其ノ漆拾捌
救急車から、華夜理は緊急救命室に運び込まれた。
救命室には他にも重篤の患者がいたようだが、晶の目には入らなかった。
華夜理を診た病院の医師、看護師たちは目線で揃って何かの確認をしたようだった。
華夜理はペニシリンを点滴で投与され、酸素吸入器をあてがわれた。
晶は為す術なく自分の無力を噛み締めながら、忙しく立ち働く病院のスタッフたちを見ていた。せめて邪魔にはならないように、部屋の隅に身を寄せて。
「ご家族やご親戚を呼ばれたが良いでしょう」
華夜理を主に診ていた医師にそう言われた時は、肝が冷えた。
「華夜理は助かるんですか」
「今は何とも。万一の場合もあるということだけは覚悟しておいてください」
まるで定型句のような台詞。
万一。
――――――万一?
そんなこと、あって堪るか。
そう叫びたいのをぐっと堪え、晶は救命室から出るとスマホで浅葱たちとその両親、それから弁護士に連絡した。栄子たちには、しなかった。
スマホの時刻表示を見る。
この一刻一刻にも華夜理の命は宙に溶け出てゆこうとしているのだ。
カムパネルラのようになってはいけないと言ったのに。
約束したのに。
笑っていた。
あの日の華夜理がひどく遠くに感じられる。
廊下に立ち尽くす晶の耳に、今年初めて聴く蝉の鳴き声が響く。
煩い。鳴くな。生を謳歌するな。華夜理は死にかけているんだ。
八つ当たりと承知の上で、晶は思わずにいられなかった。
病院の廊下の床はてらてらとしたリノリウムで、天井の電気は蛍光灯で、世界が妙に白々として見える。白く明るく清潔で――――いつでも死者を優しく迎え入れようとするかのような。
(駄目だ)
駄目だ、華夜理、まだ逝かないでくれ。
どんなに優しく手招きされても。美しい歌声、或いは爛漫の花畑や清らかな小川に呼ばれても。
醜悪だとしてもこの世界に留まって欲しい。
その為になら美しいものをありったけ、見せてやる。
華夜理の心惹かれる美しいものを――――…。
華夜理のことが好きだと打ち明けて全ての赦しを乞おう。
(華夜理)
喪いそうになってから、その覚悟がつくだなんて、我ながら何て卑小な人間なんだろう。
蝉の声が晶の思いに共鳴するかのようだ。
「晶っ」
数人の男女が、リノリウムの床を蹴って晶を目指してきた。
浅葱、浅羽、瑞穂、弁護士、月島家の双子の両親たち。
殴られたと気付いたのは、壁に身体を強打してからだった。
「何やってんだ、お前はよっ!」
「やめろ、浅羽」
浅羽に殴られたのだ。眼鏡が吹き飛んで、間宮小路家の顧問弁護士の小山の足元に落ちた。
殴られたのは晶のほうだというのに、なぜか浅羽のほうが泣きそうな顔で、悄然としている。目に浮かぶのは怒りか悲しみか、その両方か。
小山、月島家の家長である亨が浅葱と一緒になってまだ晶に殴り掛かる気配を見せる浅羽を押さえ、宥めている。
小山を呼んだのは頼みになる大人であるからで、決して間宮小路家の遺産相続の話をしたいからではなかった。だが小山は涙もろい性質で、うっすら涙ぐんだ目を瞬かせ、晶にハンカチと眼鏡を差し出しながら言った。ハンカチは、晶の口の端が切れていたからだ。
「晶君。華夜理さんに万一のことがあった場合のことを、話しておくよ」
「やめてください、聴きたくもない」
「聴くんだ。華夜理さんの遺言を、私は預かっている。……万一の時はそれを君に渡すよう言われている」
不意に晶は笑い出したくなった。万一という言葉を、今日一日で自分は何回聴かなければならないのだろう?
「小山さん。その時は私たちも同席して構いませんか?」
浅葱と浅羽の母である和泉が申し出る。それは自分たちの利益を鑑みてのことではなく、晶の心情を慮っての申し出だった。小山が頷く。
「晶君さえ良ければ、もちろん、どうぞ。月島さんにも関係のある話です」
晶はまだじんじんと痺れる口元と熱い頬を小山のハンカチで押さえながら、浅葱と瑞穂の出で立ちを見た。二人共、垢抜けた格好で、デートだったのだろうと解る。彼らはわだかまりなく付き合うことが出来るようになったのだ。晴れた今日の青空は、お似合いの少年少女を煌めかせたことだろう。それを幸福と言わないで何と言う?
晶は自分の今、置かれている境遇と浅葱たちとの落差にどうしようもない虚脱感を覚えた。それでも心臓はまだどくどくと脈打っている。
華夜理が生きるか死ぬかの瀬戸際に恐怖している。
救命室のドアが開く。
「ご家族、ご親戚の方、お入りください」
看護士の声がまるで死神の声に聴こえた。
遺言書は託される本人の意思により、開封時同席する人間の有無を決めることができます。
この内容は法学部を出た身内の意見に基づき書かれてありますが、詳しくは法曹界のプロ(弁護士等)にお尋ねください。