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「なんでついてきたの!」
誰もいない更衣室、かなえの声は金属製のロッカーに共鳴してワンワンと響く。次郎丸は驚いて猫の姿に戻り、ふしゃーっと毛を逆立てた。
「これ、大きな声を出すでない!」
もちろんかなえがその程度でひるむわけはなくて、彼女は床に直接ちょこんと正座して、さらに眼前の床をたたいた。
「次郎丸、ちょっとここに座りなさい」
「なんじゃ、まったく」
その言葉に従うあたり、次郎丸も相当素直だ。
「座ったがのう、いったい、なんじゃ?」
「なんでついてきちゃったの、わたし、出かける前にちゃんとお留守番しててねって言ったよね?」
「ああ、そのことなら心配ない。ちゃんとカギはかけて出てきたからな」
「なんでカギが関係あるのよ」
「あれじゃろ、留守番というのは盗人から家財を守れということじゃろ?」
「ごっつい番犬ならともかく、猫にそんなこと望まないわよ! お留守番っていうのは、ちゃんとおうちでいい子で待っててねってことなの!」
「そうであったのか、それは知らなんだ」
「だいたい、子供の姿でうろうろしちゃダメでしょ、普通の子は学校に行ってる時間よ!」
「学校とはなんぞ?」
「学校も知らないの?」
「猫なんでな」
らちが明かない。猫を飼うというのはこうも悩ましいことなのか、それともこの三毛が化け猫だからなのか……叱っても無駄だと悟ったか、かなえは声音を和らげる。
「わかった、これは怒ってるんじゃなくて、質問ね。学校って、知らないのね?」
「うむ、知らぬ。というか、恥ずかしながら人間の社会や生活習慣についてはまだ知らぬところが多くてな」
次郎丸は小さく二股に分かれたしっぽの先をあげて、それをゆらりと揺らして見せた。
「偉そうに猫まただと名乗ったがな、これを見ればわかる通り、ワシは猫またになるにはあと一歩が足りない……さしずめ『猫また未満』といったところでな、人間については勉強中の身なのじゃ」
「猫また未満?」
「なんじゃ、猫またも知らぬのか?」
「しっぽが二つに分かれた猫のお化けだっていうのは知ってるけど……そのほかは、あんまり知らない」
「なるほどのう」
次郎丸がニヤリと笑う。口角を精一杯に持ち上げて、不器用に目元を細めて、どちらかといえば邪悪な笑いなのだが、これが猫の精一杯なのだろう。
「ワシらはもっとお互いのことを知り合わねばならぬな」
声は曇りなく澄んで優しい。
「お主は学校とやらのこと、人間の暮らしのことをワシに教えておくれ。ワシは猫またがどういうものか、お主に教える、ウィンウィンというやつじゃな」
「そんな言葉、どこで覚えたのよ」
「いんたーねっとでじゃ!」
「なんだか、変なことを知っているくせに、変なことを知らないのねえ。まあ、いいわ、一緒に暮らすなら、お互いのことを知るっていうのは大事なことだもの」
「決まりじゃな」
次郎丸は軽く体をゆすって、あっという間に少年に姿を変える。
「まあ、案ずるでない、ワシはお主に害なす化け物ではないゆえにな。ただ、お主に良縁をもたらすために来たのじゃ」
「なぜ、わざわざ私のところに?」
「あ~、それは……」
不意に、次郎丸の表情が曇った。目線は遠く、部屋を通り抜けて遠くを見つめ、幼い顔が一気に大人びて見えた。
「それは、まだ勘弁してくれんかのう。いずれ時が来たら話すゆえ」
そういわれてしまっては、かなえにはそれ以上を聞くことなどできない。何しろ相手は見た目通りの少年ではなくて化け猫なのだから、かなえにはおよび知ることすらできないような過去があるに違いないのだ。そして目の前に立つ彼の表情から、その過去がさみしいものであったことがうかがえるのだから、心優しいかなえに詳しくを聞く気など起きるわけがない。
「いいわよ、言いたくなるまで待つから」
わざとそっけなく言って、かなえは少年のやわらかい髪をぐしゃぐしゃと撫でた。撫でられた次郎丸は視線を遠くから引き戻して、少し伏せていた。
「すまんの」
「あ~、やだやだ、辛気臭い。そんな顔してたら、美少年が台無しでしょ!」
その言葉もそっけなく、しかし手元は優しく少年の頭頂を撫でて。かなえはまるで何事もなかったかのように陽気な声をあげた。
「それにしてもさあ、子供の姿じゃマズイんだって。せめて大人の姿になってよ」
「それがのう、ワシ半人前じゃから、大人の姿は長いことしとれんのじゃ」
「役に立たないわねえ」
「面目ない」
「でも、ま、猫の姿の時はかわいいからいっか」
仕上げに二度ほど次郎丸の頭を軽くたたいて、かなえは彼から離れた。
「店内をうろついてて誰かに何か言われたら、私の親戚だって言いなさい。学校に行ってないことについて聞かれたら、目線は斜め下に向けて悲しそうな声で『ちょっと事情があるんです』って」
「こうか? 『ちょっと、深いわけがあってのう』」
「そう、そんな感じ。それでも立ち入ってこようって人は普通はいないから」
「わかったのじゃ」
「よし、じゃあとは、いい子にしててね」
「人間の言う『いい子』というのが良くわからんのじゃが」
「あ~、猫だもんねえ。いいわ、私の目の届くところにいてちょうだい、何とかするから」
「それがのう、そうもいかんのじゃ」
ここに来て初めて、次郎丸は実に化生らしい表情を見せた。あどけない少年の顔の中で目玉が金色に光ってきゅうっと吊り上がり、口元は大きく裂けて鋭い犬歯が丸見えになる。
「昨日、お主に物騒な化粧をした者を見つけねばならん」
かなえは心の底から、今日はミユキがシフトに入っていないことを幸いだと思った。
相手は化け猫なのだから、何かの拍子に化粧をしてくれたのがミユキだと知れてしまうかもしれない。その時、この化け猫の本性そのままにミユキに襲い掛かったりしたら、かなえではとても太刀打ちできない。
「あ~、そうなの」
ドキドキする胸を押さえながら、かなえはそっけなく答えた。もっともこれはミユキがどこにでもいるような普通の大学生だと思っていたからなのだが。
そう、この時までかなえは、ミユキの正体にまったく気づいていなかったのである。