其ノ漆拾陸
「それは……」
言い淀む華夜理に、龍がふっ、と笑った。
「冗談ですよ。そんな風に、貴方を縛り付けても意味がない」
「…………」
病衣に包まれた龍だが、こうした泰然とした態度だけは以前と変わらないように思えた。
龍が窓際を向く。華夜理に背を向ける。
「行ってください。そして二度と、顔を見せないで。貴方を見ると失ったものを思い知らされて辛い。間宮小路の名前も安売りするものではありません」
華夜理は龍と自分の間に分厚くて透明な障壁があると感じた。その障壁はなまなかなことで乗り越えられるものではなく、触れれば火傷しそうに灼熱なのだ。
ここまでなのだ、と華夜理は悟った。
龍の肩が震えている。
龍には見えないままに一礼すると、華夜理は静かに病室をあとにした。
華夜理が家に帰り着くと家にはまだ誰も帰っていなかった。瑞穂は浅葱と逢うらしいから、遅くなるのかもしれない。母親のように晶が晩御飯は食べるかと訊くと要らないと言っていた。浅葱との仲が順調なのだ。
華夜理は自室に入り、床にずるずるとへたりこんだ。
両手で顔を覆う。
瑞穂に対して自分は何なのだろう。
含羞の念が高じて小さな穴に入りたくなる。
結局、自分が龍に出来ることなど最初からなかったのだ。自分がしたことは徒に龍を乱し、貶めただけだった。
金魚鉢をぼんやりと眺める。
とろりとした硝子の透明、縁の青。
中で泳ぐ金魚たちの朱と白。
胸の内から何か例えようのない熱い塊が咽喉までせり上がってくる。
涙が勝手に溢れ、紬の生地を濡らした。
(全ての物事が、円滑に上手くいくように、この世界は出来てなどいない)
もしもそうであるとすれば、これ程に世界は怨嗟や悲鳴に満ちていない筈だ。
世の理不尽を華夜理は呪った。
文机の抽斗を開け、中から鋏を取り出す。
ざらり、と髪を切った。
ざらり、ざらり、と音を立て。
銀色が閃くたび舞い散る漆黒の絹糸。
さながら散華のようであった。
それでいて罪の赦しを乞う儀式のようでもあった。
晶が帰宅して、華夜理の反応が何もないのを訝しみ、彼女の部屋を開けると、そこには散乱した髪の毛と、倒れて高熱に喘ぐ華夜理の姿があった。いつもとは比較にならない高熱に晶はすぐに電話で往診を頼んだ。散乱した髪の毛を片付け、ざんぎり頭になった華夜理の帯を緩めてから寝床に横にして、晶は恐怖していた。
今度こそ華夜理を喪うのではないかと、恐怖していた。