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翌朝、早めに出勤したかなえが真っ先に向かったのは生体コーナーだった。
開店前ということもあって店内には人影もなく、BGMも止められて静まり返っている。通路の真ん中に山形にディスプレイされた色鮮やかな紙おむつのパッケージも、この静けさの中では、なんだかくすんで見える。
そんな静寂の中でも、この一角だけは音の絶えることがない。ずらりと並べられた籠の中からはおむつのパッケージよりも鮮やかな色とりどりの小鳥たちがさえずる声――もちろん声もとりどり、まるで楽器を寄せ集めてでたらめに演奏しているように賑やかしい。そこに重なる控えめなビートは水槽の中にポコポコと小さな泡を送り込むポンプの規則正しいモーター音と、ときどき大きく挟まれる犬の吠える声……まるでここにだけ生命という名のBGMが鳴り響いているかのように。
そんな生体売り場の真ん中に、一人の男が立っている。かなえの父親だといっても不自然ないような初老の男性、特に背が高いわけでも、体系的な特徴があるわけでもない、ひどく地味な男だ。ただ顔つきだけはひどく優しそうで、柔らかく口角の上がった温かみのある笑顔には、気軽に声をかけたくなるような安心感がある。生体の状態チェックだろうか、鳥かごをのぞき込みながら何かを話しかけている様子がなおさら優しい。
かなえはその男のそばに駆け寄り、持っていたスマホを彼の顔の前に突き出した。
「平塚さん、これ、猫、猫!」
平塚と呼ばれた男は、目元になめらかなしわを刻んで、ふんわりとほほ笑んだ。
「所沢さん、落ち着きなさいな」
「え、あ、はい? あ、すみません」
「いえいえ、でも、所沢さんがそんなに興奮するの、珍しいですね」
彼はかなえのスマホに向かって手を伸ばした。
「よほどかわいい猫ちゃんなんですね、見せてください」
初老の男が見せる油断した笑顔というのは、時に破壊的だ。時を重ねてきたからこそ出せる裏表のない優しい笑顔に、かなえは少しほほを赤らめてスマホを差し出す。
「写真の嫌いなコだから、寝てるうちにこっそり撮ったんです」
「ああ、猫ちゃんには時々いますもんねえ、どれどれ」
画面をのぞき込んだ平塚は、笑いを含んだ息を吐いて目を細めた。
「油断しきってますねえ」
画面には、ふわふわとやわらかい毛におおわれた腹を天に向けて不用心に寝そべる三毛猫の写真。もちろんオスのシンボルもばっちり映り込んでいるのだから隠しようがない。
「珍しいですね、三毛の雄なんですね」
平塚の言葉に、かなえは首をかしげる。
「珍しいんですか?」
「ええ、毛色を決める遺伝子の関係でね、雄で三毛というのは本来ならば生まれないはずの毛色なんですよ」
「へえ、平塚さんってものしりですね」
「いやいや、商売柄、こういうことくらいはね」
謙遜する彼は、この生体売り場の主任である。人当たりもよく誠実な人柄と、こうして朝早くから生体の健康管理をするほどの愛情深さから、客の信頼も厚いベテラン販売員なのだ。
実は、次郎丸が食べたチュールは、この男がかなえに渡したものであった。
「どうでした、チュール、喜んだでしょう」
それに答えたのはかなえ……ではなくて彼女の足元からの声。
「うむ、大変に美味であったぞ」
下を見下ろしたかなえは、自分の隣に作務衣を着た少年が立っていることに驚く。
「次郎丸! 何でここに?」
うろたえたかなえの声にも、少年が動じることはなかった。
「なに、ちゅーるとやらの礼が言いたくてな」
飄として答える少年の姿に、平塚はさらに目を細める。
「おやおや、どこの坊やかな、まだ開店前だよ?」
「坊やではない。次郎丸じゃ」
かなえは慌てて両手を振り回す。
「あの、平塚さん、これは、その……そう! 親戚の子! 親戚の子を預かってるんです!」
「そうでしたか、でも、チュールのお礼というのは?」
「それは……」
困った顔のかなえを見上げて、次郎丸は何かを悟った様子だった。こういう察しの良いところはまるっきりの猫である。
「あ~、つまり猫があまりにうまそうにチュールを食っておったのでな、ワシが猫に代わって礼を言いに来たのよ」
そっけないほど自然な声音からは、彼自身がチュールを食べた猫なのだとは誰も思うまい。
「平塚とやら、また機会あればかなえにちゅーるを持たせるがよいぞ、うちの猫が喜ぶゆえにの」
「そうだねえ、メーカーさんから試供品をもらったらね」
「遠慮なくよこすがよいぞ。何しろあれは美味であるからな、何本でも食える」
「何本も食べさせちゃだめだよ、あれは人間でいうおやつだからね。ご飯を食べないでおやつばっかり食べていたら、お母さんに怒られちゃうだろう?」
「お母さん? ああ、そんなものはおらぬゆえ、怒られはせんよ」
「お母さん……いないのかい?」
「うむ、おらぬ。いや、ワシを生んでくれたメスはおるのじゃろうが、幾分昔のことゆえ、顔も覚えてはおらぬ」
なにしろ今の次郎丸は人間の、それも愛くるしい少年の姿なのだから……それが自分を産み落とした存在を『メス』呼ばわりするというのは少々あやしい。かなえはあわてて彼の小柄な体を抱き上げ、その口をふさいだ。
「じ、次郎丸君、そろそろ行こうか! 平塚さん、チュール、ありがとうございました!」
キョトンとした顔をしている平塚に頭を下げたかなえは、目頭がわずかに湿り気を帯びて痛むような気がしていた。あふれそうになる涙をぐっとこらえて……くるりと踵を返した後も、平塚の憐れむような視線が背中に突き刺さっているような気がしてならない。
だから、次郎丸を抱えて更衣室へ飛び込んだかなえが最初にしたことは、この少年をしかりつけることであった。