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1-2

 ミユキがかなえにしてくれたのは、今風のキラキラしたメイクだった。もっとも、ミユキがついこの間までは高校生だったことを考えれば、彼女なりに大人っぽさを目指したのだろうが。髪もキレイに巻いてもらって、今日のかなえはいつもよりずいぶんと若く見えた。

 かなえだって普通に女なのだから、鏡に映った自分の顔がいつもより明るく見えることにわずかに心が躍るのを止めることなどできない。無機質な鉄骨や板材ばかりが並ぶ資材館でさえ、なんだかいつもより明るくて楽しいところのように感じる。

「そうか、お化粧って、人に見せるためだけにするものじゃないもんね」

 なんだか浮かれた気分で品出しをしようとしたその時、かなえは一人の男に呼び止められた。

「あの~、おねえさん」

 バビ・ホームのユニフォームを着て売り場にいれば、それはもはや『店員』以外の何者でもない。男であろうと女であろうと『店員』である限り、お客様からの呼びかけには笑顔で応えるのが大原則だ。かなえはとびっきり華やかな笑顔で振り向く。

「はい、なにかお探しですか?」

 男は――つなぎの作業服を着たガテン系の若者であった。たくましい筋肉を感じさせる恰幅良い体と、日に焼けた肌がまぶしい。そんな彼が恥ずかしそうにもじもじと身を揺すっている。

「お探しじゃないんだけどさ……おねえさん、仕事、何時まで?」

 かなえはこうした事例を他の売り場の女子社員から聞いて知っていた。

(ナンパ? まさか、私が?)

 振り返って見るが、もちろんかなえのほかには女性の姿などない。それどころか業務用の大型資材が並べられているため普通の客はあまり足を向けない資材館、他に人の姿などなく、この通路にいるのは男とかなえの二人きりである。

 男はぐうっと足を踏み出し、かなえに近づいた。

「あのさあ、ちょっとおしゃれな店知ってんだけどさあ、そこ、いかね?」

 かなえの方はすっかりパニックを起こしており、ろくに思考も回らない。

(え、お断りを……でも、相手はお客様だし……お客様のご要望にはニコニコ笑顔で……)

 自慢じゃないがかなえはナンパなどされたことがない。ましてや今はお客様に失礼があってはならない接客中、これをさらりとかわして逃げるような高度なスキルなど持ち合わせていないのだから、おろおろするばかりだ。

 不安そうに上目遣いで、しかし言葉に困って無言で……そんなかなえの様子が、男のナニかに火をつけたらしく、彼の呼吸がわずかに上ずった。

「ああ、いいねえ、おねえさん、そそるわ」

 そのまま、すうっと伸びた彼の両腕は立てかけてあった板材に押し当てられ、その中にかなえの体をとらえた。

 かなえのすぐ耳元で低い声が鳴る。

「おねえさんさあ、急に化粧なんかしてどうしたの、オトコ欲しくなっちゃった?」

 うなじを撫でる熱い呼吸が不快だ。身をよじって男の腕の中から逃れようとするが、彼の右足がそれを許さなかった。太ももの間にずるりと膝を割り込まれて、ついにかなえは逃げ場を失う。

「おっとと、俺、お客様よ」

 そう言われても、怖いものは恐い。股間を探るように這い上ってくる膝の感触にかなえは青ざめて震える。

「しかも俺、常連よ? 覚えてるでしょ、この間もロール釘、買いに来たじゃんよ」

 覚えていない。普通の売り場より来客が少ないとはいえ、大手ホームセンターなのだから客はひっきりなし入れ替わり立ち代わり訪れる、その全員の顔を覚えているなんて無理だ。

「化粧してないときはクソ地味だな~と思ってたけどさ、なんていうかおねえさん、化粧映えするね」

 ついに男の膝が、かなえの股間を二度ほどつつきあげた。それだけでは飽き足らず、男は腕を曲げて自分の体をかなえに擦りつけようとした。

「や、やめてください」

 やっと挙げた声さえ、男の意地悪なものいいに封殺される。

「あぁん? 俺、客よ?」

 しかし、それをさらに封殺する涼やかな声。

「そこな男、ここはそういうことをする店では無かろう」

 言い回しは古風だが、まだ声変わりもしてない男の子の声だ。しかもその声は、二人の頭上から聞こえた。

 先に反応を見せたのはかなえを押さえつけている男の方だ。彼は上の方、かなえの背後に立った板材を見上げて低く唸る。

「あぁん?」

 かなえは思いっきり首を曲げて自分の頭上を見上げる。そこには板材の上端にちょこんと腰かけた少年の姿があった。

 小学校三年生くらいだろうか、資材館で鍛えたかなえの目算で130センチくらいの小柄な少年だ。天然パーマのかかったふわふわの黒髪がかわいらしいとびきりの美少年である。きちんと仕立てられた紺色の作務衣を身につけており、どこか浮世離れした雰囲気を醸している。それでも少年には違いない。

