其ノ玖
大正琴が雅な音色を紡ぐ。
曲目は『荒城の月』。
あれから華夜理を呼んだ晶は、身体に無理がないようなら大正琴を弾いて欲しいと華夜理に求めた。浅葱が聴きたがったのだ。華夜理はぎこちない態度でそれに応じた。晶に何かあったのかと訊かれたが、何でもないと答え、紅潮した頬を隠すように俯いた。晶はそんな華夜理をじっと見てから、座敷で待っている旨を告げた。大正琴を弾くのであれば、応接間は雰囲気がそぐわない。
しゃらりしゃらりと琴の音が響く。
大正琴は左手で音階ボタンを押さえ、右手のピックで弦を爪弾く楽器だ。通常の琴よりも比較的弾きやすく、素人にも馴染みやすい。
とは言え、華夜理の腕が非凡であるのは浅葱たちの耳にも明らかだった。赤茶色の屋久杉の卓の上に置いた漆黒の大正琴を、紅型の少女がかき鳴らす様は絵のようだ。
今ばかりは、浅羽も神妙な顔をして琴の音に聴き入っていた。
物憂い音色が、空気中に溶け込み、開け放した座敷の縁側から外へと流々として戯れ出るようだ。
庭に植えられた松や桜の枝枝まで、それは染み入るのではないかと思われた。
『荒城の月』を弾き終えた華夜理はほっと息を吐き、晶を見る。習い性のようなもので、晶も承知した表情でにこやかに頷いてみせた。
「なあ。『さくらさくら』が聴きたい」
普段より幾分、神妙な声色で浅羽が華夜理にリクエストした。
「浅羽。華夜理に余り無理をさせてはいけないよ」
浅葱が窘める。
「それに、まだ季節が早いよ。桜には…」
「良いわ、浅葱。私の演奏で、桜が早く咲いてくれるように祈るわ」
華夜理がにこやかに取り成し、ピックを再び手に持った。
滑り止めのついたピックはセルロイド製で、虹色の光沢を持つ。
以前は鼈甲柄の物を使っていたのだが、誤って琴に開いた丸い穴に落としてしまったのだ。以来、大正琴を持ち歩くと中に入ったピックが微かな音を立てる。
晶は一旦、何か言いたそうにしたが、結局は口を噤んだ。
華夜理の身体が心配ではあるが、彼女の『さくらさくら』を聴きもしたい。結局は琴の音の誘惑に負けてしまった。
そして座敷に再び妙なる音色が流れた。
演奏を終えた華夜理が大正琴を部屋に運んでいる間、浅葱が晶に尋ねた。
「晶。華夜理の記憶の混乱は、今でも起きているのか」
「……ああ。今日、華夜理が風邪気味なのも、昨晩、混乱のままに池で水を扱ったせいだ」
浅葱の眉がひそめられる。
「可哀そうに。医者に診せる積りは本当にないのか?」
「あれは精神科の薬でどうこう出来るものじゃない。華夜理の、ごくデリケートな心の問題だよ」
それを聴いた浅葱は、憐れむように微笑んだ。
その憐れみは誰に向けられたものか。
華夜理か。それとも過度に華夜理に干渉する晶にか。
晶は浅葱のピアスを見る。
ガーネット。または柘榴石とも呼ばれる。
真紅の煌めきに、晶はぼんやりと見入る。
「恋愛成就の願掛けだっけ?」
晶の視線に浅葱が気付き、ピアスに手を遣る。
「ああ、うん」
「乙女趣味なんだよ、浅葱は」
それまで黙っていた浅羽は、口を開くと悪態を吐く。
「まあ、それでもおままごとで満足してる晶よりは数倍ましか」
「浅羽」
「おっと、もう叩くなよ。色男が台無しになる。なあ、晶。あの親指姫のほっぺたって、見た目よりずっと柔らかいのな」
悪童じみた笑顔で発されたその言葉の意味を晶が問い質そうとした時、華夜理が戻ってきた。
やがて浅葱も浅羽も帰ると、広い家の中は急にしんとして寒々しく感じられた。
華夜理は晶が台所で夕食の支度をしている間、手持無沙汰の子供のように傍に椅子を持ってきて座り、従兄弟の背中を見ていた。本当は浅葱たちが来た高揚感がまだ身の内に残り、それは熱を誘発してもいたのだが、今、晶から離れたくはなかった。まるでカルガモの雛のように、華夜理は晶を求めた。じゅわっ、と晶が山菜を揚げる音が響く。
「華夜理。着物に油が散るから離れておいで」
「嫌」
子供のような頑是ない言い様に、晶は思わず苦笑する。
「――――今日、浅羽と何かあった?」
「ないわ、何もないわ」
性急な答えは、それ自体が何かあったと告げているようなものだった。
揚がった天婦羅を大きな丸い織部焼の皿に置く。
緑の釉薬に山菜の緑が添えられ、見た目の瑞々しさが際立つ。
晶は台所の作業用テーブルに両手をつけて、華夜理を覗き込むように見た。
「知ってる?華夜理。ギリシャ神話では冥界で柘榴を食べたベルセフォネーは、一年の内の数ヶ月を冥界で過ごさなくてはならなくなるんだ」
「……知らなかったわ。でも、気の毒ね」
「そうかな。彼女が冥王ハデスを愛していたのなら、あながち気の毒とも言い切れない」
「ベルセフォネーはハデスを愛していたの?ハデスは、ベルセフォネーを愛していたの?」
「それは僕にも解らない。彼らの心を切り開く術を僕は持たない」
「どうしてそんな話を私にするの?」
当然の問い掛けに晶は紅潮した頬の華夜理と、浅羽の言葉を思い出す。
水蜜桃のような華夜理の頬。
真紅のガーネット。
赤い熱。
「華夜理が柘榴を食べて、ずっと僕の傍にいれば良いと思って」
それは奇しくも夢現の華夜理が晶に望んだことと同じだった。