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三毛猫を抱えたかなえは一目散に家に駆けこみ、ドアを後ろ手に閉める。そしてネコを足元に下し……はせずに、ぎゅっと抱きしめた。
「かわいいいいいいいいいい!」
ふわふわした背中の毛に鼻先をうずめる勢いで頬ずりを繰り返す。
「ああっ、もうっ! かわいいっ!」
猫の方は少々あきれ気味で、「ふうむ」と鼻息を吐く。
「大げさじゃな」
「いいじゃない、猫を飼うの、ずっと憧れてたんだもん」
かなえの実家は古いタイプの公団で、もちろんペット禁止である。飼育した生き物といえばカブトムシやバッタや……せいぜいが金魚ぐらい。団地から少し離れた住宅街を通るたびに見かけるふわふわした長毛の猫、それが幼いころのかなえの憧れであった。
だからひとり暮らしをしたら猫を飼おうと、わざわざペット可の物件を探したのである。が、日々の忙しさの中でなかなか良い猫縁に巡り合えず、今日まで過ごしてしまった。
そんなかなえの元に初めて猫がやってきたのだ。長毛で無かろうが化け猫だろうが些細な事――。
「まずは名前をつけなくっちゃね!」
ハフンと息巻くかなえの腕の中から、しかし三毛猫はするりと抜け出して床に飛び降りた。
「次郎丸じゃ」
「え?」
「だから、ワシの名前、『次郎丸』じゃ」
「似合わないよ、もっと『ミケちゃん』とか、『タマちゃん』とか、かわいいのにしようよ」
「先ほどから何か勘違いしているようじゃがなあ、ワシはそこらの猫とは違うのだぞ?」
猫はかなえに見せつけるように尻尾を立てた。その先っちょ数センチ、本当にささやかにだが尻尾の先端がかわいらしく二股に分かれている。
「ワシは、猫又じゃ」
得意げに、さらに尻尾を振りながら、猫は少年へと姿を変えた。
「猫又じゃから、こうして変化も……」
突然響いたのはかなえの険しい声。
「ダメ! 猫の姿になって!」
「なんでじゃ、『しょた』じゃぞ。おぬしのような若い人間のおなごは、こういうかわいらしい『しょた』が好きなのであろう?」
「それ、どこ情報よ」
「いんたーねっとでみたのじゃ!」
「却下。私は子供に欲情するようなアブノーマルな性癖は持ち合わせてないので」
「猫には欲情するのか?」
「そうじゃなくて、モフりたいの!」
「しかたないのう」
するりっと猫の姿になった彼を、かなえは素早く抱きあげて腕の中におさめた。
「ああ、ほんと、かわいい」
「もう少し恐れるとか、敬うとかしてくれんかのう」
「無理! かわいすぎるんだもん」
「むう、猫又形無しなのじゃ」
それでも性根の優しいこの三毛猫は、かなえが自分を抱きやすいようにと体の力を抜いた。
「のう、モフりながらでよいから、ワシの話を聞いてくれんか?」
「ん~、なんでちゅか~」
「ワシはな、お主に良縁をもたらすために来たのじゃが……」
「ふ~ん」
「お主、好きな男とか……って、スリスリしとらんでちゃんと聞けい!」
柔らかい肉球での猫パンチ、かなえはさらに相好を崩す。
「うわああ、肉球最高! ありがとうございますっ!」
「なんというか……もうええ」
「あ、もしかしていじけちゃった? ちゃんと聞くから、話してごらんよ~」
「本当にちゃんと聞くか?」
「うんうん」
「なんか、信用できぬ」
猫はふいっと顔を背けた。
「ともかく、ワシの名前は次郎丸、それ以外は受け付けぬぞ。ミケちゃんとか呼んだら、祟るからの?」
「はいはい、わかりました、次郎丸ちゃん」
「ちゃん付けも禁止じゃ!」
明らかに拗ねて腕の中から逃げ出した三毛猫に対し、かなえは奥の手を発動する。
「ねえ、次郎丸、チュール、食べる?」
「ん? チュールとはなんぞ?」
かなえが取り出したそれは、少し太めのチューブ状の小袋、パッケージにはおいしそうな魚と舌なめずりする猫が印刷されている。かなえはその上端を丁寧に破いて三毛猫の口元に差し出した。
「どうぞ」
それは猫ならば抗いがたい美味なる芳香、もちろん化け猫とて例外ではなく。
「な、なんじゃ、このうまそうな匂いは!」
「こうやって、ちょっとだけ絞って……猫ちゃんに舐めさせてあげるんだって」
袋からあふれ出す魚の香気と、それを纏ったとろりと艶びた肉色の身。
「くうっ、たまらぬ!」
可愛らしい桃色の舌を差し出して、その化け猫は一心不乱にチュールを舐めた。
「こんな……こんなものごときで高貴な猫又が懐柔できると思うでないぞ!」
「はいはい」
「ワシの……名前は次郎丸、これだけは譲らんから!」
「あ、チュール、もう一本あるよ」
「よこせ! はやく!」
こうしてかなえと次郎丸の最初の夜は、チュールを舐めるぺちゃぺちゃした音が響く中、穏やかに過ぎたのだった。