 かなえの最初のひとことは、ほぼ悲鳴に近いものだった。

「危ない! 動いちゃダメよ!」

 いきなりの大声に、少年も、そしてかなえを押さえつけている男も驚いたようだ。両名ともビクッと大きく肩を震わせてしばし動きを止める。

 しかし、少年はすぐに言葉を取り戻した。

「心配するでない、高いところは慣れておる」

 少年はにっこりとほほ笑んで軽く体を揺する。

「あっ!」

 少年の体が前に倒れて、板材の上から消えた。いや、彼は飛び降りたのだ、まるで猫のように。

 着地の音はなかった。床が固くて丈夫なコンクリートであるということもあるだろうが、それにしても足元が地面に触れる音さえたてず、ふわりと羽のように軽やかなフォームで野着地だった。

 少年は体を大きく伸ばし、関節をほぐすように両手をぐるりと回す。

「さーて、手荒なことはしたくないのじゃが、とりあえずその子を放してもらおうかのう」

 かなえからは、男が底意地悪そうにニヤリと笑う表情がはっきりと見えた。

「どこのガキかは知らねえが、大人になめた口をきかないように躾けてやらんとなあ。それが大人の務めってもんだろ」

「やめて、乱暴なことしないであげて!」

 かなえは男に取りすがろうとするが、すでに遅い、彼はあっさりとかなえから離れて拳の指の節をバキバキと鳴らした。

「お前さあ、俺が中卒だからってバカにしてんだろ、ガキのくせによぉ」

 すごむ男を見上げてなお、少年は涼しげな顔だ。

「ワシは学歴などで人を推し量ったりはせんよ。まあ、お主のことは心底バカにしておるが、それは学歴などではなく、お主自身の人間性そのものをバカにしておるのだ」

「あぁん?」

「ふん、犬じゃあるまいし、唸ることしかできぬのか、情けない」

 明らかな挑発の言葉に加えて、生意気そうにクイクイと手招きするポーズ……たったそれだけの少年の行動に煽られて、男がこぶしを振り上げた。

「危ない!」

 かなえの声に、少年が答える。

「心配するでない、かなえ、殺しはせんよ」

 どうしてこの少年は、かなえの名を知っているのだろうか……しかし、いまのかなえには、そんなことに気を向ける余裕がない。なにしろ男は少年よりもはるかに大きく、筋肉で膨れ上がったゴツい体つきをしている。対する少年は小柄で立ち姿もひどく細身なのだから、男の拳に叩きのめされる姿しか思い浮かばない。

「本当に危ないったら!」

 思わず少年をかばうように飛び出したかなえの体を、しかし、誰かの長い腕が『上から』抱き寄せて男の狂拳からかばった。

「危ないのはお主の方じゃ! バカ者が!」

 声は鼻先にある骨ばった胸板の中で共鳴して、強く耳朶に沁みた。大人の男特有の、艶のある渋い声だ。かなえが顔をあげれば、鼻筋の通った顔立ちと優しい瞳が見えた。

「まさかワシの方の心配をしてくれていたとはな、優しい子じゃ」

 かなえはいつの間にか長身痩躯の男にしっかりと抱きかかえられていたのだ。ふわふわと揺れる天然パーマの黒髪と、きっちりした作務衣には先ほどの少年の面影を感じるが、この青年はかなえの身長よりも背の高い、れっきとした大人だ。

 彼が、少し肺のあたりにこもるような優しい声を出す。それは猫がのどを鳴らすときのゴロゴロという音に似ていて、耳に心地よいものだった。

「しかし、心配はいらんよ、ほれ」

 彼が指さした床の上には、先ほどまで拳を振り上げていた男が転がっている。仰向けになったままでぼんやりと天井を眺めて、どこか生気に乏しい雰囲気なのが気になるところだ。かなえは自分を抱きとめている胸板に向かって聞いた。

「いったい……何をしたの?」

「んん? 少しばかり魂を喰ろうただけよ、といっても、魂の余分な部分をそぎ落としてやったにすぎぬゆえ、命に別状はなかろう」

「さっきの男の子は?」

「ああ、あれはワシじゃよ」

「え?」

 彼の言っていることはなんだかわけがわからない、とかなえは思った。

 確かに立ち位置からしても、服装や外見的特徴からしても、さっきの少年がこの青年であると考えるのが一番納得のいく答えだ。だがそれには、瞬きをするほどの間に少年がいきなり青年にまで成長したという、ありえない前提条件が必要になる。それに、『魂を食らった』というのも訳が分からない。何かの比喩なのだろうか……

