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チュールの棚に向かって歩きながら、かなえがこっそりと次郎丸に聞く。
「ねえ、あんたの師匠、名前は? 何て呼べばいい?」
次郎丸は首を傾げた。
「そういえば、何て呼べばいいんじゃろ」
とぼけているわけではない、次郎丸は本当にこの招き猫の名を知らないのだ。
本来が自由な生き物である猫に、決まった名前などあるはずがない。人に飼われていれば飼い主の好きに呼ばせて「にゃん」と返事もするが、それだって自分の『名前』と認めているのかどうか……例えば、違う飼い主に引き取られて違う名前で呼ばれても「にゃん」と返事する、それが猫という生き物なのである。だから人間が思うような『名前』で呼び合う習慣がない。
次郎丸がそのことを伝えると、かなえは少し怪訝な顔をした。
「だって、あんたは自分で『次郎丸』って名乗ってるじゃない」
もちろんこれも小声で、次郎丸にだけ聞こえるようにささやいたつもりだったのだが、人間の百倍といわれる猫の聴力の前ではあまりにも無意味。
「その子、変わってるでしょ、猫のくせに名前にこだわるとかさ~」
招き猫少女がくるりと振り向いた。かなえに的確な答えを与えたということは、ひそひそ声での会話もつつぬけだったということだろう。
少女はさらに、口を大きく開けてケラケラと笑う。
「遠い昔に人間がつけてくれた名前なんだって。そんなのをいまだに大事にしてるなんて、猫のくせにおかしくない?」
これを受けた次郎丸は地団太を踏む勢い――実際には一回だけであるが、ダァンと床を踏んで前歯をむき出した。
「おかしくないのじゃ! 形見なのじゃもん!」
「名前が形見っておかしくなあい? ふつうそういうのってさ、使ってた身の周りの品物とか大事にしてた宝物とか、そういうのをもらうんじゃないの?」
「そんなのもらったって、ワシ、猫じゃもん」
「うん、猫だよね、だから、名前にこだわるのもおかしくない?」
「そ、それはじゃな……」
見た目だけなら幼い兄妹が言い争いをしているようにも見える。幼いが弁の立つ女の子に、口下手で感情表現の下手な兄が押されている、そんな風情なのだ。
だからその中身が自分の何倍も年を重ねた妖怪だということも忘れて、かなえは小さな少女の頭を撫でた。
「いいんじゃないかな、名前が形見っていうのも」
「いいの? そんなんでいいの?」
見上げる少女の瞳は存外に無邪気で、だから、かなえも臆することなく言葉をつづける。
「形見っていうのは、何をもらうかよりも、どれだけ思い出が詰まっているかのほうが大事なの。思い出がいっぱい詰まったもののほうが、それを見たときにいろんな思い出がうかんでくるでしょう?」
「じゃあじゃあ、例えば一緒に食べたお菓子の包み紙とか、アイスの棒でもいいの?」
「そういうことになっちゃうけど……それじゃあ間違えてゴミに捨てちゃうでしょ。だから普通は、もうちょっといいものを形見にするよね」
「ふうん、思い出なのね……」
「だから、名前が形見って、すごくいいんじゃないかな。きっと、悲しいことや、うれしいことや……愛情をかけてもらったことや……名前を呼ばれたときの思い出がいっぱい詰まっているんじゃないかな」
「なんだか……ちょっとだけわかったかも」
少女はため息をつくと、何を思い悩むのか床に視線を落とした。
「あのね、私にも名前、あるのよ……ずうっと昔、人間がつけてくれた名前……」
次郎丸が驚いて目を見開く。
「初耳じゃ!」
「それは、だって……猫だったら必要ないものだから……」
「ああ、そうじゃな、猫どうしの会話では、まず聞かれないじゃもんな」
「だけど、ちょっとだけ……懐かしいかも」
少女のおかっぱの毛先がわずかに震えているのは、もしかして涙に揺れているからじゃないのだろうか。ふと、そんな気がして、かなえは飛び切り優しい声を出した。
「名前、何ていうの?」
「え?」
顔をあげた少女の瞳はわずかにうるんでいて、かなえの声はますます優しくなる。
「名前よ、名前。なんていうの?」
「あ、えっと……タマ」
猫としてはあまりにありがちな、凡庸すぎる名前だった。それでも次郎丸は笑わない。まじめ腐った顔で腕を組み、何度もうなづいた。
「なるほどなるほど、シンプルでわかりやすい名前なのじゃ」
かなえなど、いかにも優し気に両手を広げて、甘い声を出す。
「おいで、タマちゃ~ん」
少女ははっと顔をあげて戸惑いの表情を見せたが、それはほんの一瞬のことであった。
「ほら、タマ、おいで」
「にゃぁぁああん♡」
床を蹴って飛びついてきた小さな体を抱きとめて、かなえは優しくささやく。
「タ~マちゃん」
「これ、思ったより恥かしいわね」
そう言いながらも、少女はかなえの胸元に強く顔を擦りつけた。もしかしたらデレデレになった表情を隠そうとしていたのかもしれない。
「でも、悪くない。うん、悪くないわ」
やがて顔をあげた少女は、むしろ少し厳しいくらいに眉をしかめていた。それでも、それが緩み始めた涙腺を引き締めるためだと知っている次郎丸は、何も言わなかった。弟子の前ではりりしくあろうとする、そんな師匠を美しいとさえ思った。
少女はくるりと後ろを向いて、チュールの棚に向かう。
「おおっ、これがチュールなのね!」
その背中は猫背もどこへやらというほどピンと張り詰めていて、すがすがしいほどの喜びにあふれている。
「いんすたに写真、あげなくっちゃ!」
張り切ってスマホを取り出すその姿を、次郎丸とかなえはほほえましく思ったのであった。