其ノ捌
「もれいづる月の かげのさやけさ」
「藤原顕輔ね。少し季節外れじゃないですか?」
親しい従兄弟に逢えるという気分の高じるまま、百人一首の下の句を口ずさんだ華夜理に、暁子が歌人名まですらりと答えてみせた。
今日は華夜理の具合が芳しくないということで、暁子とは勉強を置いてお喋りに興じている。こうした柔軟な対応もまた、暁子が晶より言いつかったことであった。
四角い漆黒の卓を挟んで向かい合い、二人は玉露を飲んでまったりとした初春の午前中の空気を楽しんでいた。
「ご機嫌ですね。華夜理さん」
「ええ。今日は久し振りに従兄弟に逢えるんです、先生」
「従兄弟と言うと…、晶さんではなく?」
華夜理は首を振る。
「晶は父方の従兄弟。今日逢うのは母方の従兄弟です」
「それは楽しみですね」
「はい」
にっこりと笑む華夜理の顔は花のかんばせと形容するに相応しい晴れやかさで、やや顔色が悪い点を除けば常と変らぬ在り様だった。
母方の従兄弟、と暁子は胸中で繰り返す。
華夜理は随分と親しい様子を見せているが、果たしてその彼は晶のように、華夜理を囲い込んでしまおうとしない気質だろうか、と思う。華夜理の保護者めいた振る舞いの目立つ晶。それに疑問を感じない華夜理。二人の間柄に健全な息吹をもたらす存在であれば好ましい、と暁子は考える。そう思考することはそのまま、暁子が華夜理に肩入れしている現状を示している。それは単なる家庭教師と教え子の関係を逸脱した事実だ。
そしてその事実こそを晶が喜ばしく感じていることを、暁子はまだ知らない。
お昼を過ぎ、華夜理は自室ではなく座敷で、紅型の裾を弄んだりしながら浅葱の来訪を待っていた。晶は当然のことながらまだ帰らない。
お茶の準備をしようにも、浅葱が来る時間が正確には解らない。温くなったり冷めたりしたお茶を出す愚は避けたい。そもそも座敷で応対して良いものか、応接間で応対するものか、それ次第でも出す物は変わってくる。青い藺草の匂いがする座敷と、甘い蜂蜜が似合うような応接間は別種の空間だ。当然、供する物も別種になる。障子を開け放った座敷から見える空は真っ青に晴れていて、浅葱が降られる心配はせずに済みそうだ。手持無沙汰な華夜理は紅型の裾を弄ぶのに飽きると、次は屋久杉で作られた卓の年輪を数えたりなどして時間を過ごした。
そうこうしている内に呼び鈴が鳴った。
弾む気持ちで玄関まで行き、まず誰何の声を上げる。それは必ずそうするように、晶からきつく言われていることだ。
すると引き戸の向こうから、耳に馴染んだ声が応じた。
「華夜理?僕。浅葱だよ、久し振り」
華夜理は嬉しくなって引き戸を開け、親しい従兄弟の顔を拝んだ。
浅葱の通う高校の制服は青いブレザーでネクタイは赤、グレーのスラックス。
お洒落だと華夜理は見る度に思い、晶も学ランよりブレザーのほうが似合う気がする、といつものように思案した。
晶や華夜理と違い明るめで若干天然パーマの浅葱の顔は、和やかに笑んでいる。
「ああ、華夜理だ、久し振り。体調はどう?」
「大丈夫よ」
少しだけ、華夜理は嘘を吐いた。余計な心配を掛けたくなかったからだ。そして浅葱の隣にいる少年を見て、目を丸くする。
「浅羽…も、来てたの」
「来て悪かったな」
爽やかな風のような笑顔の浅葱と違い、仏頂面の少年は、浅葱の双子の弟だ。一卵性なので容姿はそっくりなのだが、纏う空気が二人を明確に別人格に分けて、見る者に区別させていた。
華夜理は迷った末、二人を座敷よりも玄関に近い応接間に案内した。
浅葱は姿勢よくソファーに腰掛け、浅羽は脚を組んでいる。
「ミントティーで良かったかしら。それから、チーズクリームの入ったブッセ」
胡桃材のテーブルの上にティーカップとブッセが盛られた皿が置かれる。置いたあと、華夜理は銀のトレイを横に浅葱たちと対面する形で向かいのソファーに座った。
「嬉しいな。ありがとう」
「ミントはね、私が育てたのよ。自家製。凄いでしょう」
「へえ。華夜理にガーデニングの素質があったとはね」
華夜理と浅葱の遣り取りを聴いていた浅羽が、天井を向いて笑った。高い天井の、アール・ヌーヴォー調のシャンデリアにまでその笑い声が届くかのようだ。シャンデリアの意匠の牡鹿がそんな浅羽を見下ろしている。
そのままくっくっ、と笑いながら浅羽は目尻の涙を拭う。
「ミントぐらい誰にだって育てられるさ。相変わらず親指姫みたいに暮らしてんだな。晶の奴も、過保護の加減を知らない。困った奴だよ」
さっと蒼褪めた華夜理を庇い、浅葱が弟を睨む。
「華夜理に失礼なことを言うんじゃない。庇護者に養育されているという点において、僕たちと華夜理は何ら変わらないよ」
浅羽がむっとした顔をする。
「一緒にするなよな。俺は未成年者にスポイルされた憶えはないぜ」
「誰が誰をスポイルしてるって?」
響いた晶の声に、華夜理と浅葱は喜色を示し、浅羽は渋い顔つきになった。晶はまだ詰襟の制服姿のままだ。
「盗み聞きかよ。品がねえ」