 戸惑うかなえに、青年は優しいまなざしを向けた。

「聞こえなんだか? あの男児は、ワシじゃ」

「ええと……はい?」

「その目は信じておらぬな。見ておれ」

 青年はすうっとかなえから離れた。と、見る間にその身が縮んで、すっかり先ほどの少年の姿になる。

「な」

「『な』って……どうなってるの、これ!」

「まあ、そんなにおびえるでない。ワシはお主に良縁をもたらすためにつかわされた、いわば縁結びの神じゃからな、崇め奉るが良いぞ、かなえ」

「なんで私の名前!」

「だから、言ったじゃろ、お主に良縁をもたらすためにつかわされたと。自分が加護する相手の名前ぐらい、心得ておるわ」

 まったく訳が分からずに、かなえは頭を抱えてへたり込む。

「ああ、本当にどうなってるのよ、これ。お客様をこんなにしちゃって、クレームとか来たらどうするのよ……」

「心配性じゃなあ、かなえは。この男なら心配ない、心の隙を邪鬼に付け入られただけじゃでな、正気に戻ったらここでの出来事など覚えては居るまい」

「邪鬼って何! ここはおとぎ話じゃなくて、現実なのよ! そんなのいるわけないでしょ!」

「それが、いるんじゃよ。おぬしら人間には知覚できぬというだけで、この世は魑魅魍魎妖怪変化の類に満ち溢れておるのじゃ。ところで、かなえよ……」

 少年は細い腕を伸べて、華奢な指でかなえの顎をとらえた。

「今日のお主はとびきり別嬪じゃな。しかし、この化粧は、ちょっとばかり派手すぎるのではないか?」

「わ、私が自分の好きでしたお化粧なんだから、別にいいでしょ!」

「もちろん、お主が自分で好んでした化粧ならば問題はない。しかし、これは自分でした化粧ではないな?」

「それは、確かに……」

 歯切れ悪いかなえの返事に、少年は納得して頷いた。

「確かに他人にしてもらった化粧だが、その相手の名前は言えないと……良きかな、そうした他人のためにウソをつく心遣いこそが人間の美徳じゃでな」

 頷きながらも少年は少しつま先立ちになって、かなえの唇に顔を近づける。

「よいよい、言わずとも良いぞ、勝手に調べるでな。それにしてもこの口紅、少しばかり男の劣情をそそりすぎる、それゆえにあのような不逞の輩をひきつけるのじゃ」

 イチゴのように愛くるしい少年の唇が静かに開き、柔らかくて滑らかな舌がかなえの唇をなぞった。

「んな! き、キス……」

 かなえは顔を真っ赤にして飛びのくが、少年は実に涼しい顔で自分の口元を拭う。

「んん? そうか、人間にとって接吻というのは、特別なものであったな」

「特別っていうか……君みたいな子供がこういうことしちゃダメ!」

「なるほど、以後気をつけようぞ」

 本当に気をつける気などあるのだろうか、軽い言葉で答えた後で、その少年は軽く首をかしげた。

「ところで、かなえ、今日は何時に仕事が終わるのじゃ?」

「なんで君にそんなことを教える必要があるのよ!」

「必要はあるじゃろう、なにしろ今日から一緒に暮らすのだから、同居人の退勤時間ぐらいは、把握しておかねばな」

「なに言ってるのよ、そんな、見知らぬ子供と……えっと、中身は子供じゃないみたいだけど、ともかく、他人と暮らすとか、無理だから!」

「かなえ」

「なによ、そんな甘えた声出してもダメ!」

「お主のアパート、ペットOKじゃったはずよな?」

「ペットはOKだけど、君はペットじゃないでしょ」

「いや、それが、こうやってな……」

 少年は何かの呪文を口の中でもごもごと食んだ。

「それから、こうやるとな」

 今度は空中を縦横に斬る動作。小柄な体はますます縮んで……その姿は三毛猫の形になって、かなえの足元にちょこんと座った。

「ほら、ペットじゃろ?」

「う……、猫……」

「お主が無類の猫好きだということはすでに調べがついておる。さあ、ワシを飼うが良いぞ!」

 得意げに鼻先をあげた三毛猫の胸元の、なんとモフいことか! さすがのかなめも怒りを忘れて思わず手を伸べる。

「ふん、決まりじゃな」

 にくらしい口をきくというのに、なぜ猫の和毛というのはこうも抗いがたいほどに心地よいのだろうか、かなえは我を忘れて彼の腹毛をモフった。

 こうしてかなえは、新たな家族として人間に姿の変わる――いわゆる化け猫を自分の住居に迎え入れてしまったのだった。


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