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其ノ捌拾

 一旦、動きを止めた華夜理の心臓が心肺蘇生を経て再び動き出した時、救命室では歓喜のどよめきが起きた。見守っていた晶は拳をきつく握り締め、天上におわす名も知らぬ存在や華夜理の両親に感謝した。よくぞ華夜理を連れて行ってくれないでいてくれた、と。華夜理の状態がそのまま、危険な領域を脱するまで集った人たちは固唾を呑んで華夜理を見守っていた。やがて医師がもう大丈夫ですよ、しばらくは絶対安静ですが、という声を発するまで、彼らにはひどく長い時間に感じられた。幸い病院のベッドは空きがあり、華夜理は個室に移った。

 晶はその間、ずっと華夜理に付き添い離れなかった。その様子を見た浅葱は、弟の肩にぽんと手を置いて、帰宅を促した。


「家で食事の支度をしてるわ。貴方程、上手くは作れないけどね」


 今ではすっかり同居人らしくなった瑞穂が、晶にそう声を掛けた。大人たちも引き揚げた。誰も晶に無駄な言葉は掛けなかった。

 晶は備えつけの椅子に腰掛け、華夜理の寝顔を飽かずに見ていた。

 華夜理の向こうには窓、そしてその窓の向こうには青空が広がっている。もうすぐ暮れかかる空は少し紫めいて品のある美しさがある。華夜理が危険な状態にあった時にはあんなに煩わしかった蝉の声が、今では極上の音楽のようだ。心持ち一つで、人一人の存在の有無で、世界はこんなにも違う顔を見せる。


 ざんぎりになった華夜理の髪に触れる。

 美しいものは元が美しいものであったぶん、損なわれると無残だった。

 それ程までに華夜理は自分を赦せなかったのだと、その心情を思うと晶は遣る瀬無くなる。龍の事故は不幸だが、華夜理が背負うべきものでは決してないのだ。

 ウィルスのせいだけでなく、華夜理は心労も祟って、今回のように重篤の事態に陥ったのではないかと晶には思えてならない。けれど華夜理が責を負うことなど、不幸の当事者である龍を始め、誰も望んでなどいないのだ。桜子とて本当は解っている。彼女は聡明な女性で、一時的に錯乱して華夜理に当たっただけだ。今では自分を恥じているに違いない。


 紫が、濃くなって、オレンジの色調が強まっていく。そろそろ面会時間も終わりに近づいている。


 間宮小路、とマジックで書かれたプレートがベッドのフットボードに提示されている。


 間宮小路。


 忌まわしく面倒で仰々しいこの名前。今までそうとしか感じたことはなかった。

 だが晶は持って生まれた苗字が今程嬉しいことはない。

 華夜理と同じ苗字であることが。


 もう行かなくては、と名残惜しい思いで椅子から立ち上がったその時を見計らうように、華夜理の目がぱちりと開いた。見た者がどきりとするような澄んだ目だった。死線から帰って来た者特有の澄明だろうか。

 次第に紫に、オレンジに満ちる部屋の中、その澄明が晶を捉える。

 酸素吸入器はもう外されているので、一対の桜貝の動きもよく見える。

 華夜理は小さく呟いた。


「晶」


 その、瞬間。

 晶の中に轟轟として蘇る華夜理とのこれまでの記憶と想いがあった。熱波と共に。

 矢も楯も堪らず、晶は華夜理の横に跪いた。


「君が好きだ、華夜理」


 前置きも何もなく性急に告げる。いや、前置きと言うならこれまでが迂遠に過ぎたのだ。


「……どういう好き?」


 か細い問いに、晶は素早く答えた。


「従兄妹として。家族として。そして何より異性、女性として」


 華夜理が泣き笑いのような表情になる。


「ありがとう。私も、晶が好き。ずっと好きだった。晶がいたから戻ってこられたの」


 最後の言葉の意味は晶には解らなかった。


「……どういう好き?」


「従兄弟として。家族として。そして何より異性、男性として」


 合わせ鏡のように桜貝がひっそりと舞う。誓言を紡ぐ。


「晶。貴方が好きよ」


 紫が果て、オレンジが濃くなる。夕映えだ。

 この上なく甘やかな夏の黄昏の入り口に、少年と少女は立っていた。

 蝉が蛹から羽化して生まれ変わるように、二人もまた、新しい日々の始まりを生きようとしていた。




挿絵(By みてみん)







次話、最終回です。11月12日、日曜日の午前9時に投稿予定です。

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