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遠野、モノが足りん!

作者: 武田正三郎

 このお話は、佐々木さんから聞きました。

 

 佐々木さんは、冗談が大好きな明るい方でしたが、根はとてもまじめな人でした。私もできるだけその話をそのまま伝えたいと思います。できれば、この話がきみたちに語り継がれて、何かの役に立ってくれればと願っています。


 佐々木さんの実家は岩手県の遠野市というところで、山や田んぼがあって、昔の日本のふるさとの風景がそのまま残っているような素敵なところです。それでも、若い人にとっては田んぼよりも華やかな都会がよかったのでしょう。佐々木さんは、学校を卒業すると、そのまますぐに東京に出て新聞社に勤めました。そして記者をやっていたそうです。


 それは、入社何年かたったころでした。三月なのに、まだ春というにはほど遠い肌寒い曇り空の日でした。編集会議が長引いてお昼が遅くなりました。社員食堂で、特盛の味噌ラーメンを食べ終わったちょうどそのときです。


 最初、かたかた、と揺れたので、地震かなと思いました。


 次の瞬間、ぐらりと揺れました。


 どんぶりに残っていたラーメンの汁が飛び出しました。あわてて机にしがみつきました。椅子から立ち上がろうとしても、揺れて足もとがおぼつきません。


 がたがた、ぐわたぐわた。天井からつりさげられた蛍光灯が大きく揺れて今にも落ちてきそうです。食堂の配膳だなが倒れて、盛り付けてあったサラダボールが一斉に床に投げ出されました。


 ぐらぐら、ぐらぐら。まだ終わりません。

 どこかでガシャーンと窓ガラスが割れるような音がして、ミシミシと建物がきしみます。

 

 ふつう、地震は一分もたてば収まるものなのです。


 もし、地震が来たら、まず丈夫な柱か何かにつかまって、まず一分間辛抱しましょう。そしてそれから落ち着いて、何をすべきか決めましょう。まあ、たいていは一分間で収まります。


 でも、その地震は違っていました。


 二分たっても収まるどころか、揺れは激しさを増してゆきます。

 三分たってっも揺れが収まりません。心臓が早鐘のように打つのがわかりました。

 このままずうっと揺れ続けて建物全体が倒れて潰れてしまうのかと思うぐらい長く感じました。


 五分もたったでしょうか。やっと揺れが収まりました。


 社員食堂は騒然となりました。


 時計を見ました。午後二時五十分。


 佐々木さんが仕事場の編集部に戻ろうと、エレベーターの前に行ったら、非常停止していて乗れませんでした。仕方なく階段で地下の食堂から五階の編集部まで駆け上がりました。階段は、窓ガラスの割れたガラスの破片だの、倒れた本棚から放り出された本だので散らかっていました。壁が割れて大きな亀裂が入っているところもありました。けがをしないように転ばないように気をつけて急ぎました。


 編集部に戻ると、デスクが口から泡を飛ばしながら、指示を出していました。デスクは記者やカメランマンを仕切るのが仕事です。すぐに佐々木さんにも声がかかりました。


 「佐々木君、ヘリコプターで、三陸沿岸に飛んでくれ!」


 仕事机も書類やら何やらが散らかっています。

 

 ペン、ノート、レコーダー、カメラ、ノートパソコン、携帯電話など、取材の七つ道具をリュックサックに放り込みます。災害現場ですから、ペットボトルの水、乾パン、携帯トイレ、寝袋、ペンライト、ラジオ、電池なども詰め込みます。登山に行く準備と思ったらまちがいなさそうですね。そうそう記者証も忘れずに。怪しい人と間違われたら困りますからね。リュックサックに詰め込んだペンとノートのほか、すぐにメモが取れるように、トートバッグにもペンとノートを入れます。


 モノを書く人というのは、たいていペンやノートにはこだわりがあります。いつも使い慣れている愛用のペンが書類の下に潜り込んでどこかに行ってしまっていたりすると、ほかのペンが目に入っても、それを使わずに愛用のペンを探したりするものです。


 佐々木さんが取材に使っているペンは、Z社のノック式のボールペンです。ボールペンは、なめらかな書き味はもちろんですが、過酷な現場でガシガシ使ってもかすれたりしません。それに書いたものが雨に濡れてもインクが流れません。ちなみにキャップがついていないノック式でないボールペンは、ワイシャツの胸ポケットに入れたときに汚してしまうし、かといってキャップつきのボールペンでは、キャップがどこかへ行ってしまってもいらいらします。だからノック式のボールペンです。


