瞳を飾る。
「所沢さんは、私の前だと、なんだか緊張していますよね。怖いですか、私」
「え、そんな、怖いなんてことは……」
「さっき、猫ちゃんの写真を見せに来てくれたときは、なんだかはしゃいでかわいらしかったのに」
「え、か、かわいい!」
ふいに、かなえの顔が真っ赤に染まった。
資材の陰から見守っていた次郎丸は、かなえのこうした変化にいち早く気づいて小さな声をあげる。
「お?」
ミユキも身を乗り出し、小さく声をあげた。
「おお?」
二人がこっそり見守る中、かなえはさらに頬を紅潮させて立ち尽くしている。
「かわ……いい?」
平塚はそんなかなえの変化には気付かない――これは彼が特別鈍感だということではなく、娘ほども年の離れた女性から恋愛対象として見られることなどないだろうという、完全なる油断である。
かなえのほうは、もはや紅潮を通り越して怒ったみたいに顔をしかめて、大慌てで平塚から顔をそらす。
「か、かわいくなんかないですよ!」
それを見ても、平塚はニコニコ顔だ。
「いやあ、かわいらしい人ですよ、所沢さんは」
「だから、かわいくないですってば!」
「そうですか?」
「そうです!」
「まあ、そうですね、所沢さんはかわいいというより、『かっこいい』ですもんね」
「か、かっこ!」
かなえは照れて身をよじり、平塚のほうはさして気にせずニコニコしている。そんな状況を見て、次郎丸はニヤリと笑った。
「なるほど、かなえのやつめ、思い人がおったのか」
しかしミユキのほうは、ちゃんと人間の社会になじんで暮らしているだけあって人間の常識というものをちゃんと心得ている。
「さすがに、平塚さんは……」
「なんでじゃ、人柄もよさそうだし、情もありそうだ。良い男ではないか」
「年がね……かなえさんと付き合うには年上すぎないかなあ」
「そんなことはなかろうよ。あの男とて、ワシらから見たら小童のような年ではないか」
「そういう妖怪の感覚で人間をはかるのはどうかと思うんだけど……」
「いいんじゃ! そういうの、ロマンスグレーといって、若い娘どもは好むのじゃろ? いんたーねっとで見たぞ」
「あんた、人間に対する知識が偏りすぎじゃん。それに、どうあがいたって、平塚さんは奥さんがいるのよ」
「奥さん? そうか、人間には婚姻という制度があるんじゃったな」
「そ、だからあきらめなさい」
「な~んであきらめねばならぬのじゃ」
しゃなりと右手は頭上に掲げて、くにゃりと左手は腹の前に添えて、さらに背も猫背に丸めて。
「合縁奇縁おいでませ!」
咆哮に似たその声は妖気をたっぷりと含んでゴウとうなりをあげる突風となった。その風は一度天井近くまで舞い上がり、そこから一気に吹きおろして平塚を包む。
「おっとと!」
平塚は風にあおられて大きくよろける。かなえの両手はとっさに差し伸べられ、二人の距離は一気に縮まった。
触れそうなほどに近づいた鼻先と鼻先、触れてしまった手と手、そして見つめあう甘い驚きに見開かれた瞳……腰の間を遮るレジ台がもどかしい。
しかしすぐに二人は身を引きはがし、後ろに一歩下がった。
「あ、す、すみません」
「い、いいえ」
あとはもう、目も合わさずに。
「これ、チュールですね」
「ありがとうございます」
カサリと鳴るビニール袋が受け渡される瞬間に、先ほど触れたぬくもりを思い出したのだろうか、二人は顔を赤らめて少し狼狽した。
「あの、それじゃ」
「はい、それじゃ」
ぎこちなくあいさつを交わして別れる二人……と、これを見ていた次郎丸は大喜びだ。
「見よ、あきらめることなど何もないではないか! まあ、うちのかなえは魅力的なメスじゃからな!」
ミユキのほうは、困ったように眉毛をㇵの字に寄せている。
「ああ、これ、厄介なことになるわね」
「何の厄介があるものか。人間とて所詮は動物、オスは良きメスに心惹かれるのが道理じゃろう」
「そんな、猫じゃあるまいし……人間ってのはもっと複雑なのよ。特に恋心ってやつはね」
「知っておるわ、わしとてそれなりに勉強しておるのじゃぞ!」
「インターネットで?」
「そう、いんたーねっとで」
「だから知識が偏るんじゃないかな」
小さく肩をすくめた後で、ミユキはため息をついた。その表情は穏やかに澄んで、どこか諦観しているようにも見える。
「ま、いざとなったら私の妖力で何とかしてあげるし、少し痛い目にあったほうがいいんじゃないかな、君は」
「なんの、痛い目になどあうものか。わしの力は、東京は今戸神社のお猫様から直接賜った、由緒正しい縁結びの力ぞ。あんな男一人、心変わりさせるのはたやすいことじゃ!」
「はいはい、ま、がんばんなさい」
励ましの言葉はたっぷりと嫌味を含んだとげとげしいものであったが、次郎丸をいさめるには至らなかった。
「うむ、任せておくがよい!」
自信満々で胸を張る次郎丸の姿に、ミユキは軽い頭痛を覚えてこめかみを押さえたのだった。