「ここは僕のうちだ。君に品についてとやかく言われる筋合いはないしね」
「は、〝僕のうち〟。ここはそこの親指姫の家だろ?…ああ、いずれは結婚して乗っ取る算段だから変わりないか」
ぱしん、と軽い音がした。
その音は揺るがず聳える応接間の、美しい花柄の壁紙に吸い込まれたようだった。
「言い過ぎだ、浅羽」
浅羽は浅葱に叩かれた頬を何ともないように虚勢を張っていたが、軽くショックを受けているのはその場にいる誰の目からも明らかだった。
「華夜理。僕たちは大事な話をするから、君は部屋で休んでおいで」
晶がとりわけ優しい声で華夜理にこの場からの退場を乞う。
華夜理は頷き、何度か振り返りながら応接間を出て行った。鮮やかな紅型が艶めくマホガニーの扉の向こうに消える。
「浅羽まで来るとは聴いてなかったよ、浅葱」
詰襟のボタンを外しながら、やんわりと晶が浅葱を責める。
「ごめん。どうしても来るって言い張って」
「煩いな。人の勝手だろ」
「それで、君のご両親は相変わらずなのかな、晶」
浅葱の口調がビジネスライクになった。
「ああ。この家の遺産欲しさに、僕と華夜理に既成事実まで作れとの何ともありがたいご命令まで出る始末だ」
ありがたいと言いつつ、その声音は氷柱のように凍てついている。
「例え華夜理と結婚したからと言って、ご両親に唯々諾々と従う君ではないと知っているけれど。華夜理の舅、姑が守銭奴では華夜理が気の毒だ」
「いっそ婿に入れば手っ取り早いだろ?」
伸びをしながら言うのは浅羽だ。華麗なジャガード織りの上で気儘に振る舞う彼はまるで、奔放な猫のようだ。
「華夜理の現状を僕が危惧しているのも事実だよ、晶」
浅葱は弟の言を流して斬り込んだ。
「僕の家で華夜理を養育出来るなら余程そのほうが健全だと思うんだが」
こほん、と咳払いして浅葱が続ける。茶色く縁取られた張り出し窓の外に目を遣りながら。透明な硝子の向こうに見える庭園に、目当ての物があるかのように。
「その、色んな意味で」
「そこな。肝心の問題が置き去りにされてるぜ」
「え?」
弟の指摘に浅葱が瞬きする。
「あの親指姫が晶に惚れてるか?晶はあの親指姫に惚れてるか?どうなんだ?」
「……華夜理は僕にとって誰より慈しむべき存在だよ」
「不合格」
浅羽が冷淡に宣告する。
「お前、それは恋愛じゃないよ」
浅葱は珍しく沈黙して浅羽の言うままに任せていた。
浅葱の耳につけたピアスが赤く煌めく。自由な校風の高校に通っているとこんな時に便利だ。
以前、手痛い失恋をした時、次の恋愛成就の願掛けの為、ピアスホールを開け、小粒のガーネットのピアスを着けた。華夜理に由来を訊かれた時には、いつまでも情熱を忘れない為に、などと適当なことを答えた。
恋愛。
男女が想い合うこと。指を絡ませ、吐息を交わらせ。
華夜理の耳は小粒のガーネットを知らない。
晶もまだガーネットに至っていないように見える。
真紅の熱情が、二人の間に介在するように思えない。
だがそれにしては晶は華夜理に対して甲斐甲斐し過ぎだし、華夜理は晶に全幅の信頼を寄せている。
この二人こそが最たる謎だと浅葱は思う。
最たる謎。そして美しい謎。例えば額縁に二人を収めたら、それは美しい絵になるのだろうけれど……。
浅葱は華夜理と晶と親しくしてはいるが、彼らを遠くに輝く星のように思うことも多くあった。はるか遠い銀河系の星の輝きのように。近いようで遠い。
「とにかく大人の味方を増やしたい。華夜理の為に」
晶は浅羽の言葉に、特に思うところがなかったように話を進めた。浅葱はあえてそれについては触れず、ミントティーを飲むと、晶に尋ねた。ミントティーは淡い黄緑色をしていて、すっきりと爽やかな芳香が鼻腔に届く。
「家庭教師の先生は?」
「今、取り込んでいるところだ」
「あとはうちの両親と」
指折り数える浅葱に晶が嘆息する。詰襟の前ボタンをすっかり外した晶が物憂く嘆息すると、それだけで微妙な色気が醸し出される。
「早く自活出来る大人になりたいよ」
「お前ら二人、あの親指姫に甘過ぎるんじゃないか。砂糖みたいにどろどろだ」
浅羽が行儀悪くソファーに後ろ向きに座り、金色のフリンジを弄りながらぶつぶつと言った。
彼は言いたいことを言うと前に向き直り立ち上がった。
どこに行くのかという問い掛けには「催した」とだけ答える。
応接間を出ると向かいに浴室とトイレがある。長い廊下は年月と共に磨き上げられ飴色の艶を放ち、天井には十二面体の電灯が下がっている。数学的だなと浅羽は思い、華夜理と晶に思いを馳せる。
あの二人からは数学のようにすっきりとした解答が得られない。それが浅羽を歯痒くも苛立たしくもさせていた。
何の因果か、浅羽はそこで華夜理と出くわした。
当然、華夜理は臨戦態勢になる。
仔猫が毛を逆立てているようで、可愛らしく、また他愛なく浅羽の目に映った。
蠢いたのは嗜虐心だったか。
戯れに水蜜桃の頬を唇で掠める。
黒髪が、微かに薫った。
華夜理は目を真ん丸に開いたまま、そこで固まってしまった。