 そのほかに、ここ一番の記事の原稿を書くときの、勝負ペンがあります。佐々木さんの勝負ペンはP社の万年筆です。万年筆というのは実に気持ちよくサラサラとペン先が進み、力加減で筆跡の強弱も自在に表現できる優れものですが、お高いのが難点です。P社ののエンジニアが、こだわりぬいて開発したそのペンはペン先がプラスチックにもかかわらず、万年筆に勝るとも劣らない素晴らしい書き味で、しかも値段がお安いのです。


 事故や災害のときは、急にばたばたと飛び出すことが多いので、佐々木さんは取材用のボールペンも勝負ペンも十本ぐらい買い込んでいます。そうすると何本かが書類の下に紛れ込んでいても、一番上にある愛用のペンをひっつかんで飛び出すことができるからです。そんなわけで、愛用のペンは、やたら高価なものより、リーズナブルなお値段のペンが良いのです。


 とにかく荷造りを終えて、会社を飛び出しました。現場へ急行です。


 新聞社というのは、ヘリコプターを持っていて、何かあったときに飛び立てるよういつも空港に待機させているものなのです。もちろんパイロットも社員です。きみたちの中で、もし将来パイロットになりたい人がいたら、航空会社だけでなく、新聞社のお仕事もいいかもしれませんよ。


 ラジオからは気象庁から大津波警報が発表されたと報道されていました。空港に向かっている頃には、最大津波到達したと報じられました。しばらくして津波の高さが十メートルと報じられました。耳を疑いました。そんな高さの津波は、パニック映画か何かのなかだけだと思っていました。いったいどれだけの大きな地震なのか見当もつきませんでした。ヘリコプターに乗り込もうとした瞬間、また地面がぐらりと揺れました。


 羽田空港から三陸沿岸までおよそ三時間。上空から見た海岸線は津波で一変していました。悪夢としか言えませんでした。海沿いはがれきで埋まっていました。ヘリコプターでも降りられる場所がありません。


 もし、地震があったとき、海の近くにいたなら、すぐに高台に避難してください。大人がだいじょうぶと言っても、「先に行ってる」と言って、すぐに高台に避難してください。後で聞いた話ですが、防災無線では、最初の津波警報は最初、三メートルと報じたそうです。三陸沿岸は今まで津波で何度も痛い目にあってきましたから、たいていの港町には立派な防潮堤がありました。ところが、三十分後にせまってきた津波の高さはゆうに十メートルを越えました。十メートルといのは三階建ての建物がまるまる海の下に沈んでしまう高さです。大津波なんてめったにあることではありませんが、とにかく海の近くで地震があったら、すぐに高台に避難してください。


 港町は、もうめちゃくちゃでしたから、パイロットにがんばってもらって高台にあるホームセンターの駐車場に着陸してもらいました。現場に入ったものの、もうすでに真っ暗で何も見えません。とにかく、寒いです。佐々木さんは遠野出身ですから東北の寒さはよく知っています。それでも三月に雪のちらつく寒さと言うのは、東京を飛び立ってきたばかりの佐々木さんにも堪えました。


 そこには、あちこちから人が不安そうに集まっていました。携帯電話もテレビも使えないので、今どこで何がどうなっているか、皆目見当がつかないのです。電気がないので、ファンヒーターも使えません。でも、自分が記者で、皆さんの悲惨な現状を、全国に伝えたいと言うと、皆、いろいろと協力してくれました。


 ヘリコプターで上空から見た三陸沿岸を走る国道四十五号線は、ずたずたに寸断されていました。そこから物資を陸路で運ぶことは難しいでしょう。ということは東北道を使って物資を運び、いったん後方支援拠点の遠野市に物質を集め、そこから三陸沿岸に運ぶことになるでしょう。


 ああ、なんてことでしょう。勝負ペンが見当たりません。出かけるときはたしかにリュックサックに入れたはずなのに。きみたちにもあるでしょう? 我慢して夜遅くまでがんばった宿題のノートをランドセルに入れ忘れたことが。確かにランドセルに入れたはずだと、先生の目の前で、ランドセルをさかさまにしたところで、出てくるのは消しゴムのカスや鼻をかんだよれよれのティッシュペーパーとかしか出てこないという、あれです。


 とりあえず取材用のボールペンで記事の原稿を書き始めましたが、こういうことは、足の裏にひっついたご飯粒のように気になるものです。たしかに入れたはずだがなあ、と勝負ペンの行方が気になって、どうにも原稿がまとまりません。


 それでも何とか記事の原稿をまとめあげて、パソコンに入れなおして電子メールで送ろうと思いましたが、携帯電話がつながらなくなっていました。無線LANもつながりません。これではインターネットにつながりませんから電子メールで原稿を送ることはできません。


