6
その翌日から、次郎丸は悶々と悩んで日々を過ごした。
べつにかなえと平塚の縁結びがうまくいっていないというわけではない。
同じ部署で働くようになったことで二人の接触時間は増えたのだし、何気なく視線が交わったときや仕事の手を休めて平塚の背中を眺めるときなど、かなえは恋する乙女特有の切ない甘さを含んだ表情をしているのだから、気持ちがあふれるのも時間の問題だろうと思われた。
それは平塚のほうも同じこと。すいも甘いも嚙み分けた年ごろの男が若い娘から好意の視線を向けられていることに気づかないわけはなく、時々は寝っ視線に耐えかねたかのようにふいと顔をそらす。しかし表情は不快を感じている様子ではなく、いわゆるまんざらでもなさそうな笑顔なのだから、かなえが本気で迫れば篭絡することは簡単なように思えた。
しかし、である、そんな二人を見ていると、次郎丸はずんと胃の奥が重くなるような気がして仕方ないのだ。
「毛玉がたまっておるのかもしれん」
かなえにねだって買ってもらった猫草をバリバリ食べても、その不快感は消えてはくれない。それでも次郎丸はかたくなに、それが毛玉による不調なのだと思い込もうとした。
「きっと、でっかい毛玉なのじゃな」
それを聞いていた雲外鏡――もとい、ミユキがあきれきってため息をつく。
「猫はおなかに毛玉がたまる生き物だって聞くけどさあ、どんだけよ」
場所はバビ・ホーム裏手にある自動販売機とベンチしかないさびれた休憩所、バイトあがりのミユキと子供姿の次郎丸のほかには誰もいない。だから会話に気を遣うこともなく、二人の間にはだらけ切った雰囲気さえあった。
「てゆうか、毛玉ケアの猫餌とか、あれ、どうなのよ」
「知らんのじゃもん。ワシ、かなえが作ってくれたご飯食べておるじゃもん」
「ええ~、猫なのに、大丈夫なの~?」
「ただの猫じゃなくて、猫まただから大丈夫なのじゃもん」
「あんた、本当の猫またじゃなくて『未満』じゃんよ、絶対それが原因だって。なんか体に合わないものでも食べたんじゃない?」
「さようか……ちょっと食べ物に気を付けてみるかのう……」
「それか……恋ね」
「んななななななな、こ、恋なんて、しとらんのじゃもん!」
「そうなのお? 聞いたわよ~、この前、かわいらしいガールフレンドがチュールを買いに来たらしいじゃない?」
うろたえていた次郎丸が、スンと真顔に戻る。
「あ、師匠はそういうのじゃないのじゃもん。尊敬はしておるが、それだけじゃなあ」
「なんだ、そうなの、つまんな~い」
「というかの、ワシ、恋なんてしたことがないんじゃもん」
次郎丸はもう一度、まるで自分にだけ言い聞かせるかのように小さな声でつぶやいた。
「そう、ワシは恋なんかしとらんのじゃもん」
ちょうどその時、ミユキのポケットからスマホの着信音が鳴り響いた。ミユキは不機嫌そうに眉根をしかめて画面を確かめる。
「げ、相模原さんじゃん。私、なんかしでかしたかなあ」
相模原さんはレジ部のベテランパートさんだ。シフトリーダーという立場にあるため、若いバイトの子たちを指導することも多く、『少し口うるさくて怖いおばさん』扱いされている人物である。
だが、次郎丸は知っている……相模原さんは物言いが少しはきはきしているのと、仕事に対する情熱が熱すぎるから誤解されているだけで、本当は優しい人なのだ。猫型になってうろついている次郎丸を見かけると必ず頭を撫でに来る猫好きな面もあり、次郎丸的には『優しい人間』に分類される人物の一人である。
もちろんミユキだって嫌っているわけではなく、ただお小言を思い浮かべると身がすくむというだけの話。恐る恐るながらも、ミユキは着信ボタンを押した。
「はい、もしもし……」
電話の向こうから聞こえたのは息せき切った声。
『ミユキちゃん? まだ近くにいる?』
「あ、はい、まだ裏の休憩所ですけど」
『本当に申し訳ないんだけど、戻ってきてもらえない? 生体売り場が大変なの』
「生体売り場が?」
耳をそばだてていた次郎丸が、いち早く反応する。
「まさか、かなえがピンチなのではじゃ……」
『とりあえず、早く来て! もう、しっちゃかめっちゃかなの!』
電話からの声にミユキが言葉を返すよりも早く、次郎丸はぱっと走り出した。
「かなえっ!」
ミユキが慌ててそのあとを追う。
「ちょっと、落ち着きなさいよ!」
「落ち着いてなんかいられんのじゃ、かなえが……かなえが……」
走りながら、次郎丸は大人の男に姿を変える。手足の短い子供の姿よりも、こっちのほうが断然早い。もはや、なりふりも、妖力の配分も構ってはいられなかった。
次郎丸はすらりと伸びた長躯を前に傾けて、ただ風のように、生体売り場へと向かって駆けた。