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それからほどなくして、生体売り場の女性社員が一人、産休に入った。彼女は何か月も前に産休の申請を出しており、何ら責められるところはないおめでたいことなのだが、おり悪く他店から派遣されるはずだったヘルプ社員の都合がつかなかった。
仕方なく同店舗の中でも客数が少なく、一人くらい欠員が出ても何とかなる部署から売り場ヘルプを出すことになったのだが……もちろんそんな部署は資材館くらいしかなく、いかつい男性社員よりは少しでも華やかだろうということで、かなえに白羽の矢が立った。
次郎丸はこれに大喜びである。猫の姿のまま、しっぽと髭の先をピンと天井に向ける。
「見よ、これがワシの妖術なのじゃ!」
かなえのほうは実にクールにそれをかわした。
「売り場ヘルプと妖術になんの関係があるっていうのよ」
「すっとぼけおって、生体売り場に行くの、うれしかろう?」
「べつに、仕事だし。私、爬虫類とかちょっと苦手だから、むしろ嫌なんだけどね」
そういいながらもかなえは鏡に向かい、色付きリップを唇に乗せた。この様子に、次郎丸はニマニマと笑ってしっぽを振る。
「ほほう、いっちょ前に色気づきおってからに」
「なあに?」
「何でもないのじゃ。万事ワシにお任せなのじゃ」
「何がお任せなのよ、変なの」
それでもかなえは、猫の姿をしている次郎丸にはとことん甘い。彼の白いあごの下を書いてやりながら、優しい声で囁いた。
「じゃあ、行ってくるから、ちゃんとお留守番しててね」
「うむうむ」
こうしてかなえを見送った次郎丸だが、自由奔放な猫が本来である彼が、おとなしく留守番などするわけがない。ゆらりゆらりと揺れていたしっぽがしゅるりと消え、彼はあっという間に少年の姿になった。
「さて、ワシも出かけるとするかの」
律儀に玄関の鍵をかけ、そのカギを首からしっかりとぶら下げて……次郎丸少年はバビ・ホームへと向かったのであった。
開店すぐということもあって、生体売り場に客はいない。この隙に業務内容をレクチャーしてしまおうというのか、平塚は鳥かごの並ぶ通路のど真ん中でかなえと向かい合って何かを話している最中であった。
次郎丸は大きな鳥かごの陰に小柄な体をするりと潜り込ませる。少し呼吸を押し殺して耳をすませば、二人の会話がつぶさに聞こえた。
(なんじゃ、ずいぶんと色気のない話をしておるのう)
かなえの手にはプリント用紙を挟んだバインダーが握られており、これがどうやら生体たちの健康管理表らしいのだが、平塚はこれの書きこみ方や、どこのどの状態をチェックすればいいのかなどの業務的なことばかりを説明しているのだ。
(ふん、つまらん)
とはいっても、次郎丸だって仕事というものの重要性を全く分かっていないわけではなくて。仕方なく床に腰を下ろそうと……したその時だった。
「おや、所沢さん、今日はお化粧してるんですね」
次郎丸は曲げかけていた膝を伸ばして精一杯に伸びあがる。鳥かごの向こう遠くに、照れてほほを赤く染めたかなえがいた。
「お化粧じゃないです、リップだけなんです」
「そうなんですか、でも似合っていますよ、とてもかわいらしい」
「かわいいなんて、そんな……」
かなえは照れきって、もはやグズグズである。だらしなく体をゆすり、少しふてくされたみたいに顔を伏せてしまっている。
「別に、かわいくないですし」
「そうですかねえ」
「そうなんです!」
この様子を見た次郎丸は大喜びだ。
「おおっ、良い雰囲気というやつではないのか、これ!」
次郎丸が興奮して身を乗り出すものだから、大きな鳥かごが小さく軋んで傾いた。
「おおっ! やばいのではないか、これ!」
しかし次郎丸が気付いた時にはすでに遅し、鳥かごはぐらりと大きく傾いて地面めがけて倒れこもうとしている状態であった。
「ああっ、やばいのじゃ、やばいのじゃ!」
引き起こそうにも次郎丸の体は鳥かごと同じ角度で傾き、もはや重力に逆らうことさえままならない。
「あっ、あっ!」
情けなく叫ぶ次郎丸が鳥かごとともに地面に倒れようとしたその時、なにかものすごく小柄な人影がざあっと風のように彼の視界に走りこんできた。その影は鳥かごの真下へと入り込み、すぐぬ次郎丸の視界から消えたが、鈴を転がすようなかわいらしい声が短く叫ぶ声ははっきりと聞こえた。
「戻れ」
途端に鳥かごは重力の法則に逆らってゆらりと立ち上がり、まるで何事もなかったかのようにすとんと元の通りに収まる。と同時に、次郎丸の眼には、鳥かごの陰に駆け込んできた人影の正体がすっかりと見渡せた。
それは、見た目だけならば小学校の一年生くらいの幼女に見えるだろうか、おかっぱに切りそろえた野暮ったい髪と、幼さゆえにふっくらとした丸い頬がかわいらしい、全く普通の幼女。
しかし、次郎丸はその姿がかりそめのものであることを知っていた。
「師匠!」
そう、この少女は次郎丸に縁結びの術を伝授した今戸神社の招き猫、その仮の姿である。
その少女は次郎丸の隣にするりと身を沈め、その口を片手で押さえて声を封じた。
「しっ、大きな声を出さないの!」
そこで次郎丸は、その手を軽く押し返して小声で話す。
「師匠、いったい何をしにきたのじゃ?」
その幼女は悪びれる風もなく、むしろニコニコと笑って答えた。
「愚弟子の仕事ぶりを見に来たんだけど?」
次郎丸は少しかしこまって地面に片膝をつく。幼女は小さな手を伸べて、次郎丸の頭を優しくなでた。
今の次郎丸は子供とはいえ、招き猫少女よりも少しばかり年上なのだから、この光景は奇妙なものである。まるで幼い兄妹の兄が聞かん気の強い妹にたしなめられているような……。
その姿勢のまま、次郎丸はゆっくりと頭を下げた。
「あのおなごが所沢かなえですじゃ。ワシは三世の縁により、かなえに良縁をもたらさねばならぬゆえ、最初の縁結びは是非に……」
幼女は、急に相好を崩してにんまりと無邪気に笑った。
「ああ、そういう固っ苦しいの、いらないから。別にあんたの仕事がうまくいくとか行かないとか、私には関係ないし」
「じゃあ、何をしに来たのじゃ」
「単なる職場見学。てかさ、次郎丸ちゃん……」
幼女の眼がわずかに金色を帯びて光る。
「チュール、どこにあるの?」
「は?」
「だから、チュールよ、チュール。ここにあるんでしょ?」
まったく、猫というのはどいつもこいつも自由な生き物である。さすがの次郎丸もこれにはあきれて、軽くうなづいて見せることしかできなかった。