 パソコンで入力しなおすぐらいなら、最初からパソコンで入力したらよかろうと思うかもしれませんが、パソコンでは、ときどき誤変換というへまをやらかすことがあります。「遠野物語」と書くつもりが「遠野モノが足りん」になってしまったり。被災して深刻な状況にある方々の様子を、うっかり誤変換でとんでもない表現になって新聞で報道されたら困ります。いくら迅速な報道が命と言っても、ここは慎重に慎重を期すべきところです。

 

 それに、あとで推敲するときも肉筆で書いた原稿というものは、現場の臨場感がありありと思い浮かんで、より適切な表現に辿り着きやすいということもあります。そんなこともあって、佐々木さんはいつも万年筆の勝負ペンで原稿を書きおろしてからパソコンで入力して入稿していたのでした。


 さて、どこか、とにかく原稿を送れるところに行かなくてはなりません。新聞記者の仕事は、読者に伝え届けるところまでです。取材しただけでは、ただの野次馬といっしょです。


「この県道三十五号線を、まっすぐ行けば、遠野に出るだ」


 現地の人が教えてくれました。ここから遠野まではおよそ五十キロメートル。がんばって歩けば、明日の朝までにはたどり着けるかもしれません。あたりはもう真っ暗です。

 

 携帯電話のライトで照らしたところで、県道三十五号線の先は、しんと静まり返った真っ暗な闇が広がるばかりで何も見えません。でもこの惨憺たる様子を記事にして、一刻も早く救援物資が届くようにすることこそ我が使命、と思い定めて、自らを奮い立たせて歩き始めました。


 停電で街路灯もついていないのでとにかく真っ暗です。曇っていて星も見えません。アスファルトの道路のわきは黒々とした森が広がっています。なんだか妖怪が出てきそうです。とても怖いです。こういうときに限って、冷たい雪が降ってきました。まったく三月だと言うのに。でも、津波をかぶって濡れたまま一夜を過ごしている人たちが待っています。一刻も早く伝えなくてはなりません。冷たいのと寒いのを我慢してひたすら歩き続けました。


 笛吹峠にさしかかったあたりでしょうか。このあたりは昔鉄を作っていた工場があったと聞いていました。先の方にぼんやりとした灯りが見えました。暗闇で灯りが見えるというのはとても安心するものですね。近づいてみると古い一軒家でした。停電なのに灯りがついているのは不思議だなあ。懐中電灯でも使っているのかと思って近寄ってみました。もし誰かいて、何か助けが必要なら、それを聞いて、記事にまとめて本社に送らなくてなりません。


 さらに近づいてみると屋敷は石垣の上に茅葺かやぶきの建物がそびえ建つ荘厳な構えです。遠野には南部曲り家と言って、母屋とと馬屋がL字状につながる、こういう独特のかたちの民家があります。


 恐る恐る、玄関の敷居をまたいで土間に入ってみて、ごめんください、と声をかけて見ましたが誰も出てくる気配はありません。どこかの避難所に避難してしまったのでしょうか? どうやら灯りは電灯ではなくて、囲炉裏でちろちろ燃えている火のようでした。


 見れば、柱も黒光りしていて、いつも火を焚いているのだとわかりました。茅葺で作った日本の家は、虫がついたりしないように、いつも囲炉裏の煙で家全体をいぶしているものなのです。まだこんな昔の日本の屋敷が残っていたんだと驚きました。小さいころ、よく泊りに行ったおばあちゃんの家も、こんなでした。燻製のような古い民家の香りが懐かしく思い出されました。


 ちょっとお手洗いを借りようと、ふすまをあけて暗い縁側の方へと回ってみました。縁側と言っても、回転寿司でお皿に乗って出てくるヒラメのエンガワのことではありません。昔の日本の家屋には、床が外までせり出しているところがあって、それを縁側と言ったのです。


 何か気配を感じました。縁側と座敷を仕切る障子しょうじを振り返りました。そこには大きな動物の影が。


 思わず、


「うゎっ!」


と叫んでしまいました。


 その途端、障子の向うでくすくすと笑う声がしました。その影は手で作った影絵でした。なあんだ、驚かせやがって、と思ってほっと胸を撫で下ろしました。


 障子を開けてみると、ジャージの上から赤いスタジャンを羽織った小学生ぐらいのおかっぱ頭の女の子がけらけらと笑っていました。こんな山奥に女の子がひとりで何をしているのかと思って、訊いてみると


「津波で家が流されちゃったから、どこに行こうか考えてるの」


 と言いました。そして


「おじちゃんは何しに来たの?」


 と聞かれたので、


「おじちゃんはね、この地震で被災して困っている三陸沿岸の人たちの様子を新聞の記事にして、全国に伝えるようとしてるんだよ」


と答えました。


「そっか!おじちゃんが、記事にしてくれたら、みんなが助けに来てくれるね。そしたらもう一度お家が建つかもしれないね!」


 女の子は、にわかに元気になって、


「じゃあ、おじちゃん、記事を書かなくちゃ」


 と言いながら、座敷の奥のタンスの引き出しを開けると、古ぼけてはいるものの立派な万年筆が出てきました。その女の子に促されるまま、その万年筆を使って記事の原稿を書き始めました。すると、すらすらと原稿が書けました。まるで、人々を救うために、右手に山の神様が乗り移ったかのようでした。後にも先にもあんなにすらすらと記事の原稿を書けたことはありません。一気に書き終えて、ほっと一息つきました。


 「ん。こんだばみんな助けてるな。流された家ももっぺん建つな」


 女の子は、肩越しに後ろから覗き込んで、書き上がった記事の原稿に目を通すと、にっこりと笑ってそう言いました。


 「おじちゃん、その万年筆持っていきなよ」


 そう促されても、勝手に持ち出すのをためらっていると、


 「だいじょうぶ、後で返しに来ればいいべ。おじちゃんの記事が、被災地の人を救うんだべ。持っていがねかったら困るべ」


 と言ってくれました。


 そこで、座敷の梁の上にある神棚に向かって手をあわせて拝むと、その万年筆を胸のポケットに入れました。


 それにしても、せっかく書き上げた記事の原稿をなんとしてでも本社に送り届けなくてはなりません。遠野の里まではあとどれくらい歩けばいいのでしょうか。


 「だいじょうぶ。あだしが、遠野まで、送ってっで、っから。そどさ出はって!」


 促されるままに、囲炉裏の火を消して、また真っ暗な道路に出ました。しばらく歩くと後ろからやってくる車のヘッドライドが見えました。振り返ると眩しくて思わず、手で目を覆いました。車は近づいてきて目の前で止まりました。車から降りてきたのは大槌町の職員でした。


 記者証とIDを見せて、報道関係者です、と言って事情を話すと、遠野まで乗せていってくれると言ってくれました。遠野市災害対策本部に救助を求めに行く途中なのだそうです。全国の皆さんに一刻も早くこの状況を伝えて助けてほしいと言ってくれました。


「もうひとり乗せてもらってもいいですか」


と大槌町の職員に尋ねると、


「もうひとり? どこさいんの?」


と怪訝そうな顔をされました。


ほら、と振り返ると、さっきまですぐそばにいたはずの女の子はいませんでした。


「あだし、釜石さ、っからよ」


 空中から女の子の声が声が聞こえたような気がしました。いや、確かに聞こえました。でも大槌町の職員の方には聞こえなかったようでした。あの女の子は幻だったのでしょうか。でも、そっと上から胸のポケットを触ると、あの立派な屋敷から拝借した万年筆は確かに入っていました。


 真っ暗な県道を辿って、なんとか遠野市災害対策本部に到着したのは、日付がかわって午前一時四十分でした。発電機でつけた照明を背負ってばたばたと迎えが出てくると、大槌町の職員は、言葉を失い、その場で崩れ落ちて、泣き出しました。みんなに抱きかかえながら「大槌高校に五百人が避難しています。水も食料も全くありません。何とか手を貸してくれませんか」と救助の依頼を伝えました。


 すぐに食料と燃料をはじめとする物資が手配され、それらをトラックに積み込みました。大槌町に向けてトラックが出発したのはまだ夜が明けない午前四時五十分でした。


 佐々木さんは、被災地を取材した原稿をFAXを借りて直ちに本社に送信しました。今日の号外には間に合うはずだと。現地の状況や被災者の声ができるだけ多くの人に伝わって、みんなが動いてくれればと祈りを込めて送信しました。


 遠野市では、自衛隊や警察が遠野を拠点にする訓練をしてきため、陸上競技場、サッカー場、大型駐車場を車両基地や臨時ヘリポートとしてすぐに開放していました。また本部機能を維持できたのは、災害対策として準備していた発電機で電気を確保することができたからです。避難訓練みたいなものは、何も無ければ、無駄なようにも思えます。でもこの場合、無駄ですむことがどんなに幸せなことかわかりますか?遠野市では、災害があったときに備えて日ごろから訓練をしていたとのことでした。こういことはあまりニュースで取り上げられたりしませんが、ほんとありがたいですね。


 その後、消防の救援隊や全国の医療隊も遠野市に結集しました。震災による停電もわずか四日で復旧しました。また、わずか六日で崩落現場を復旧させた日本の高速道路会社は世界中を驚かせました。


 遠野市民一丸となって支援活動にも取り組みました。市民による炊き出しを展開し、毎日おにぎりを届け続けました。稲荷下物資支援センターを開設し、全国から続々と届く支援物資を遠野市に集積、その後仕分けし、要望に応じて被災地へ輸送するとともに、同センターで陳列し、訪れた人に無料配布しました。


 なお、震災後すぐに集結した各種組織の人数三千五百人でした。佐々木さんはそのうちのひとりだったということです。その後、続々と活動団体が増え、遠野市に活動拠点を置く機関・団体・企業等は、延べ二六六団体、活動人員は七千人を超えたと言われています。

 

 さて、遠野市災害対策本部で記事の原稿を本社に送った佐々木さんは、ふっと目を覚ましました。いつのまにか本部のソファーで眠り込んでしまったようです。もっともっと現場のことを取材して全国に伝えなければ、眠い目をこすって起き上がりました。それにしてもゆうべの家や女の子は夢の中のことだったのでしょうか。ちかくに年配の人が何人かいたので、笛吹峠の近くで立派な古い屋敷に迷い込んだことを話てみました。


「ありゃあ、そいづはまよだな」


「んだ、んだ、ここんとこ久しく聞いでねがったっけが」


「ほんで、何かもってきたんが?」


 年配の人たちにとって迷い家の話は、それほど珍しいことではないようでした。佐々木さんは、


「万年筆を一本……」


 と答えて、胸のポケットをまさぐり、例の万年筆を取り出しました。それは、迷い家から持ってきた古ぼけた万年筆ではなくて、いつも勝負ペンに使っているP社の万年筆でした。


「あれ?」


と不思議がっていると、年配のひとりが、


「まんず、それ大事にしな、迷い家から持ってきたもんはご利益あっがら」


 と教えてくれました。


 迷い家で出会った不思議な女の子につていも話をすると、


「あやー そいづは、座敷童ざしきわらすだ」


「んだんだ。そんで、座敷童、釜石にるって言ってたんか?」


佐々木さんがこくんと頷くと、


「ほーっ。そんなら三陸はだいじょうぶだ。座敷童が住み着いているところは幸せになる」


「んだんだ。座敷童が出てがねくてほんに良がった」


「きっと復興する。だいじょうぶだ、がんばっぺ!」


と口々に言って、佐々木さんの肩をぽんぽんと叩きました。そして、


「それにしても、迷い家さ行って座敷童に会うなんて、あんだ、ついてるなー」


 と付け加えました。


 そういえば、小さかったころ、亡くなったおばあちゃんから迷い家と座敷童の話を聞いたのを思い出しました。今の今まですっかり忘れていました。あの女の子、なんとなくおばあちゃんと雰囲気が似ていたような気がします。もしかしたら、おばあちゃんが座敷童の姿を借りて、守ってくれたのかな。迷い家と座敷童の話といっしょに、大好きだったおばあちゃんとの懐かしい思い出が、まぶたの裏にありありと浮かび上がり、思わずなんだかじわーっと涙が出てきました。


 それから、佐々木さんは、しばらく遠野に残って被災地の様子を記事にし続けました。震災が一段落したあとは新聞社をやめて、小説家になったと言うことです。


 ペンネームは、……ひみつ。


 最近、面白かったと思った小説はありませんか? もしかしたら、その小説の作者こそ佐々木さんなのかもしれませんよ。え、小説を読んでない? それは残念だなあ。漢字が難しい? じゃあ、いずれまた、私が何かお話してあげましょう。


 そうそう、遠野の里では、昔語りを聞かせたあとは、ある言葉で締めくくることになっています。佐々木さんも小さいころ、寝つけずにいたときに、おばあちゃんが添い寝しながら寝物語をしてくれました。そして、やはりお話の終わりは、この言葉で締めくくられたものです。


 どんとはらい。


 民話の定番、語り部形式です。子どもたちに読み語りするときは、私をママにしてもいいし、お父さんにしてもかまいません。遠野の里に古くから伝わる、「迷い家」と「座敷童」の話に、東日本大震災のエピソードと教訓に織り込んでいます。古い日本家屋の描写は最小限にしてありますが、すっかり日常から影が薄くなった、襖、障子、土間、囲炉裏、畳、縁側などと言った、日本家屋についても子どもたちに話すきっかけになればと思います。

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